第52話
「ねえ、エリカさん」
セリヤ先生の細くて長い指が、あたしの髪をひと束すくう。
「髪、切ったんですね」
「おおぉ……よ、よくおわかりで……」
「分かりますよ。あなたのことは……よく見ていますから」
ななななに!? よく見てるって、それ先生としてじゃなくない!?
あたしは本能的な危険を感じて身をよじろうとしたけど、セリヤ先生の片方の手があたしを逃すまいと壁にドンと突きつけられる。
かかかかべどんんんん!!!
「ちょっと……!」
「あなたを悲しませたら――あいつも、少しは表情を歪めるのでしょうかね?」
セリヤ先生の瞳が――凶暴さを、帯びる。
「あっ痛……ッ!」
ぐいっ! と無遠慮に引っ張られる髪。あたしの顔は苦痛に歪んだ。
怖い……、怖い。
なんで……? なんでセリヤ先生はあたしにこんな固執するの?
おまけに、体がまったく動かない。ちまたで聞いていた金縛りとやらは、きっとこんな状態を指すんだろう。指先一つだってあたしの意思を無視している中で、セリヤ先生の指がつぅっと顎先を撫でていく。
「あいつって……誰のこと……?」
かろうじて絞り出した声は、情けなくも震えていた。
「教えて欲しい……? エリカ」
悪寒が、背中を這い回る。
セリヤ先生の顔が、どんどんと、避けられようもないほどに近づいて――大人の、淡い、淡いムスクの香りが鼻孔をついて――
――――ダメ!! 誰か、助けて!!
「――失礼します」
ガラガラっ! と、保健室の引き戸が勢いよく開く。
あたしは涙目で、そこに現れた一人の男子生徒に目が釘付けになる。
「へっ……?」
短い、つややかな黒髪の少年がそこに立っていた。でも、あの顔は……どこかで……
「見ない顔だね。君は?」
「今日転校してきた、テイトです。放課後、神籬さんに校内を案内してもらう約束だったんですけど。見かけなかったんで探してたら、ここだって」
て…………霆門ぉぉぉぉおお!?
確かに、髪は黒いけどあの端正な顔立ちは霆門だ。霆門は冷ややかな視線を、物怖じせずまっすぐにセリヤ先生に向ける。
「ずいぶん……他の人が見たら、誤解しそうな光景ですね」
「あっ……!」
違う、これはセリヤ先生が!
しかし。否定の言葉をつむぐよりも早く、セリヤ先生がハハハと乾いた笑い声を上げた。
「君もそんなつまらない誤解をしそうな人の一人、なのかい?」
「ええ。誤解が誤解を生んで、誰かに喋ってしまいそうなほどには」
霆門の周りの空気が、ちりりと熱くなっている。
……怒ってる? 霆門が、なんで……
「……それは困るな。エリカくんとは極めて個人的な話をしていただけだというのに」
セリヤ先生はおどけるように両手を挙げ、あたしを解放した。今までの硬直がウソのように、ふっと体が楽になる。
「ほら、行くぞ」
霆門はあたしの手首をひっつかむと、足早に保健室をあとにした。
「て、霆門……? なんで……」
「……あの子犬が寝込んでる間に、何かあるだろうと踏んでな。帰りも遅いんで、ナオに言われて迎えに来たらやっぱりだ」
霆門の足はぐんぐん速くなる。あたしは歩きじゃ追いつけなくて、軽く走りながら必死に霆門のあとをついて行った。
掴まれた手が、ひんやりと冷たくて。緊張して高ぶった熱が、優しく冷めていく。
「……ありがとう……霆門……」
いつもなら素直に出てこない感謝の言葉が、自然と口をついて出た。
霆門は肩越しにちらりとあたしを見ると、ふっと柔らかく笑った。
「なんだ、お前も素直になったもんだな」
「なっ……!」
もうっ! こいつは、人がちょっと素直になるとすぐおちょくって……!
「だが、それでいい。お前はそれでいいんだ」
否定するでもなく、あたたかく。霆門はあたしの言葉をなんでもないことのように受け止めてくれた。
「うん……」
なんだかあたしはくすぐったくて、パタパタとせわしなく小走りしながら、こくんとうなずいた。
「しっかし、お前、ああいうのが好みなのか?」
「は、はぁあ!? そんなわけないじゃないバカぁっ!」
「冗談だ、本気にするな」
こういうシリアスな場面でわかりにくいウソをつくなぁああ!
くくっ、と喉の奥で笑った霆門は、――いきなりピタリと足を止めた。
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