第29話

「おかしいなぁ……僕の剣で君が血を流すなんて……あっていいことじゃないのに……」

「こ、のっ……野郎!」 


 クルールの体から白色の魔気が発せられると、剣に籠められる圧力が更に増し、じりじりと押され始めた。ピリピリと肌を刺すような痛みを感じるのは、単純な魔気の総量で負けているせいだ。欲望を解放しろと己の内に住む悪魔が囁き、体に嫌な不快感を与えてくる。


「久しぶりに会ったんだ。ちゃんと本気でやろうよ」

「うるっせぇ! 俺は本気だよこのクソ野郎が!」


 その言葉にクルールは馬鹿にするように顔を歪める。


「はっ、まさか。そんなわけないじゃないか。ほら、いいんだよ? 別に弱くなったからって、アレまで出来なくなったわけじゃないんでしょ?」

「だったら……どうだっていうんだ……よっ!」


 このままでは押し負けると判断したラクトの行動は早かった。反対側の腕に力を籠めると、今まさに己の右腕を両断しようとしている剣の腹を打ち付ける。その衝撃で逸れた剣はラクトの体の横を通り過ぎ、地面を穿つ。大きく体勢の崩れたクルールに、ラクトは出血した腕など気にせず一撃を加えようとするが、大きくバックステップされたせいでその拳が当たる事はなかった。


 二人の距離が再び大きく開く。ようやく動きを止めた二人は、互いの姿を認識しつつ周囲の動きにも敏感に感じ取っていた。一体何度目になるか、クルールが相変わらず冷たい瞳を呆れさせて溜息を吐く。


「ふう……ここまで強情だと困ったなぁ。どうすれば昔の君に戻ってくれるんだろうか?」

「はっ、生憎だが、お前の思い通りになんて一生なんねえよ。ざまあみやがれ!」


 ラクトが中指を立ててクルールを挑発する。対してクルールは顎に指を当てると、考え事をするように視線を上へと向けた。


「うーん、そうだなぁ……一年前はどうしたっけ? ええと……えーと……あ、そうだ!」


 そして、何かを閃いたかのようにポンっと手を叩くと、視線をスライドさせる。その先に居るのは、ラクト、ではなく――


「えっ?」


 二人の動きを捕えることの出来ず、ただただ戦場に一人残された少女、レオナだった。その距離は百メートルを超えるが、二人がその気になれば、ほんの数秒程度で縮まる距離だ。だからだろう、レオナはその視線を受けた瞬間、背中に冷たい氷を押し付けられたかのような寒気を感じた。

 ニタァ、とクルールの口元が三日月状に歪み、瞳から光が消える。


「彼女を殺せば……昔の君に少しは近づくかな?」

「なっ! やらせるかぁぁっ!」


 二人同時にレオナに向けて飛び出す。一人は殺すために、もう一人は守るために。

 ほんの僅かだが、クルールが前にいる。レオナは動けない。迫りくる脅威に対抗できる力などなく、ましてやその動きを満足にとらえることすら出来ないのだから当然だ。レオナの目の前に現れたクルールが一言、


「じゃ、ばいばい」


 そして白銀の刃が、レオナの首元を目がけて正確に襲い掛かる。ラクトも必死の形相で手を伸ばすが、その手は届かない。レオナを含め、この場この瞬間に立っている者全員が、訪れるであろう鮮血の未来を想像した。


「っ――!?」


 瞬間、甲高い音と共にクルールの腕が跳ね上がる。何が起きたかわからず、驚愕の表情を浮かべ、体が一瞬だけだが硬直した。そしてその一瞬あれば、ラクトが追い付くことは可能だ。


「吹き飛びやがれ!」

「ぐっ!?」


 正真正銘、力の限りを籠めた蹴りが炸裂する。怒りのせいか、籠められた魔気の総量も先ほどとは比べ物にもならない。さすがのクルールも苦悶の声を上げ、耐えきれず数十メートルの距離を飛ぶ。受け身を取ることも叶わず、地面を削るように進み、煉瓦で出来た一軒の店にぶつかってようやくその動きを止めた。

 ラクトはレオナを守る様に背を向け、クルールを警戒した目付きで睨みつける。


「あっ……」


 そこまでの出来事を終えて、ようやくレオナは今の自分の立ち位置を正確に理解した。殺されかけた、という事実が脳に浸透し、今更になって体が震え始める。


「大丈夫か?」


 ラクトがレオナに問いかける。決してクルールに背を向けることなく、背中からかけられた声だが、その声には優しさと安堵が含まれているのが分かる。


「う、うん……え、やだ、なんで?」


 恐怖か、それとも安心感からか、胸の奥から感情の波が溢れ、ぽろぽろと涙が零れた。拭っても拭っても涙は溢れ、ついに体から力が抜けて地面に腰を落としてしまう。以前悪魔憑きに襲われた時以上の狂気を間近で受け、人としての感覚が一時的に狂ってしまったのだ。そしてそれがラクトに守られているという安堵から正常に戻り、一気に襲い掛かる感情の嵐を前に制御出来ず、こうして涙が止まらなくなっていた。


