悪魔と呼ばれた男は愛を知る

平成オワリ

第一章 悪魔は少女と出会う

プロローグ

 世界に絶望し、死んだ魚のような瞳で膝を抱えた老人。ボロ布一枚だけを身に纏った、頬のこけた女性。明らかに栄養の足りていない子供達。ぶつぶつと恨み言を呟きながら自分の腕に針を刺す、血走った瞳の男性。

 そんな人間達が集まる暗い路地裏――通称ダストボックス。

 ある程度大きな街なら必ずと言っても言いほど存在する、社会から弾き出された者達が集まる檻だ。

 中にいる者達のほとんどが犯罪者、もしくは捨てられた子供達で、国の管理下に置かれており、許可なく入ってしまうと二度とは出てこられないと言われている。

 国の管理と言えばまだ聞こえはいいが、実際は集まり過ぎた犯罪者達を取り締まる事が出来なくなり、後から臭い物に蓋をするように金網でスラム街を覆った形になる。

 今では国でも対処の出来ない治外法権となっており、凶悪犯達の逃げ場として使われるようになってしまった。  


「はあ、はあ……はあ……ッ!」


 そんなこの世の地獄とも言える場所に、一人の少女が息を切らし、焦りを顔を滲ませながら走っていた。

 肩まで伸びた艶のある金髪。焦燥の中でなお強い意志を感じさせられる瞳。まだ成人に至っていないであろう年齢の少女だというのに、多くの人を惹きつけて止まない魅力がある。

 光の少ない路地裏ですら、少女自身の持つ輝きを失わせることはなかった。

 この明らかに場違いとも言える少女。彼女は走りながら、頻りに後ろを気にしている。下卑た笑いを上げている三人の男達が、彼女を追いかけているからだ。

 彼らに捕まった自分がどうなるかを想像してしまい、恐怖に涙を浮かべながらも、決してその足を緩めることはしない。


「っ! パパ! ママ! ……誰か、誰か助けてよ!」

「無駄だっての! こんなゴミ捨て場で助けてくれるやつなんて居るわけねえだろ!」


 必死に周囲へ助けを求めるが、男の言う通り誰一人聞き入れるものはいない。それどころかまるで何かを期待するように、周囲の人間達もまた暗い笑みを浮かべている。

 ここは弱肉強食の世界。弱い者は強い者達の下で生きるか、せめて刺激しないように隠れていくしかないのだ。


「そんな……きゃっ!?」


 そんな周囲の人間の態度に絶望した瞬間、少女は何かに足を取られて転んでしまう。受け身を取ることも出来ず、白く柔らかい肌に傷が付く。

 だが今はそんなことを気にしている暇はない。慌てて立ち上がり男達との距離を確認しようと振り向くと、すでに十メートル程度しか離れていなかった。

 不味い、そう思って駆け出そうとするが、どうも男達の様子がおかしい。あれほど執拗に追いかけてきた足を止め、何故が腰が引けているのだ。元々よろしくない顔色も、少女の方を見ながらさらに青くして、何かに怯えるように体を震わせていた。

 つい先ほどまでの態度からの豹変。突然の事態に、少女もいきなり逃げ出すという選択肢が取れないまま周囲を伺う。すると、わかったことが二つあった。

 一つは男達だけではなく、周囲の人間達も同様に体を震わせて何かに怯えているということ。

 そしてもう一つは、彼らが見ているのは自分ではなくその足元。少女が躓いた、地面に寝そべっている男にあるということだった。

 こんな場所で倒れているような男だ。もしや死んでいるのではないかと少女が疑っていると、男がゆっくりと体を起こす。

 死んでいなかった事にホッとするもの束の間、男が立ち上がり周囲を見渡と、様子を伺っていた人間達はビクリと体を震わせた。

 怯えているのだ。死人が、餓鬼が、狂人が、この狂った世界で生きている人間達が確かにこの男に怯えている。

 少女は男を見る。こんな場所で倒れていたからか、ボサボサの黒髪には埃がついていた。身長は平均より少し高い程度で、一般的な成年男性とそう変わらない。年齢も少女とそうは離れていないように見える。

