第51話

「……あ……の……」


 どうしよう。どうしよう。どうしたらいい?


 言葉がうまく出てこない。喉が貼りついて乾いてる。手足が拘束されたみたいに動けない。


 目線だけが泳ぐ。少し驚いたほのか先生と、窓の向こうで部活をしている生徒たち。暮れかかる、赤い、赤い夕日。


 セリヤ先生の顔を見ていないのに、あのほの暗い瞳があたしをまっすぐ見ている気がして。逃げることも、振り返ることすらできず、あたしは無様に立ち尽くしていた。


「……エリカさん?」


 静かに問いかけられる声。名前を呼ばれただけで、まるで心臓をわしづかみにされたようだ。


「セリちゃん、その子は保育のことで相談に来ただけだよぉ。女の子の悩みは女同士が常識でしょぉ~」


 ほのか先生がナイスなカバーを見せてくれた。立ち上がって、抱きかかえるようにあたしの肩に手を回し、引き寄せてくれる。それだけで少しほっとして、息が吸えた。


 しかし。セリヤ先生は、そのほのか先生の手を掴んで、あたしから引き剥がした。


「ほのか先生、学校ではその呼び名やめてくださいって再三注意しましたよね?」


「え~カタいこと言わないでよぉ~。アタシとセリちゃんの仲じゃん? じゃん?」


 本当にほのか先生はセリヤ先生と幼なじみなのだろう。親しげに話すほのか先生を、しかしセリヤ先生は冷たくあしらう。


「たかが幼稚園から学校が一緒だったというだけでしょう。ご相談はもう終わったんですよね? あまり新入生を授業初日から長居させないでください」


「わかってるわよぅ~」


 ぷんと唇を尖らせるほのか先生。しかしセリヤ先生はひとつも表情を崩さない。


「仕方ない。僕が玄関まで連れて行きますから」


 絶望的なことを口走るな、この人は。


 たしかにセリヤ先生の言い分もわかる。わかるから、そっこーで帰りますんで! ひとりで帰れるので!!!


「え~ッ!? ならアタシが送ってってあげるわよぅ~!」


 ほのか先生がまたもやナイスアシストを出すも、セリヤ先生はぐいぐいとあたしの背中を押しながらほのか先生に向かって冷たい目線を浴びせた。


「あなたは、校長先生に呼び出し食らってましたよね? 校長先生、待ちぼうけ食らってますけど。いつまでも来ないから呼びに来たんですが」


「あっ、ヤっバぁ~イ忘れてた……!」


 おいいぃぃい! なんちゅぅタイミングでほのか先生呼び出すのよあのバーコード大陸校長はーー!!!


 叫び出しそうになるのを必死に抑えながら、それでも逃げるタイミングを必死にうかがう。虫のしらせとか予感とか、そういうシックスセンスなもんを、今なら信じてもいい。それくらい、このままセリヤ先生について行くのは嫌な予感がした。


「……じゃ、じゃあ、早く帰りなさいねエリカさんっ」


 ほのか先生はチラチラとこちらを気にしながらも、セリヤ先生の言い分に従うようだ。何か、逆らえないような雰囲気すら感じる。


 あたしはほのか先生を引き留めることもできず、去って行く背中を呆然と見つめていた。


「さて」


 ほのか先生を見送ったセリヤ先生が、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。


 その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。ううん……貼りついていた、と言う方が正しい。あたしはカバンを抱きしめて、じりじりと下がった。とにかく距離をあけたい。


「あのっ、先生、あたしひとりで下駄箱まで行けますから……!」


「そうはいってもあなた、今朝廊下を走り回ってたでしょう。早朝の早い時間だったから目経ちましたよ。高校生にもなったんですから、落ち着きというものを教えて差し上げましょう」


 げっ……! ハルくんの様子を見に行ってたの、見られてたんだ!


 まずい、なんとか逃げる口実を、いや、そんなもんなくてもなんとか逃げないと……!


「エリカさん」


 すぅっ、と、セリヤ先生の周りの空気が、冷えた気がした。


「何をそんなに――怖がっているんですか?」


 低く、ゆっくりとした声がみぞおちに振ってくる。


 そう。あたしは何をこんなに怖がってる?


 セリヤ先生に直接何をされたわけではない。それでも、うすら寒いものが背筋を駆け上るのだ。理論的に説明できないのが悔しい。


 でも今は、自分の心理がはっきりとしないことを残念がってる場合じゃない。とにかく、セリヤ先生は怪しすぎる。二人きりになっちゃダメだ!


「ははは、怖がるとか、意味分からないですよ先生~。それよりセリヤ先生と二人で居るとこ、他の生徒に見つかるとまずいんで~」


「おや。いち生徒と教師が二人でいても、ただの指導だと思いますが?」


 じり、じりとセリヤ先生は距離を詰めてきた。背中は壁、扉は遠い。外で部活をしていた運動部の人たちも、その人影すら見えなくなっていた。


 とん、とあたしの背中が壁に接する。


 逃げ場が――ない。

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