第20話

 ラクトは昔を思い出しながら、ぽん、ぽん、とまるで泣いている赤子をあやす様に優しくレオナの背中を叩く。何度も何度も。お互いの心臓の音さえ聞こえてしまいそうなほど密着し、冷え切った彼女の体に熱を分け与えた。

 その昔、自分がグリアにしてもらったことと同じように、彼女が少しでも落ち着くことを祈りながら、優しく抱きしめる。最初は突然の事態に力の入っていたレオナだったが、次第に身を任せたのか力が抜けていく。


「あ……あぅぅ……あの、ラクトぉ……」

「どうした? もう大丈夫なのか?」

「ぁっ――!」


 ようやくレオナが声を出す余裕が出来たのかと思い、少し体を離そうとした瞬間、レオナの両手に力が籠る。おかげで体勢は変わらないまま、お互い顔を見えない状況が続く。

 しばらくお互い無言だったが、沈黙に耐えられなかったのか、レオナが口を開く。


「……もうちょっと、このままでもいい?」

「……お前がそうして欲しいって言うなら、満足するまで抱きしめてやるよ」

「ん……こうしてると……落ち着く」


 こうしている時の安心感は、他でもないラクトが一番知っていた。

 自身が悪魔憑きかもしれないと聞かされる前から、ずっと不安だったに違いない。家族が殺され、一人放り出された彼女はそれでも気丈に振る舞っていた。それがもしかしたら彼女の中に潜む悪魔の影響かもしれないが、感情が爆発しなかったのはレオナ自身の力だ。

 それでも所詮はただの女子高生。いつまでも耐えきれるはずがない。そこに来て、自分が家族を殺した可能性を突きつけられたのだ。きっと怖くて怖くて仕方なかっただろう。

 そんなレオナがようやく安心していられると言うのだ。なら、彼女が満足するまで抱きしめてあげたいと思う。出会ってまだ二日しか経っていないが、それでも彼女が大切だという気持ちに偽りはないのだから。


「おーい。君達、私のことは無視かーい? 一応これでも体張ってあの悪魔憑きを抑えたんだけど……ねえお嬢さん、私は頑張ったよね? それにラクト、まだあの悪魔憑き生きてるよー。今もこっちに向かって凄い形相で向かってきてるんだけど、おーい」


 そして二人の空間から一人放り出されたナルは必死に訴えかけるが、ラクトとレオナの耳には届かなかった。




 悪魔憑きの男――ロッテン・ザージスが悪魔憑きになったのはつい先日の話だ。

 しがないサラリーマンであった彼の人生は平凡そのものと言ってもいい。

 そこそこ有名な大学を卒業して、中堅メーカーに就職後、友人の結婚式で出会った女性と結婚し、一人の娘を授かることになる。仕事面で特に秀でたわけでもなければ極端に見劣りすることもなかった彼は、順調に出世を繰り返し、家族仲もそう悪くはなかった。


 どこにでもいる男。それはロッテン自身認めるところであったし、それを不満に思ったこともない。

 もし彼の人生にとって大きな不幸があったとすれば、それは悪魔に目を付けられたからに他ならない。悪魔は特別な誰かに宿るわけではなく、たまたま目についた人間に宿るものなのだから。

 とはいえ、例え悪魔に魅入られたとしても、分相応な欲を持たず普通に生活する分にはなんの支障も来さない。人間の欲望を糧に力を増す悪魔は、力の弱いうちは宿主に干渉することが出来ないからだ。

 例え一時、人間の欲望を餌に悪魔の力が増えたとしても、時間の経過と共に悪魔の力は再び弱まる。余程強い欲望か、継続した欲を持たない限り、悪魔が人間を乗っ取れるほど力を得ることはないのが普通だった。


 力の弱った悪魔は自然に人間から離れ、別の人間に憑りつこうと彷徨い始める。そうして相性の合った相手を探し、悪魔憑きとして人間界で暴れ始めるのだ。

 では何故、ほとんど欲らしい欲のないロッテンが悪魔憑きに堕ちてしまったのか。それこそ運がなかったとしか言いようがない。

 ロッテンは大の女子高生好きだった。持っているエロ本やDVDは当然、女子高生物。会社の人間と一緒に風俗へ行くときは当然、女子高生プレイが出来る場所を目指す。

 家庭を持ち、すでに中年と呼ばれる年齢の彼は己の趣味をオープンにすることはないが、自分の部屋にも色々と隠してあった。とはいえ、普通のサラリーマンでしかないロッテンは、別に犯罪に走ろうとかを考えたことは一度もない。あくまでも趣味は趣味。それ以上でもそれ以下でもないはずだった。

