第40話
「どうすればそいつを生かしてくれる!? 何でもする……何でもするからそいつだけは殺さないでくれ!」
ラクトはなりふり構わず必死に声を張るが、それをする度にクルールの顔は不機嫌になっていく。当たり前だろう、彼からすればこんなに弱い姿を見せるラクトなど見たくはないのだから。それが分かっていても、ラクトに出来る事など他にはない。
「うーん、何度も言ってるんだけどなぁ……それでもわかってくれてないみたいだし、殺しちゃった方が早そうなんだよねぇ」
「待っ――!」
「けどまあ、ラクトからのお願いなんて今まで一度もなかったことだし、少しくらい聞いてみてもいいかもね。ふふふふふ」
そう笑いながら、クルールはもう用済みのゴミは邪魔だと思ったのか、レオナを放り投げる。
慌てて受け止めたラクトだが、すでにクルールの剣で心臓を貫かれている以上、いつどこにいてもレオナは殺される運命にあるのだ。安心など出来るはずもなく、歯が砕けてしまいそうなほど強く食いしばる。
「俺は……何をすればいい」
「そうだなぁ……例えば、その女をそこの悪魔憑きと同じように壊して、って言うのはどう?」
「ふ、ふざけるなっ!」
そこの悪魔憑き、とクルールが指差しているのは、ラクトによって四肢を壊され、芋虫の様に這い蹲っているレジーナだ。彼女はラクトとクルール、二人の事を恐れているような、それでいて殺してやりたいと恨みの視線を向けながら、口をだらしなく開けて涎を垂らしていた。
気絶しているレオナを壊すのなど、それこそ蟻を潰すのと変わらないくらい簡単に出来る。だが、そんなことが出来るはずがない。だからこそ、ラクトは声を大にして殺気を叩き付けた。
「あれ? 出来ないの? さっき何でもするって言ったのにあれは嘘だったんだ……じゃあ、それが壊されても仕方ないよね?」
「待てよ! 待ってくれ!」
ラクトが焦ったように声をあげる。それを見たクルールは、白銀の剣をチラチラ見ながらくすくす笑っていた。
「なーんてね。冗談冗談。せっかくラクトが何でも言うことを聞いてくれるっていうんだ。いつでも壊せる雌なんかにこんな権利使うのもったいないよね。あはは、ていうかラクトビビリ過ぎじゃない? ……そんなの『純粋悪魔(ピュア・ブラック)』じゃないよね」
だが、笑っているにも関わらず、最後の言葉は恐ろしいほど低い声だった。
この喜怒哀楽が壊れてしまったような感情の不安定さは、ラクトの知っているクルールではない。昔はもう少し人らしい感情があったはずだが、それもいつの間にかこんなにおかしくなってしまった。
自分のせいなのだろうと、なんとなく分かる。クルールをここまで狂わせてしまったのはきっと、崇拝の念まで持っていた自分が彼を裏切ったせいなのだ。だがだからと言って、リフォンを殺したクルールを許せるはずもなかった。
クルールは剣を地面に突き刺すと、うーんと腕を組んで悩んでいる様子を見せる。その様子を戦々恐々と伺っているラクトに、出来る事はない。そしてしばらくすると、まるでいいアイデアが思いついたと言わんばかりに笑顔で両手を叩く。
「よし、こうしよう。ラクトは本気で僕を殺しに来る。それで、少しでも手を抜いたりしたらそこの雌を殺そう、そうしよう」
「……本当に、それでいいのか?」
そして出されたアイデアというのは、ラクトの目を丸くするものだった。この提案にクルールの得することなど一つもないのだから当然だ。むしろ何かまた余計な事を考えているのではないかと警戒する。
「うん、もちろんさ。思えばこうしてラクトと遊ぶのなんて、何年振りだろうね。あ、もちろんちゃんと約束は守るよ。このゲーム中、ラクトが本気で僕を殺しにかかっている間は、僕は絶対にその雌に手を出さないし、殺しもしない」
それでも、藁にも縋る気持ちでしかないが、この勝負を受けるしかない。それ以外にクルールからレオナを守る手段など、持ち合わせていないのだから。
「約束は……守れよ」
「もちろん約束は守るよ。悪魔にとって約束がどれだけ重いか、それはラクトが一番知ってるんじゃない?」
「……ああ」
その通りだった。本来、悪魔憑きにとって約束という言葉は非常に重たいものだ。だからこそ、ラクトは悪魔憑きや他の誰かを殺す事が出来ないし、それはいくら犯罪者に堕ちたとはいえクルールにも十分適応出来るものである。
もっとも、所詮それは普通の人よりも強制力がある程度でしかなく、破ることも勿論可能だ。事実、昔ラクトは悪魔憑きに約束を破られたこともある。なにより、今まさにラクトこそが、かつてリフォンと交わした約束を破ろうとしているのだから、所詮口約束以上のモノにはなりえない。とはいえ、今ラクトがいくら疑った所で、どうにか出来るわけでもないのが事実なのだ。
「ふふふ……」
クルールは地面に突き刺した白銀の剣を引き抜き構えると、興奮した面もちで笑顔を浮かべる。その手に持つ剣はどんなものでも透過させ、切り裂く最強の剣。
「お前が何を考えてるのかはわからねえ……本音を言えば、かつて弟のように思ってたお前を殺したくないって気持ちもある。だが同時に、リフォンを殺し、今レオナを殺そうとしているお前が俺はこの世で一番憎いっ!」
そのラクトの心の底からの叫びを聞いて、クルールは愛しげに笑う。
「知ってるよ。だからこそ、こうして舞台を整えたんだ」
「……そうかよ」