「悪い、今のは本気でやばかった」

「だ、だいじょう、ぶ、だから……その、傷もないし……っ」


 ラクトの心配を取り除きたい一心で気丈に振る舞おうとするが、声の震えを止めることが出来ない。だがそれでも気持ちは通じたのか、なんとなくラクトがホッとしているのがわかった。


「ははは、今のは結構よかった。ほんの少しだけだけど、感じた殺気といい、一撃の威力といい、昔に戻ったみたいだ」


 立ち上がったクルールが、ゆっくりと歩いてくる。言葉のとおり、腹部に受けた一撃は今度こそダメージになったようだが、致命傷には程遠い。その動きにも不安定さはなく、戦闘に支障はなさそうだった。


「けどまあ、まだまだだね。今の君ならまだ僕で十分倒せそうだ」

「ざけたことを……舐めた口叩きやがって!」

「うん、口調も少しづつ戻ってね。良いことだ。さ、それじゃあ続きを、って言いたかったんだけど、流石に今日は終わりかな。流石に君達二人を相手にするのは分が悪い」


 そう言ってクルールは視線をラクト達から、その先にある建物の屋上に移す。


「なんじゃ、もうしまいか?」


 そこから一つの影が飛び出すと、ラクトの横で着地する。ラクトは気付いていたのか特に反応を見せなかったが、レオナは驚きで口を開いてしまう。


「あ、あ、あ……グリア先生!?」

「うむ。危なかったのぉ。まさしく危機一髪じゃった」


 小柄な体躯に白衣を翻し、颯爽と現れたのは青髪の少女――カログリア・レージェント。かつて世界最強のニードとして名を馳せ、今は世界で唯一のニード専門医として尊敬と称賛を受け続ける才女だ。見た目は十歳程度にしか見えない彼女だが、その容姿はすでに何十年もほとんど変わっておらず、カログリアの名前を聞いた後に彼女と出会うと、大抵の者は驚愕し懐疑的な瞳で見るようになる。

 だが、その実力は間違いなく本物である。先ほどクルールの剣がレオナを捉えようとしたその瞬間、彼の腕が跳ね上がったのはグリアによる投撃が原因だった。クルールほどのニードでも、衝撃を受けるその直前まで攻撃の気配を悟ることが出来ず、その腕は現役を離れてなお、最高峰だと言える。


「……悪いグリア。マジで助かった」

「なんじゃお主が素直に礼を言うとは珍しい。これは明日は大雪か……カップラーメンの補充でもしておかねばならんな」


 グリアは二人に軽い調子で声をかけると、その体をクルールに向ける。その顔に怒りや悲しみなどはない。いつも通りの表情で、いつものように声をかけた。


「久しいのクルール。まったくラクトといい、お主といい、帰ってきたんなら一言くらい声をかけてこんか」

「本当に久しぶりだね、グリア。ちょっと事情があってさ、顔出そうと思ったんだけど、今は仕事中だから我慢してたんだ」


 自分の邪魔をした存在であるにもかかわらず、クルールはまったく気にした様子を見せずに無邪気な笑みを浮かべた。その表情はとても狂ったような笑みと嘲笑を繰り返していた人物とは思えない。

 レオナには二人の会話が、久しぶりに故郷に帰った息子に母親がたまには帰って来なさい、と苦言しているようにも聞こえた。本当に親しそうで、どこか見えない絆を感じ困惑を隠せないでいる。


「ま、壮健そうで何よりじゃ。なにやら面倒臭そうなことになっとるが、この子は儂の患者でな。殺させるわけにはいかんのよ」

「あー、そのことなんだけどさぁ、ラクトを焚き付ける為に殺そうとしたけど、実は今殺す気はないんだ。ちょっと依頼で連れて帰りたいんだけど、駄目?」

「駄目じゃ」

「あ、そう。じゃあ今日は諦めよっと。まあ収穫がなかったわけじゃないし、ラクトも今後に期待かな」

「テメエ、このまま帰れると思ってんのか?」

「思ってるよ。今の君じゃ僕には勝てない。絶対にだ。グリアだって帰ろうとしてる僕をわざわざ引き止める気もないっぽいしほら、僕を止めれるやつなんていないじゃないか」


 それが事実であることは、ラクト自身はっきりとわかっていた。歯が壊れるのではないかと言わんばかりに歯ぎしりし、悔しそうな顔を浮かべながらも反論はしない。


「じゃ、そういうことで。またねラクト、グリア。多分近いうちにまた僕の方から会いに行くから。あとそっちの悪魔憑き。君にも用があるから、まあ特に会いたいわけじゃないけど、そのうち迎えに行くよ。それじゃあね」


 遠くで鳴り響くパトカーのサイレンがリングベルトの街に鳴り響く中、レオナの心に不安を残したクルールはそう言い残して堂々と立ち去っていく。


 気が付けば空を悠々と泳ぐ月は本来の姿を取り戻しつつある。その月明かりが残された三人の影を作り、レオナは自分と違う自分が笑っているような気がして、知らずに恐怖を感じてしまう。


 ――満月の夜は近かった。

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