終章 未来へ歩むために
第45話
暗い、暗い闇の中にある何かにレオナは包まれている。
何も見えないが、この何かは決して自分の敵ではない。まるで母に抱き抱えられているかのように暖かく、父の背中に守れられているかのような安堵感。
生まれた時から隣にあるこの何かを、レオナは知っていた。知っていながら彼女は見て見ぬふりをしてきた。闇の中の何かも、自分を見ないことを肯定する。その選択こそが互いにとって正しいのだとわかっていた。
何故なら闇の中の何かは異質で、決して常人には理解されないもの。一度認識し、理解してしまえば、もう当たり前の日常には戻れないから。
闇の中の何かもそれは望まない。自我を認識した瞬間から傍にいる彼女を、まるで娘のように大切に思っている。
己の中にある欲求を抑え、己の中にある渇望を望まず、己の中にある本能を理性にて封じる。彼女が幸せになることだけを、闇の中の何かは望んでいた。
そして彼女が望むのは、幸せな日常ただそれだけ。
小学校のテストで百点を取って、父の大きく暖かい掌で頭を撫でてもらう。料理の手伝いをして、母に褒めてもらう。そんな様子を微笑ましく見ている使用人達。そんなささやか幸せだけでよかった。
決して自分は表に出てはならない。決して自分はそれ以上を求めてはいけない。それ以上を求めた瞬間、闇の中の何かは、何かではなくなってしまうから。彼女は彼女でなくなってしまうから。
幸せな彼女の傍で見守れれば十分。何かの望みはただそれだけだった。それだけで、よかったのに――
「世界は、それを許してくれなかった……」
「……れ、おな?」
吸血鬼によって襲われ、首に牙の後を残したレオナが、ゆっくりとした動作で立ち上がる。まるで映像を逆再生するが如く傷は消えていき、美しい白い肌には傷一つなくなっていた。
「何故お前達は私を起こす。何故お前達はこの子を苦しめる。何故お前達は、世界はいつもこの子に辛い思いをさせるのだ」
その身の内側からは、純粋な炎を思い浮かべさせる紅色の魔気がユラユラと漏れていた。その声には悲しみが乗せられており、聞く者の心を動揺させる。
「私はただ、この子が幸せであればいいと思っていた。我が子の様に愛しいと思っていた。この身から力をすべて失い、この世から去るその時まで陰ながら見守ろうと、それだけを思っていたのだ」
「お前、まさか……」
「なのに、お前達は一体どれほどこの子を絶望に落とせば気が済むのだ! 答えろ悪魔憑き!」
「ぐっ――!?」
予備動作もなく振るわれたレオナの腕。ラクトは咄嗟に両腕を腹の前でクロスし防御態勢を取るが、普通の人間ではあり得ない、大型トラックのような衝撃を受けて耐え切れずに後ろに押し出される。
地面から摩擦による火花を飛び散り、靴の底を削り取る。何とか止まることに成功するが、ラクトの顔には驚愕が残されていた。この力は間違いなく悪魔憑きであり、とてもレオナの素の力とは思えなかったからだ。
レオナはいつもと異なる、紅い瞳でラクトを見る。
「お前はこの子を守ると決めたのではないのか? だというのに、いったい何をやっている。一体何度この子は悲しみに嘆き、泣けばいいのだ? 守ると豪語するなら、心も体も守らなければならないのではないのか?」
「…………」
ラクトは何も答えられない。守ると言った。守ると決めた。だと言うのに、自分は今まで彼女をどれほど守ることが出来たというのか。振り返れば、彼女はいつも泣いていた気がする。
「この子の感情が壊れそうなとき、私は内側から干渉し続けた。出来るだけ平静になれるよう、彼女の心を制御しようと何度も試みたのだ。そこまでしてさえ、彼女の心は何度も壊れかけた」
レオナの立ち直りが早いと思ったことは何度もある。グリアとの話し合いで、恐らく身に宿った悪魔から何かしらの干渉していると予想していた。まるで彼女を守るかのような行動だが、それすらもその体を乗っ取るためのモノだと考えていた。
だが、今まさにここで対峙しているレオナに憑りついた悪魔は、確かにレオナの身を案じているような気がする。
「……お前は、レオナを守ろうとしていたのか?」
「そうだ」
迷いのない一言。悪魔は人間の肉体を奪うことのみ考えているのが一般的だ。間違ってもここまで明確な自我を持ち、宿主を守ろうとする悪魔などいないはずだった。
