第42話
クルールは別に、特別な生まれでも何でもない。少し一般的よりも裕福な家庭に生まれただけの、普通の子供だった。学校にも友達はいて、子供らしく馬鹿なことで笑い、たまに悪戯をして、学校のテストでいい点を取れば褒められ、悪い事をすれば怒られる。両親は好きだったし、自分が不幸だなんて思ったこともなかった。
両親が悪魔憑きに殺される、その日までは――
燃える家。上半身と下半身を二つに引き千切られ、地面に投げ擦れられる両親だった肉塊。当たり前の日常が壊れた時、人は思考を放棄するという。あまりに理不尽な出来事でクルールの世界は終わり、立っている大地を崩れてしまった思いだ。
悪魔憑きは突然現れ、人々を不幸にしていく。それは一般的な常識であり、そして世界にありふれた不幸の一つでしかない。
交通事故で人が死ぬ。天災に巻き込まれて人が死ぬ。無差別殺人で人が死ぬ。恨みを持たれて人が死ぬ。高所から足を踏み外して人が死ぬ。そして――悪魔憑きに殺されて人が死ぬ。
所詮毎日起きているニュースの一つでしかないそれは、世界にありふれた日常の延長だ。自分や周囲の人間を巻き込むことなんて滅多にないし、せいぜい近場で事件が起これば興味を引くくらいだろう。
クルールにとっても、悪魔憑きの事件などその程度の出来事でしかなかった。だから、世界に死がありふれていると知っていても、自分には関係ないと思っていた。
血がリビングを濡らし、楽しそうに口を歪める悪魔が見下ろしている。気の弱い者なら正気を保てず狂気に侵されてもおかしくない惨状で、悪魔は愉悦と快楽に酔う。その両手には首だけとなった両親の頭。髪の毛を掴み頭部をぶらぶらさせて遊んでいる悪魔に、クルールは何を思っただろう。
怒りは覚えなかった。恐怖も覚えなかった。ただ、何が起きているのだろうかと、無感動に疑問を覚えただけだった。
両親の頭が床に叩き付けられる。それだけでトマトをぶちまけた様に、あるいは卵を叩き付けたように破裂し、元の形状を維持することは出来ずグチャグチャになってしまう。
新しい得物で遊ぼうと、悪魔がクルールに迫る。逃げようにも足は本当に自分の体かと疑ってしまうほど動いてくれない。そもそもこの時、逃げようなんて思いがあったのかもわからない。
悪魔がクルールの首を掴む。信じられない握力だった。このまま両親だったものと同様、首を握り潰され、出来の悪い絵のように地面に描かれてしまうだろう。
空気を吸い込むことも出来ず、ミシミシと肉が潰れ骨が軋む音が、家を燃やす音と合わさって残酷なディエットを演奏する。
――ああ、死ぬのか。
不思議な心地だった。脳が生きることを諦めたからか、苦しさも痛みも感じない。漠然と自分が死ぬということだけがわかった。
理不尽に殺される怒りなどなかった。何も出来ずに殺されることに恐怖もなかった。この悪魔に自分は殺される。何が起きているのかわからなかった事実を認識した。それだけだ。
認識した。認識して、認識してしまって、そして――死にたくないと、生に縋りついてしまった。
悪魔が初めて驚愕の表情を作る。喉を掴んでいる手首を、まだ二桁にならないような子供に掴まれ、そして常軌を逸脱した力で潰されかけたからだ。クルールを咄嗟に投げ捨てた。
クルールの体の内側から、白い湯気のようなものがユラユラと零れ始める。
――死にたくない。
それはただの生き物としての本能。原初の欲望。クルールの中で長年隠れ住んでいた悪魔がその欲望を糧に悪魔憑きとしての力を覚醒させる。
本能のまま、クルールは悪魔と対峙する。暴れ、喰らい、血を噴きだしながらも死にたくないという思いだけを背に戦った。戦ったが、生まれたての悪魔と、すでに何人も殺している悪魔ではその力に差があり、勝てなかった。
結局、この世は力が全てだ。力があるから、自分の命も守れる。力があるから、死ななくても済む。力があるから認められ、力があるから蹂躙することが出来る。
力のないクルールはこの瞬間、世界の真理を知った。すなわち、力ある者こそ至上で、最上の存在であると言うことを。もっとも、知ったところでもう遅い。僅か九歳で彼はこの世から姿を消してしまうのだから。
思わぬ反撃に驚いたのも最初だけ。悪魔は倒れるクルールに醜悪な笑みを浮かべ、足を振り上げる。それを力なく見つめていたクルールだが、仕方がないと諦めた。何せ、力がないのだ。ならば殺されても文句は言えない。
最後に映った物が豚の様に歪んだ笑みを浮かべる男だと言うのが嫌で、その瞳をぎゅっと閉じる。そして数秒、何も起きない。一体何が、と恐る恐る瞳を開くと、先ほどまで下卑た笑みを浮かべていた悪魔は表情を一変させて、ある一点を凝視していた。
黒い衣装に身を包んだ、クルールとそう年齢が違わない少年が立っていた。この世の全てが気に食わないと言わんばかりの不遜な瞳。特徴的なのは両腕の一部が黒く染まっていることだろう。
一目でわかった。あれは人間ではない。見た目の問題ではなく、その身に宿した雰囲気が人を遥かに超越した何かを思わせた。存在としての格が、自分とは一回りも二回りも違う。
クルールを襲った悪魔も同じことを感じたのだろう。明らかにその顔には恐怖が張り付けられ、腰が引けている。
少年が何かを呟いた。その声は聞こえることもなかったが、これだけは分かる。この少年は、両親を殺した悪魔を殺すだろうと。
一瞬、炎の中黒い軌跡を煌めいたと思えば、少年は悪魔の心臓を握り潰していた。その顔には何も映っておらず、何かを終わらせることに何の興味も忌避感も感じていない、虚無の瞳だった。
そして少年は倒れたクルールを見ている。何も映さない、吸い込まれそうなほど澄んだ、漆黒の瞳。業火を纏い、この世から外れた者達を終わらせる地獄の使者。
その姿に、クルールは憧れを抱いた。絶対に何物にも負けない強さを見て、その在り方を美しいと感じたのだ。この少年こそが自分を終わらせるに相応しい絶対至上の存在。こんな存在を知ってしまえば、他の誰かに殺されるなんて馬鹿らしいと思ってしまう。
クルールは素直に死を受け入れた。きっと今自分は世界中の誰よりも幸せだろうと思っていたくらいだ。なにせ、神が生み出した生物の中で最も頂点に立つ者の手で終わらせてもらえるのだから。
力を使い果たしたクルールは、安らかな笑顔で気絶する。きっと次に目覚めた時、自分はこの世から存在していないだろうと思いながら。
だが、少年はクルールを殺すことはなかった。悪魔憑きに堕ちていないクルールを連れて帰る。
目覚めたクルールは、自分が生きていることに驚愕する。間違いなく殺されると思っていたのに、殺されなかったのはきっと、自分が殺す価値もないちっぽけな存在だからだと思った。最高の死に場所を用意してもらったにも拘らず、無様に生き延びてしまったことに涙する。
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