第12節

 びっくりして振り返った霆門と、ぱちりと視線が合う。エアシャワーを浴びたあたしは、なんだかちょっと体が軽くなったような気がするけど……それ以外の変化は、ないみたいだった。


「あ……ご、ごめん。大丈夫。なんか、風がいきなり吹いて」


「……ああ、神聖な場所に入るから、きっと清められたんだろう。まったく、驚かせるな」


 こん、と額をつっつかれて、早く入れと軽く腰を押される。


 な、なんだろう。闇から出てきた途端、霆門がやたらと触れてくるような……?


 神殿に入ると、神棚に深く一礼する霆門。こういうのは本当に、神社に仕えるひとだなって思える仕草だなぁ。


「さて。大変な朝だったな……」


「まったくよ……この子、本当に私の飼っていたヤナギなの? どうしてしゃべれるの?」


「わわぁんっ!」


 しゃべれるはずなのに、やっぱり元は子犬だからか、ちょくちょく言葉を忘れてあたしの胸に飛び込んでくる。本殿の畳の上に置かれた座布団に座り、ようやく一息ついた。


 座ったあたしの膝で、ヤナギはぐーんとのびをし、丸くなってしまう。そのまま、すぅすぅと穏やかな息を立て始めた。


「守護獣とか守護神とかってのは、お前でも聞いたことあるだろ?」


「ええ、まあ……信じてはいなかったんだけど……」


「生前、お前に深く感謝している念を強く感じる。こいつにとってお前は、唯一の神様みたいなもんだ。死してなお強く守りたいと願い、その思いが枷になってこの世にとどまっている」


 そんな……ほんの少し、一緒に過ごしただけなのに。


 それに、この子の最期は悲しすぎるもので、あたしには何もできなかったのに……


「いい思い出、だったのかな……」


 ぷぅぷぅと鼻提灯がふくらんでいる。ほんのりあったかいヤナギの体は、もう死んでしまっているとは思えないほど現実的な手触りだった。


「よかったんだろ。すごくなついてる。守護獣の強さは、主人に対しての気持ちの強さで変化する。こいつはナリは小さいが、けっこう強いよ」


 ヤナギのことを褒められると、なんだか少しくすぐったい。それは確かに、うれしいって気持ちだった。


「でもどうしてこんなふうに触れるの?」


「何を信じるかで、何を知覚できるかが変わる。妄想や幻想のたぐいは、脳が『存在する』と信じれば、そいつにとっては現実になるんだよ」


「なら……さっきの、闇も……?」


「ああ。あれは……」


「――あれは、呪いです」


 後ろから響いた声に振り向けば、眉を寄せて難しいことを考えているような顔をした十河さんだった。


 十河さんはまっすぐに神棚に寄り、五分くらいずっと何かぶつぶつと唱えていた。そのあと奥に引っ込んで、何度も手を洗う音が聞こえた。


「……なにしてるの?」


「身を清めてるんだよ。簡素的だけどな。あの闇はよくないものだ、ちゃんと清めておかないと穢れを周囲にまき散らす」


 霆門の言っていることはほとんど理解できなかったけど、何かを洗い流したい必死さみたいなのを、ばしゃばしゃという水音が反映してるみたいだった。


 それからようやく、十河さんは戻ってきた。疲れた様子で、あたしの真正面に座る。


「さて……いろいろと疑問があると思いますが。あの闇の中で、エリカさんは何を見ましたか?」


「あの、中で……すごく真っ暗で、冷たくて、静かで……でも」


 でも、怖くはなかった。


 ずっとあそこにいたいと思わせる空虚なあたたかさが、逆に怖く感じた。


「怖くは、なかったです……何か、懐かしいような感じがした……」


「……そうですか」


 あたしの返答に、十河さんは深くため息をついた。どう話していいか、迷ってるようだった。


「私はね、エリカさん……ずっと、あなたを探していたんです」


 衝撃的な――十河さんの、告白。


 それでも、ずんと沈んだ表情と、暗い口調にときめくような隙間はなかった。ロマンティックなセリフなのに、きゅんとすることができない。


 予感はしていた。ママからあたしを引き取るための手順が、あまりにも用意周到だったから。


 でも理由はわからない。


「どうして探していたのか、聞いてもいいですか?」


「単純な話です。私は、あなたの遠縁なんですよ。従伯父じゅうはくふ、とでも言えばいいんですかね。あなたのおじいさんは私のおじいさんの兄で、私はその息子です」


 なんだか複雑な家系図で混乱するけど……でも、「町で一目惚れして、ぜったい結婚しようと思って!」とか言われる恋愛話よりも、よっぽど現実的な話にあたしは納得した。


「調べてみたら、想像以上に大変な状況で青ざめました。正直、この神社の神主に就いたのも、あなたの養子先から近いからです」


「ああ。だから急に神主が来たのか。まだ一週間くらいだったか?」


「ええ。本当はすぐにでも動きたかったんですが、いろいろと証拠を集めないとならなくて……ああいう家族は用意周到なので、逃げられたり言い訳されると面倒ですからね」


 にっこり、と笑ってみせる十河さんは、穏やかないつもの笑顔に見えて――黒い影がちらりと見えて、こちらはひやっと冷たいものを背中に感じた。


「お辛かったですね、エリカさん。すぐに飲み込めるものではないでしょうが、どうか

これからは私を頼ってください」


 撫でられる頭。手のひらから伝わる熱は本当に優しくて、あたしは胸がじんと熱くなるのを感じた。


「十河、さん……ありがとうございます」


 お礼を言えば、十河さんはうれしそうに、はい、とうなずいて返事してくれる。なんだか、こんなにいきなり目の前が開けてもいいんだろうか。もうあたしはあの家に戻らなくてもいい。こんなに優しいおじさんがいる……


 十河さんは撫でていた手を、ぽん、と自分の胸に当てた。そして、やおら胸を反らして自慢げにふんと鼻息を荒くする。


「そして、私のことはぜひナっちゃんとか、ナオとか呼んでくれるとうれしいですッ!」


「急に呼び方がくだけすぎませんか」


 なっちゃんのワードに敏感に反応してしまうあたし。しかし十河……さん、は、いつものにへら~っとしただらしない笑い方になる。


「私は未婚者なので、エリカさんが娘みたいでかわいくて! いいんですよ、おとうさん、と呼んでも……」


「いやいやいきなりぶっ飛びすぎですよ十河さん」


「ほら! もうっ、十河さんなんてやめてください! 他人行儀な!」


「えぇ~……」


 困ったな、これは……いや、十河さんの気持ちはうれしいけど、いきなりお父さんとかなっちゃんは呼べない……!


「諦めるんだな、エリカ。一週間こいつに付き合って分かったが、こいつは案外がんこものだぞ」


 他人事のようにニヤニヤ笑って言う霆門。くっ、まあ本当にひとごとなんだけど……!


「えっ……と……ナオ、さん……?」


 あたしにできる最大限の譲歩と勇気で、ぽつり、と呼ぶと。


 今までにない、心からキラキラまぶしいめいっぱいの笑顔で、


「はい! よろしくお願いしますね、エリカさん!」


 こ、この人は本当にめちゃくちゃ年上の人なんだろうか……


 子犬がもう一匹増えたような心境で、でも穏やかに凪いだ心の中で、あったかい膝の上のぬくもりを撫でながらあたしは笑った。久しぶりに、微笑むことができた気がした。


「へえ。お前、笑ってるほうがかわいいな」

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