なら、もう言葉はいらない。これ以上の言葉をどれほど連ねようと、止まることなど出来ないのだから。
ラクトの体を覆っていた魔気が一気に膨れ上がると、次第に収束していき、その両腕を黒く浸食させ始めた。そしてそれは腕だけではない。浸食は徐々に体中を犯し始め、顔以外の全ての肉体が黒く染めていった。
周囲の空間が強大な力の波動で歪み始める。周囲に跳んでいた光に集まっていた羽虫さえ、生存本能に従って一斉にその場から逃げ出してしまった。
「ああ……いいよ。やっぱり君は弱くなんてなってなかった。そうだよね、あの誰からも恐れられた、最強で最凶で最恐のラクトが、たった一人の人間に変えられる筈がないって僕は信じていたよ! みんなラクトのことを腑抜けとか、堕落したとか言っていたけど、僕だけは、僕だけは信じていたんだ! 君こそが、本当に最強の存在だってことをさ!」
この瞬間、リングベルトの街に住む全ての住人が、恐怖に体を竦め、ある一点を見続けた。その中心点にいるのは己の全てを悪魔に売り渡す直前の悪魔憑き、ラクト・トイフェルだ。
かつて世界中の悪魔憑き達の間で恐怖の権化とまで言われた『純粋悪魔(ピュア・ブラック)』。
憎しみ、悲しみ、喜び、安心、不安、興奮、冷静、親しみ、勇気、恐怖、情景、無念、恐怖、快楽、期待、絶望、希望、優越感、劣等感、嫉妬、愛情、ありとあらゆる感情を悪魔の餌として、ラクトの悪魔憑きとしての力は強くなる。当然、力を強くすればするほど、ラクトの中の悪魔の力も強くなり、やり過ぎれば悪魔に自我を食べられ、ラクトとして生きた人間はいなくなる。
だからこそラクトはこれまで、余程のことがない限りこの力を解放することはなかった。解放すれば自分が自分として戻ってこれるかどうか、わからなかったから。そして、こうして悪魔の力を本格的に使っている間は、感情の統制を取ることが出来ないからだ。
暴虐の悪魔。敵を殲滅するまで止まらない、この世に生まれた悪魔の中でも最悪の悪魔。
幼きラクトに憑りついたこの悪魔は、本来人間如きが抑えることの出来る存在ではなかった。歴史の中に何度も登場し、その度に一国すら滅ぼしたことのあると言われている伝説の化物だ。ただ、何の因果かラクトは彼の大悪魔の力を抑えることが出来た。そして、扱うことさえも。
その力はより深く、そしてより強く引き出せば出すほど危険性を増していく諸刃の剣。ラクト自身も、ここまで力を引き出せば、もう戻ってこれない可能性が高いことは分かっていた。何せすでに意識の半分を持って行かれているのだ。
だが、それでも構わなかった。別に、目の前の敵を滅ぼしたいわけじゃない。ただ、後ろで倒れている大切な少女を守りたいだけ。だからこそ、全てを捨ててもいいと思える覚悟を持つことが出来た。
――リフォン、約束破ってごめんな。
人として、ちゃんと理性を保っていられる間に、天国にいるであろう恋人に謝っておく。そして、ラクトの瞳が黒から悪魔の持つと言われている金色へと変貌する。完全に戦闘態勢に入った証拠だ。
長年家族として傍にいたクルールでさえ、この姿のラクトを見たことはたったの二回しかない。一回はリフォンを殺したとき。そしてもう一回は、まだラクトと家族になって、自分が殺されそうになったとき――
クルールは感傷に浸りそうになった脳を無理やり覚醒させる。今この瞬間から目を背けるなんて真似、していいはずがない。彼の金色の瞳が自分だけを見ていると思うと、歓喜の渦が胸の奥からこみ上げてくる。
「きっとこれが僕達二人の、最後になる本気の勝負だ。もちろん、僕が勝ったらそこの雌の命はないからね。本気だ、本気の本気で僕を殺しに来てよ」
「……後悔するなよ……お前は俺を、怒らせ過ぎた。わかっていると思うが、ここまで浸食率を上げたらもう、俺自身、止まれねえぞ……」
「後悔なんてしないよ、絶対にね。だって僕は今最高に嬉しいんだ。ようやく、ようやく君が僕を僕だけを見てくれた! 一年前のあの時と同じように!」
穏やかな、それでいて熱い心を持ちながら叫ぶクルール。それを憎悪の瞳で睨みつけるラクト。
リフォンと出会って以来、初めて自らの意志で自分を縛り続けてきた理性という名の鎖を解き放つ。それは彼女と同様、守りたいと思う人が出来たから。きっと今のラクトの姿を見たら、リフォンは泣いて悲しむだろう。
――俺が死んだらちゃんと頭を下げて謝るからさ、あんま泣かないでくれ。あ、でも俺は地獄に堕ちるから、死んでも会えないのか。じゃあ、閻魔を殺してでも会いに行くからさ、一度だけでいいから笑ってくれよな。
「……ら、くと?」
レオナの瞳がわずかに開き、焦点の合わない瞳で黒く染まった一人の悪魔を見る。きっと今の状況をちゃんと理解すること出来ていないのだろう。
「大丈夫、何も心配しなくていい。お前のことは――」
――俺が命に代えても守るから。
「さあ始めよう! 殺戮と欲望に満ち溢れた悪魔達の宴を! これ以上の演出は全て必要ない! 力と力! 欲望と欲望! そして己の命と命をすり減らしていく悪魔のゲームを! 僕は何年も君と再び出会えるのを待ち続けていたよ!」
「御託はいい……お前はもう、殺す」
そして、たった二人の悪魔はぶつかり合う。己の欲望と守るべき者を守るために。
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