第40節
「じゃあエリカちゃん、またあとでね~! パパ、髪のセットやる前にバックヤード見ておいて!」
モモちゃんはモモパパにそうお願いすると、霆門と二人店を出て行ってしまった。
あれ……? な、なんだろう、この胸のモヤモヤというか、フワフワというか、引っかかる感じは。何かを不安に思っている? でも、その正体が分からない。
「そういえばさっき、ユウカさんからメールがきてたな。可愛い天女たちが大量に羽衣を買っていってくれて、すごく楽しかったって」
ユウカママ。さっそく情報が回ってるんだ。いや、もともとふたりもこの計画の共同運営者だったんだろう。一日でよくここまでの段取りを作れたなぁ。やっぱりすごいや、モモちゃん。
「あたしも、自分のために服を買ったのは初めてですごく興奮しちゃいました! 着飾るって、ほんとは楽しいことなんですね」
感謝と同意のつもりで言った言葉は――しかし、モモパパの心のどこかに引っかかってしまったらしい。しゃき、と切るはさみの手を止めて、モモパパが鏡越しにあたしを見つめていた。
「ねえ、エリカさん。あなたは、小学校の頃の記憶がほとんどないって、本当ですか」
「は、い……覚えているものも断片的で、あまりよく覚えてないんです……」
あたしの返答に、うなずきながらため息を吐くモモパパ。さっきまで楽しげだったのに、一気に重くなった空気に、あたしは膝の上の手をきゅっと握りしめた。
「やっぱり……そうですか。実はぼく、三者面談のときに一度だけ、エリカさんの養母の方をお見かけしたんですけどね。小学校、六年生のときだったなぁ」
たぶんそれは、飯縄家の『ママ』だろう。どうしても保護者が出席しなければならない三者面談があって、ママが心底嫌そうにずーっと文句言ってたのはなんとなく覚えている。
「よそのおたくのことに口出しするのはよくないって、分かってるんです。でもあの養母さんの態度は、幼い子どもに対するにはあまりに度が過ぎていた。ぼくは……」
ああ……そうか。あたしに対して文句を言っているところを、偶然にもモモパパが見てしまったのだろう。
あの『ママ』は所かまわず、人前などお構いなしでキレるからなぁ……お見苦しいものをお見せしてしまって、申し訳ない。
あたしは今や全くの他人となってしまったママのことは、基本的にどうでもいい人となっていた。楽しい思い出なんてないから、無意識のうちにママへの興味を削いでいったんだと思う。
「あなたが苦しい立場にいるのに、気付いていたのに、声をかけられなかったんです。それはずっとぼくの心にしこりとなって残っていた。いつかあなたに会ったら、あのときの無力なぼくを許してもらいたいと……そう思ってしまっていたんです」
ぐっ、と両手のこぶしを握り締め、うなだれるモモパパ。
「大人は無力です。体裁のために取り繕います。それは自分でも滑稽だなと気付きながら、それでも人間社会で生きていくために仮面をかぶり続けるんです。エリカさんには、そうなってほしくなかった」
「パパ、さん……」
あたしは、なんて返したらいいのか……わからなかった。
モモパパさんはモモパパさんなりに、あたしの現状を知りながら何もできなかった自分を責めていたんだ。きっと、何年もの間、一人で。
「あの……」
気にしないで。その言葉が、うまく声にならない。
すると、モモパパさんはパッと顔を上げた。おヒゲに囲まれた唇が、少し苦しそうに微笑んでいた。
「でも、今日お会いして、許しを乞うのはやめました。ただ、謝罪だけはさせてください。あなたをちゃんと見ている人がいるっていうことだけは、どうしても伝えたくて。本当に、ごめんなさい」
そう言ってモモパパは、頭を下げた。
「あのっ、そんな! あたしは全然気にしてないですから。お願いですから、頭を上げてください」
あたしは慌ててモモパパにお願いした。大の大人がこんな風に謝ってくれるなんて、初めてだ。大人は謝らないもの、と自然と認識していたあたしにとって、空と大地がひっくり返ったような衝撃だった。
モモパパはあたしの言葉に、ゆるゆると頭を上げてくれた。その目はどこか少し、うるんでいるようにも見えた。
「うんとたくさん、いい思い出を作っていってくださいね。楽しい記憶を残していってください。それらはきっと、あなたが一番つらい時に優しく寄り添って、乗り越える力になってくれるから」
「……はい。ありがとうございます」
あたたかい心に触れて、触れすぎて、あたしの心はずいぶんやわやわになってしまったようだ。
人知れずこぼれた涙をすくって、あたしは大きくうなずいた。
優しい人たち。今まで縁がなかった、尊い人たち。
誰も見ていない、誰も助けてくれないと思っていた幼い頃にも、ちゃんと見てくれていた人はいるんだ。
あたしはまた、胸ポケットの「神様のたまご」があったかくなったような気がして。胸をおさえながら、甘くじぃんと広がる嬉しさに、しばらく浸っていた。
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