「なら――」
ラクトが何かを言うよりも早く、レオナが距離を詰めて拳を振るった。技術も何もないそれだが、すでにクルールとの戦いで消耗した今、単純な身体能力がラクトを遥かに上回っていた。受ければ大怪我は免れないと判断して、咄嗟に躱して距離を取る。
躱されたことに憤りなどは感じていないのか、レオナはゆっくり視点をラクトに向け、冷めた瞳で見下す様に眺める。
「なら、なんだ。まさか共に歩めるとでも思ったか? 悪魔を身に宿し、世界を破滅に導く害悪な存在でしかないお前達が」
「お前だって悪魔じゃねえか!」
「そうだ。だからこそ、己の存在自体の罪深さを誰よりも知っている。我らは依代がなければ満足に生を掴むことすら出来ない泡沫の存在でしかないというのに、その心に持つ欲望だけは際限がない傲慢な生き物だ。この子も悪魔などがいなければ、もっと幸せな人生を歩めたはずだった」
レオナは後悔に満ちた苦渋の表情をする。だがそれも一瞬。すぐに表情を氷の様に凍結させると、再びラクトに迫る。
「くっ!」
次々と繰り出される暴虐の嵐に、ラクトは反撃も出来ずに避ける事しか出来ない。例え反撃するチャンスが生まれようと、ラクトの中にレオナを傷付けるという選択肢がない以上、無駄な物でしかないのだ。そしてレオナはそんなラクトの躊躇いを理解しながらも、手を緩めるような真似は一切なかった。
「この子が再び幸せを得るには、この世界は残酷すぎる」
レオナの指先から伸びた紅い魔気で生み出された爪が、ラクトの頬を掠る。
「っ! だったら、どうするってんだ!? このままお前がレオナの体を奪って一生を生きるつもりか!?」
「この子にはこの子の人生がある。それを例えわずかな時間とは言え、奪うことなど本来は許されない。私はこの子の身の安全さえ確保すれば、後は自然に身を任せて消えるのを待つさ」
一転、まるで我が子を見守る母親のように優しげな顔をする。それだけでこの悪魔がレオナをどれだけ大事に思っているのかが伝わり、一瞬ラクトの動きが鈍った。そしてそんな隙を逃すような甘い相手でもない。
「がっ!」
レオナの爪がラクトの肩に突き刺さり、焼けるような痛みに思わず呻き声を上げてしまう。
「これはただの八つ当たりだ。この子を守り切れなかったお前に対する、な」
「ぐっ……だったら、やるだけやってさっさとその体を返せよ……」
「ふん、別にお前を殺そうとは思っていないさ」
そして爪を引き抜くと、正面から蹴られラクトは地面に背中から倒れる。
「一応お前はこの子を守ろうとしてくれたからな。これでも感謝はしている。それでもこの子を泣かせた罪は重いぞ。せいぜいそこで痛みにのたちまわっているがいい」
「ぐ……あ、ああああ……」
彼女の言葉通り、ラクトは引き抜かれたにも関わらず、灼熱の激痛は離れることを知らない。むしろ、どんどんその痛みは増していき、苦悶の声が喉の奥から零れ落ちる。
そして瞳を動けないクルールへと向ける。体は怒りで震えており、目は完全に見開き絶対に逃がさないという心が籠められている。
「この子の中から見ていたぞ……この子を守ろうとした女を切り裂き、さらに恐怖に怯えるこの子の心臓を貫き命の危険に曝した貴様は絶対に許さん! 例えこの子が許してもだ! その命が消えるまで、苦痛の中で生きていたことを後悔させてやる!」
動けないクルールに向けて、レオナが歩き出した。そして二人が向かい合う。お互い瞳には激情と言ってもい程の大炎が宿っており、二人の間で空気が歪む。だが、ラクトによって四肢を破壊され、ボロボロのクルールに出来る事はせいぜい、口を開き罵倒することだけだ。
「……はあ、最悪だ。最悪だよ最悪だね。十年以上願って願って願い続けて、ようやく願いが叶うと思ったら最後はこれか……」
「黙れ。口を開くな」
「グゥ――!」
間髪入れずにレオナが倒れるクルールの顎を蹴り上げる。凄まじい勢いで振るわれたそれは目標を違うことなく吸い込まれ、数メートルほど体を浮き上がらせた。更に勢いよく地面に叩き付けられると、クルールの両手首を紅い爪で切り裂いた。
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