第2節
「おはようございます」
一階に降りてママに挨拶する。四人掛けのダイニングテーブルの一席。そこでふんぞり返っているママは、興味なさげにちらりとこちらを見た。
おはよう、と挨拶を返してくれることもなく、ゴシップたっぷりの雑誌を熱心に読みふけっている。ご立派な体格を包み込む色とりどりのフラワーな極彩色のワンピースが、ぎらぎらと目に痛い。
あたしはささっとママにお茶を淹れると、逃げるようにキッチンに引っ込んだ。朝晩のご飯を作るのも、当然あたしの役割。仕事ではない。仕事ならお金がもらえるもの。
トーストとベーコンエッグ、サラダ付きのコメダ珈琲もびっくりの立派な朝食を作っていると、こげ茶のふわっふわなパーマを当てた髪がひょこっとキッチンを覗きに来ていた。ママだ。
ママはあたしの作っているものを
「あらぁちょっと、今日アタシ和食な気分なんだけど」
知らんがなーーー!!!
……それを素直に、心のままに絶叫できたらどれほど気持ちいだろう。
舌打ちしたい。せっかく作ったご飯が無駄になっちゃう。……いや、あたしが食べればいいのか?
「そのパンはパパが食べるからとっときなさいよね!」
よっぽどあたしがおなかを空かした顔をしていたのだろうか。それともあたしにサトリの才能があったのか? 事実は不明だが、まったく完璧に心の内を見透かされて、ため息をぐっとこらえ、はい、と素直に返事した。
この家のパパの地位は、女ばかりに囲まれているせいかとても低く見積もられている。それでもあたしほどの冷遇じゃないけど、時折、ちょっぴり同情する。
パパのことはさておき、今は朝食が問題だ。
どうしよう、今からお米を炊くにも時間がかかる。ママはいつもイライラしているけど、今はおなかが減っているのかいつも以上に横柄だ。
「あ、あの、ママ……ごはん、レンチンでもいいかな……」
「はあ!? あんた舐めてんの? アタシはぜーったい炊き立てじゃないと嫌って言ってるじゃない! 冷凍したものなんか味が落ちて不味くて食えたもんじゃない!」
そうですか、冷凍ご飯はお嫌い、と。三日前にご飯が足りなくなって、こっそりレンチンしたご飯はたいそうお気に召していたのに。気付かないほうがいい事実ってあるよね。
あたしはあきらめてご飯を炊く準備をする。姉も和食ならいいんだけど、と心の中で祈りつつ。
「ほんっとダメな子ね~! あんたみたいな子、養子にもらってやるなんて、優しいアタシくらいよ。もっともっとご恩を返してくれなきゃ、割に合わないじゃない」
キッチンの壁に寄りかかって、ママはもさもさした頭を女優にでもなったかのように指で梳いている。まったくセクシーではないが、いい気分になっているのを崩すことほど面倒くさいことはないので、そうだね、と短く答えた。
あたしは、養子にもらってくれって頼んだ覚えはないけどね。児童養護施設のマサコ先生が知ったら、きっとこの現状を悲しむだろう。
マサコ先生……
つい懐かしい名前を思い出してしまった。両親のいないあたしにとって最初に流れ着いたのは、市の児童養護施設だった。そこで唯一、あたしに優しくしてくれた年配のマサコ先生は、いつもあたしの心の支えになっている。
あたしももう、十五歳……あと一か月で十六歳か。年齢的にも、もう戻ることはできない。五歳から半年だけ入っていた施設だったけど、五歳以前の記憶がないあたしには、『神籬エリカ』が始まった場所なんだ。
「……ちょっと。何よその目は。アタシがイジメてるみたいじゃない!」
すごい。加害者って、本当に加害意識がないんだ。いつかネットで読んだ通りなんだなぁ。
あたしがマサコ先生や施設のことをぼんやり考えている間に、ママは頼りない自律神経がさらに乱れたらしい。返答がないことで無視されたと感じたのか、いきなり顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
「ちゃんと返事しなさい、この親無し子!」
今時古い言い回しするものだ――さまざまな罵倒にいみじくも慣れてしまったあたしの心に、その程度の言葉は何も響かない。
それを知っているからか、余計にママは顔をテングみたいにして、とうとう右手を振り上げた。
「ハイくらい言えねえのかお前は!?」
――殴られる!
精神的痛みも嫌だけど、肉体的な痛みなんかもっと嫌だ。でも逃げ場もない。あたしは恐怖に一瞬で身がすくみ、情けなくも膝が笑っていた。腰が支える力を失い、すとんとその場に座り込んでしまう。
痛みは、強い記憶だ。
何度夜を越えても、この記憶だけは鮮明に、強烈に残り続けている。何を思って相手が暴力をふるうのかなんて、あたしには分からないし知りたくもない。
親のいない未成年の女なんて、なんと弱い生き物なんだろう。
あたしは目を閉じた。少しでも嫌な風景が目に入らないように。辛い時間が早く終わるように、祈るしかできることはなかった。
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