第46話

「――ッ……っ」

「貴様に弁明の余地など欠片もない。ただこの世に生を受けたことに絶望して死んで行け」


 信じられない激痛を前に、それでも声を漏らさないクルール。瞳は依然として猛獣のようにギラつかせ、レオナを睨みつける。だがもはや虫の息と言ってもいい惨状では、どれほど殺気を籠めたところで彼女を怯ませることなど出来ないでいた。


「命乞いでもしてみるか? 涙を流し、額を地面に傅かせ、情けなくも怯えながら死にたくないと言ってみるか?」


 クルールの腹部に足を置き、ゆっくりとその足を重力の方向に向けて力を籠めていく。


「ガ……グゥゥ……」

「どれだけのことをしたとしても許さんけどな。貴様は細々に切り刻んで家畜の餌にしてやる。さあ、次はどこを落とされたい? 手首の次は足か? それともその情けなく伸びている腕でも切り飛ばしてやろうか?」

「ゴハッ……ァ……」


 嗜虐的な笑みを浮かべながら、レオナは足にかける力は弱めない。それどころか徐々に強くなっていく力に、クルールはもう満足に呼吸も出来ず目玉が飛び出しそうになる。


「そうか、そうかそうかそうか。もう何も言えないか! ハハハハハ! 何だ貴様あれほどこの子を追い詰めようとしていたくせに、その醜態は最悪だな! 笑いを通り越して滑稽だ!」


 そうして空を仰ぎ、大きな声で高笑いするレオナに、一つの影が近づいてくる。その気配に気づいたレオナは、首だけをそちらの方向に向けた。そこにいたのは、肩に手を当てて苦しそうな顔をしているラクトの姿だ。


「レオナ……」

「……ふむ、まだ動けるのか。私の爪につけられた傷は酷く痛むだろうに」

「ハッ、この程度、蚊に刺された程度の痛みしか感じねえよ」


 だが、言葉とは裏腹にラクトの顔は酷く歪んでおり、その言葉が虚勢でしかない事は誰の目にも明らかだった。レオナの爪には傷付けた場所にこの世の何よりも激しい痛みを与える力を持っている。あれほど狂気に身を宿したクルールや、何度も修羅場を潜ってきたラクトでさえ、それは例外ではなかった。

 常人ならば身動き一つ出来ないはずだ。だからこそレオナは若干の驚きと、こうして近づいてきた理由に疑問を覚えた。


「それで、一体何の用だ? まさかこいつを助けようとでも言うつもりではないだろうな?」

「まさか……こいつは今でも俺にとっては大切な女を殺した男だ。絶対に許さねえに、殺したいほど憎んでる」

「……ふん」


 その言葉を聞いてレオナは顔をしかめて不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「だったら私の邪魔をするな。心配せずともこいつはきちんとこの手で地獄に落としてやるさ」

「やめろ」


 だがそんなレオナの肩を掴むと、力尽くでクルールから引き離す。まさかここでラクトから何かをされると思っていなかったレオナは、不意を突かれたたらを踏んでしまうが、すぐに体勢を整え直しラクトを睨みつけた。


「貴様……一体何のつもりだ。場合によっては貴様といえど容赦はせんぞ」

「レオナは……そんなこと望んでねえんだよ」


 それは決して大きな声ではなかった。だがそれでも、はっきりとレオナの耳に響き渡る。


「貴様にこの子の何が分かる……殺されそうになった相手を、殺したくないなどと思うような人間がいるとでも思っているのか!?」

「いるさ! 少なくとも、レオナは自分の安全の為に誰かを殺そうなんて思うようなやつじゃねえんだよ! そんなやつが自分が死ぬかもしれないのに俺を止めるなんてこと出来るわけねえだろ!」

「なっ!?」


 あまりの怒号に、レオナが一瞬怯む。そこに畳みかけるように、ラクトが口を開いた。


「だいたいテメエは何様なんだよ! いきなり出てきて纏まりかけてた場を荒らして、滅茶苦茶にしてるだけで何の解決にもなってねえだろ!」

「――なっ、この……言わせておけば! 私が表に出て来なければ、この子はあのまま死んでいたんだぞ!」

「それだけは感謝してやる! けどもう怪我も治ってんだろ!? だったらさっさと引っ込めよ! こいつはなぁ、俺が覚悟を決めて殺しをしようとした時だって止めてくれるようなやつなんだ! 馬鹿なんだよ、クルール殺さなきゃ自分が死ぬかもしれないのに、それでも俺が殺しをしたくないって我儘を覚えてて優先するような、そんな最高の女なんだ! お前みたいな頭の固い悪魔がいつまでも動かして良いもんじゃねえんだ! だから――」


 ラクトはレオナの両肩を掴むと、一気に顔を寄せる。


「俺の……俺の愛した女の体をいつまでも使ってんじゃねえぇ!」

「――なぁっ!? ん……」


 そして、その唇に自分の唇を合わせた。


「ん……あぁ、やめっ……んんん……ん、ん……あっ……」


 最初は抵抗をしようとしていたレオナだったが、ガッツリ掴んだラクトはその手を決して離さない。そして徐々にレオナから力が抜けていき、次第にその身をラクトに任せる様になる。二人の唇の間から唾液が垂れ始め、頬は紅潮し、息は乱れ、信じられないほど官能的な世界が二人を包む。


 十秒、二十秒と続いていたそれは、どちらからとも言わず、二人同時にゆっくりと離れる。レオナの瞳はトロンとしており、ぼうっとラクトを見ていた。ただ、色が燃える炎のような紅色から、普段の蒼穹のような青色に戻っていた。

 それはつまり、レオナの中で眠っていた悪魔が再び彼女の中に戻り、そしてレオナは自分をちゃんと取り戻した証拠だ。


「……あ、らく……と?」

「目が醒めたか……お姫様?」


 そして二人は互いに見つめ合う。


「あの、私は……」

「覚えてるのか?」

「うん……まるで夢を見てるような感覚だけど、ちゃんと全部覚えてる……ねえラクト、その、ごめ――んんっ!?」


 レオナが言葉を言い切るよりも早く、ラクトがレオナを抱き締めた。力強く、絶対に離さないという意思を籠めて。


「よかった……お前がちゃんと生きてて……戻ってきてくれて、本当に良かった……」

「……ラクト、泣いてるの?」


 ラクトの声は震え、レオナには見えないが頬のあたりに涙が流れてくる。まるで幼子のように体を震わせて、動揺しているのがレオナにははっきりとわかった。レオナはラクトを安心させるように両腕を背中に回し、優しく慰める。


「大丈夫だよ……私はちゃんとここにいるもん。アンタが、命がけで守ってくれたから……」

「……うぅ……うっ」


 いつも余裕を見せて、からかう様にレオナを笑う男の姿はどこにもない。そんな彼が愛おしく、レオナは何度も何度も背中をさする。そして――


「だから、これだけは言わせて……ありがとう、ラクト。愛してる」

「――っ」


 一瞬だけ体を離すと、レオナはラクトの唇にそっと口づけをした。

 そのキスは甘く、優しい味がした。

 空に浮かぶ月が優しく二人を包み込み、どこからともなく小鳥や羽虫が戻ってくる。遠く聞こえてくるサイレンの音さえも、今の二人を祝福する歌に聞こえてくる。

 長く続いた一人の少女を取り巻く事件はここに解決した。一人の寂しがり屋な悪魔達は己の過去を終わらせ、ここから先は未来に生きる。

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