 極めて普通の、どこにでもいる男性。それが少女の感想だった。いったい周囲の狂人達が彼の何に怯えているのか、全く分からない。

 男は気怠そうに片手で後頭部をかきながら眠たそうな瞳を細め、大きく欠伸する。


「ふあぁ……誰だよ俺の事蹴ったやつ。人がせっかく気持ち良く寝てたのによぉ……」

「ここで!? って、ヤバっ!」


 あまりにも唐突な発言に思わず少女――レオナは思わず突っ込んでしまい、そして慌てて口に手を当てて抑える。

 見た目はともかく、こんな荒くれ者達の巣窟で堂々と寝ている奴がマトモな人間なわけがない。注目されてしまえばどうなるかわかったものではなかった。

 だがそんな彼女の努力も虚しく、声を聞いた男が体をそっとレオナに向けたことにより、視界に入ってしまう。


「……ここで寝てたら悪いのか?」

「わ、悪いなんて誰も言ってないじゃない……」

「あ、そう。ならいいだろ」


 そう言うと男は本当に興味を無くしたようで、再び横になろうとする。

 その様子を見ていた周囲の人間達は揃ってホッとした様子で胸に手を当てていた。


「って、この状況でまだ寝るんかい!」

「あだっ!?」

「「ああっ!?」」


 ただ一人、レオナだけはあまりにもマイペースな男の行動につい後頭部を叩いてしまう。勢いよく地面に顔面をぶつけた男はうつ伏せのままピクリとも動かない。

 シーンと、埃まみれの路地裏から音が消えた。

 周囲の人間達は唖然とした表情で男とレオナを見ている。


「あ、えっと……つい」


 レオナが引き攣った顔を周りの人間に見せた後に訪れる一瞬の静寂、そしてそれはすぐに喧噪へと変化した。


「な、何やってんだアンタ! この人が誰かわかってんのかっ!?」

「やばいって。ラクトさんがやる気ないうちに逃げないと……こ、殺される……」

「お前等も早く逃げろ! 下手に刺激したらまた巻き込まれるぞ!」


 そう言いながらレオナを追い回していた男達三人や集まっていた野次馬達が一斉に逃げ出した。その表情は皆必死だ。


「ちょっと、何なのよ! 説明くらいしなさいよ! ねえ、ねえったら!」


 そんなレオナの叫びは誰の耳にも届かなかった。残ったのは倒れたまま起き上がろうとしない得体の知れない男とレオナの二人だけ。

 風に吹かれて転がる空き缶の音が妙に耳に残る。つい先ほどまでの喧噪が嘘のようだった。


「何なのよぉ……もう……」


 レオナは恐る恐る男に近づく。完全に気絶しているのか、男は身動き一つない。一体ここの住人達はこれの何に怯えているというのか。


「まあ、おかげで助かったんだけどさ……んしょっと」


 傍に屈み、うつ伏せ状態の男を仰向けになるように転がすと、伸びた前髪をずらしてその素顔を見る。


「へぇ……」


 手入れのしていない伸びきった髪の毛やボロボロになった服からどんな顔が出てくるのかと思えば、思った以上に整った顔立ちだ。


「んっ?」


 よく見ると無理やり気絶させられた割にはずいぶんと安らかな顔で瞳を閉じていた。呼吸も落ち着いている。これは気絶というよりはむしろ寝ていると言ってもいいのではないのだろうか。

 つまりこの男は気絶させられた振りをして、そのまま寝たわけだ。

 レオナは思わず突っ込みを入れるために手を上げ、


「確かに誰か助けてって叫んだけど、まさかこんな訳のわからないのに助けられるなんて」


 そう呟きながらその手をゆっくりと降ろした。そして地面に腰を下ろすと、膝の上に男の頭を乗せる。俗に言う膝枕というやつだ。


「よし、これでまたあの男達が来ても大丈夫ね。べ、別にこんな硬い地面で寝るのは痛そうだなんて思ってないんだから!」


 誰も聞いていないのに一人で勝手に言い訳をしながら、レオナは暇を潰すようにそっと男の髪を撫でる。そしてどうしてこんなことになったんだろうかと思い返す。

 いつもと変わらない日常、そんな日常があっさりと崩れてしまった瞬間を。

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