第27節
「エリちゃんっ!」
パニックに陥りかけたあたしの目に、きれいなピンク色の光が飛び込む。
ヤナギは牙をむき出しにしてうなりながら、眼鏡男子に向かってとびかかる!
「ヤナギ! まって!」
しかしヤナギは、あたしの制止の声を振り切って眼鏡男子に噛みついた。
眼鏡男子の手首に、しっかりと食いつくヤナギ。それでも眼鏡くんはピクリとも動かず、感情の断片すら見せることはなかった。
その代わり、抵抗するように眼鏡くんの足元の闇が、ぞろぞろぞろっ! と蛇のように彼の体を駆け上っていく。
「きゃぷゎん!」
危機を感じ取ったヤナギは、すかさず眼鏡くんの手首から離れ、大きく後ろ飛びしてあたしの隣に立った。
「エリちゃん、あいつヤナギのちからがきかないなの!」
「ヤナギ、下がってて! 危ないよ!」
「しゅごじゅーが、ごしゅじんまもらないでさがれないのなの」
わぷっ、とヤナギは鳴いた。まるで、笑っているような鳴き声だった。
そんなヤナギを見て、少しずつパニックが遠ざかる。すうー、はあー、と大きく息を吸って、闇を強く、強くにらみつけた。
眼鏡男子は、今や真黒な人型の闇のかたまりになってしまった。闇が眼鏡男子の顔を覆う寸前、ちらりと目が合ったような気がする。そして、口が動いた。
タ・ス・ケ・テ
そう言っているようにしか、思えなかった。
なぜかその様子は、かつて闇に飲まれたあたしによく似ていた。眼鏡くんの手が、まるで助けを乞うように、あたしへ伸ばされる。
「意識があるの……?」
眼鏡くん自身の意識が、苦しんでいるように見えるのだ。ならこれは、闇のしわざ?
それなら――あたしは混乱する頭の中で必死に考える。
怖くても、身がすくんで手が震えても、考えることをやめるな、エリカ!
闇の中で学んだんだ。考えることをやめて恐怖に流されても、闇に落ちて登れなくなるだけ。這いあがった先にしか、光はない!
「――あんた! どこの誰だか知らないけど、なんの意味があってこんなことするのよ!」
会話は不可能だと半ばあきらめ気味に叫ぶ。相手の意図が分かれば、そこを突く隙が生まれるかもしれない。会話は、相手の思考を一定以上縛り付ける。
すると意外なことに、眼鏡くんはぴたりと歩を止めた。
けれど――闇は、さらに変化をした。眼鏡くんの頭の上から、しゅうしゅうと音を立てて闇がさらに噴出していく。やがてゆらゆらと不安定な人のような形をとると、真っ赤に口の中をのぞかせて、闇はニィィと笑った。それはそれは不気味に、笑った。
「呪、ワレ、たむすめ……おまエ、に、あいは、ない……」
ぞわりと、寒気がする。
低く、地の底から響いてくるようなどす黒い声。
けれど、なんだろう、これは――どうしてか、この声を心から拒絶する気持ちになれないのは。
「だまるのなの! やみのぶんざいで、エリちゃんのことくちにするな!」
何も言い返せないあたしに代わり、ヤナギが吠えてくれる。頼りになる、あたしの守護獣。でもあたしは、内心すごくハラハラしていた。
あの闇の強さは、抜け出せない焦りは、闇に取り込まれたからよく分かる。あれは、自分の意志だけでどうこうできるものじゃない。
深い海に沈んでいくように、手足が冷たくなって感覚もなくなって、そう、まるでゆっくりと眠るように死んでしまうような――
そんな闇に対抗するなんて、ヤナギが危険すぎる。
しかし闇はまったく、ヤナギの言葉などに耳を貸してはいないようだった。ニヒィ、と降格を持ち上げ、真っ赤な口を顔の半分まで裂いて笑った。
「おまえ、ニ、ともなど、いナイよ」
「――……!」
ひゅっ、と、息が止まる。
よくない。こんなやつの言うことなんか、聞く必要ない。頭のどこかがそう叫んでいた。聞くな、聞くな、聞いちゃだめだ!
でも――闇にきっぱりと言い切られると、ずどんと心に落ちてきてしまう。腑に落ちてしまうのだ。それはこいつの声が原因かもしれないし……あるいは、あたしも心のどこかでそう思っているのを、見抜かれた気がしたからかもしれない。
霆門。ナオさん。モモちゃん。カナデくん。
友達だと思っていい人たち。友達だって言ってくれた人たち。友達になりたいと思った、大事な人たち。
でも――人の心は覗けない。この目で見て、信じることが、どうしてもできない。
人の心の移り変わりばかりを見てきた。優しい人が残酷な人に変わる瞬間もあった。それは幼少期の辛い出来事だったね、で片付かないくらい、辛い目ばかりを見てきた。
たまたま今は周りに恵まれているだけなのかもしれない。
そしてそれは、いつか崩れてしまうもの、なのかもしれない。
幸せで、あたたかい気持ちになればなるほど、それの喪失を恐れる。それがこんなに怖いことだなんて、今まで知らなかったの。
あの人たちをなくして、背を向けられる未来を考えることが――一人ぼっちでいるより辛いことなんて、知りたくなかったの。
――お前に友達なんていないよ。
ああ。ああ……だめだ。
闇に飲まれる。
――お前に愛なんてないよ。
視界が歪む。つぅ、と、頬になまぬるい液体が流れていった。
反論することが、あたしにはできなかった――――
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