第26節

 フルネームで呼び留められて、あたしは素早く振り返る。


 見てみれば、同じ学校の制服を着た、なんだかでっかい眼鏡が似合ってない、ぼさっとした頭の男の子だった。ちょっぴり背の低いその人は、白く曇った眼鏡をクイと薬指で持ち上げ、ポジションを戻す。


 びびび、びっくりしたぁぁ! 大丈夫? ヤナギと話してたの、見られてないよね!?


「ええ、ああ、うん、そうだけど!?」


 ヤナギを背中に隠して、ヘドバンよろしくうなずきまくるあたし。心臓がバクバクいっていた。本当、足音を消して背後に立たないでほしい。お前は段ボール好きの凄腕特殊工作員か。


「エリちゃん?」


 しーっ! 出てきちゃダメ、ヤナギ!


 そう思い切り小声で言うと、わかったなの、という可愛い声が背中越しに聞こえた。普通の人には見えなくても、すでにあたしにとってはヤナギはこの世に存在しているあたしの友達になってしまっている。どうしても人前に出すのは気になってしまうのだ。


 眼鏡くんはしかし、そんなあたしのドタバタしたやりとりをどこかぼんやりと、うつろな様子で見ていた。


「あの、あたしに、何か?」


 正直、この男の子が同じ学校の生徒だって以外、何も分からない。入学初日にたくさんの人に出会ったからか、頭がクラクラしてるくらいだ。


 眼鏡くんは、あたしの返答に答えず何かをブツブツつぶやいていた。な、なんだろうこの人は。どうしちゃったの?


「もしもーし……?」


 あたしが、眼鏡くんの顔をのぞきこむように視線を合わせようとした――瞬間。


 ――がくん、といきなり、力が抜けたように顔が地面を向いた。


「うっわ!? なに、首だいじょぶ!?」


 たとえるならそう、操り人形の糸が切れてしまった時のような。


 あたしとヤナギは、大丈夫と声をかけながら後ろへ後ずさった。正直、不審者扱いしてしまっているが許してほしい。それくらい、彼には生気というものがなかった。


 ああ。やっぱりこの世で一番怖いのは、見えないお化けや幽霊なんかじゃない。人だ。


 彼の身長はあたしと同じくらいだけど、そこは男女の差、思いきり襲い掛かられたら逃げる自信はない。たっぷりと間合いを取りながら、じりじりと後ずさる。


「ヤナギ……! ヤナギ!」


 怖い。なんなんだろう、この人の底知れない恐ろしさは。何をしてくるかわからない恐怖、そして、生きていないような人間に対する恐怖に、あたしはヤナギの名前を連呼した。


「エリちゃん、ヤナギたまがいるなの!」


 するとヤナギが素早くあたしの前に出てきて、ウゥゥ、と低い声で威嚇した。途端、ヤナギの全身からパチパチとピンク色の火花が散り、ヤナギの体全体が淡くピンク色に発光し始める。


「ひもろぎ……エリ、カ……」


 眼鏡くんは、ふらっ、と一歩踏み出た。


 まるで筋肉や骨が入っていないような、ぐらりと体が倒れそうになるのを防ぐために足を前に出しているような、意思も何もないような足取りだった。


 そして、顔が、ガクリと上を向く。


 眼鏡の奥の瞳が、赤く燃えているのが見えた。しかしそれはルビーのように美しい瞳ではない。血が固まり、黒くなったような、どこかで見たような赤黒い目だった。


「お、マエ、が、いなけれ、ば」


 たどたどしい言葉の羅列は、何とか意味を成して鼓膜に届いた。


 だが――その言葉は、聞いてはいけなかった言葉だった。


「……ッ!」


 苦、しい……! 体全体が重い。手足が、動かない!?


 ぶつぶつと眼鏡男子がつぶやくたび、体の自由を奪われていくようだ。自由になる視界だけは閉じたくても閉じられなくて、ぶわりと嫌な汗が浮かぶ中、必死で眼鏡男子の動向を見る。


 目をそらしたら、だめだ。


 怖くても、いやでも、顔をそらすな!


 自分の中で繰り返し、それだけを唱える。そんな中、ずる、ずる、と布を引きずるような音がして、ぶわわっと鳥肌が立った。目の前の眼鏡くんの足元から、真黒な闇が何本もの手の形を作り出しているのが見える。


「闇……! なん、で……っ」


 全部じゃないけど、ナオさんが祓ったはずなのに!


「エリ、カ…………」


 眼鏡男子は足元から生えた闇の手に、足をぐるぐる巻きにされてガクガクと震えながら、うなされるようにあたしの名前を繰り返し口にした。


 そのたびに、あたしの体はどんどん重くなって、立っているのが不思議なくらいの重圧を受けていた。そう、まるで金縛りみたい。


 試しに、完全に動けなくなる前に力いっぱい手足を動かそうと試みても、指先ひとつピクリとしない。まるで自分の体じゃないみたいだ。


 ――ああ。これは。


 逃げられない。


「くぅ……!」


 体の自由を奪われたことを再度認識した途端、壮絶な恐怖感が這い上がってきた。


 眼鏡男子は、相変わらず首の座ってない赤ちゃんのようにがっくりうなだれながら、ずる、ずる、と闇に引っ張られるように、一歩ずつこちらへ近づいてくる。


 いやだ。


 いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!!

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