 彼にとって運がなかったのは、家にはロッテンが使うパソコン一台しかなかったことだろうか。


 出張で三日間ほど家を空けるとき、娘にパソコンを貸して欲しいと言われ、貸し与えた。もちろんパソコンは家族がたまに使うため、変なデータなど入れていないし、検索もしていないので履歴にも残っていない。

 ただ、パソコンの中に入れていたDVDを取り忘れていた。ロッテンとその家族に起きた悲劇の元凶と言えば、その程度だった。

 その中身に偶然気付いてしまったロッテンの娘は、己の父が女子高生好きだと知ってしまう。知った瞬間、彼女自身も女子高生ということもあり、鳥肌が立つほどの嫌悪感を感じてしまった。

 そして一度気付くともう止まらない。父の部屋を探すと出てくる出てくる。大量の女子高生モノの本やDVD。

 父の性癖を知ってしまった彼女は、これまでの自分を見る目も想像してしまい、ゾッとした。良好だと思っていた父娘の関係が、実は性的な目で見られていたかもしれないと思うと、彼女には耐えられなかったのだ。

 出張を終えて帰ってきたロッテンを待っていたのは、嫌悪感を隠さない娘の姿だった。事情が分からないロッテンは最初、反抗期かと思ったが、そうではなかった。

 娘によって暴かれた己のコレクションの数々。血の気が引いたというのは正にこのことだろう。証拠もすべて残っており、言い訳も何もない。

 もしこの時、娘にこのコレクションを全てを捨ててと言われれば、ロッテンは迷うことなく捨てた。大切な家族と趣味でしかない紙束、どちらを選ぶかなど決まっていたし、許してくれるなら何でもするつもりだった。

 しかし、娘はただ一言――


 ――二度と話しかけてこないで。


 それだけ言うと、まるで路上に落ちているゴミを見るような目で一瞥し、背中を見せる。

 こちらから話しかけても完全に無視。視界に入りそうになったらすぐに自分の部屋に戻ってしまう。母に言うことこそなかったが、娘の中でもうロッテンはいない存在として扱われた。

 コレクションは全て捨てた。許してくれと娘に何度も縋った。だがその度に娘は一歩引き、近づかないで、キモイ、父親だと思ってないなどの罵倒を繰り返す。もうやり直すが出来ない程、二人の間に溝が出来てしまう。


 大切に育ててきた娘に絶交を言い渡され、ロッテンの世界は完全に崩れ去った。己の過去をすべて消し去りたいとさえ願った。こんなことになったのもすべて、女子高生が悪い。

 可愛さ余って憎さ百倍。

 もうロッテンの頭の中では、女子高生という存在そのものが悪だと認識してしまった。すべての女子高生を殺したいとすら思ってしまう。

 傍から見ればしょうもないと思うかもしれない。たかが娘と喧嘩しただけだと笑うかもしれない。ただ一つ言えることは、この時のロッテンは本気で女子高生を憎いと思っていたし、娘の本気で父と絶交したいと思っていた。

 当人同士はどこまでも本気で、だからこそ悲劇が起こる。

 女子高生を殺して、全てをなかったことにしたいという欲望。ロッテンの中に潜む悪魔が反応してしまったのだ。


 悪魔の力を得たロッテンは己の娘を殺し、そしてふらりと街を彷徨うこととなる。娘を殺しただけでは足りない。もっと、もっと憎い女子高生を殺さなければ。そうどこから沸き上がる強迫観念がロッテンを動かした。

 悪魔の力を受け入れれば受け入れるほど、人としての理性は失われていく。そして気が付いたときには、否。気付くことなく、いつのまにか悪魔に体を奪われてしまうのだ。

 偶然一人で座り込んでいたレオナに声をかけたのも、出来るだけ恐怖を感じて欲しいと思うゆえのことだった。そして人目を気にして人払いが完了するまでの時間稼ぎでもある。

 この時、まだ誰かに見られては不味いという理性がロッテンの中には残っていた。やっていることが犯罪だと言う自覚はあったのだ。

 しかし新たな登場人物、ナル・バレンティアによって僅かながらの理性も完全に壊されることになる。悪魔憑きになったばかりのロッテンでは、力が足りずナルに勝つことが出来なかったのだ。このままでは不味いと思い、ロッテンはナルに勝てる力を求めた。求めてしまった。

 そう、己に憑りついている悪魔に、再び欲望という名の餌を与えてしまったのだ。

 そしてロッテンという人間の意識は完全にこの世から消滅することとなる。残るのはロッテンという肉の皮を被った悪魔だけだ。もはやそこにロッテンという人間はいない。

 平凡に生きた男は、運が悪かったというただそれだけで、悪魔に己の運命を食い荒らされたのであった。

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