第4節

 習慣というのは、ありがたくも恐ろしい。


 出かけるときにはすっかり暗く重い気持ちになっていたものの、でっぷりと太ったさんまが四匹買えたことで、あたしの足取りは軽いものになっていた。

 しかも、下あごが真っ黄色になってるやつ! てっぷりと太って脂ものっていそうだし、これは夕飯が楽しみだなぁ。


 今の生活になって、社会と隔絶した毎日を送っていると、自然食べることくらいしか楽しみがなくなってくる。どんな状況でも楽しもうとするのは、もはや生き延びるための癖みたいなもの。人間、何かにすがりついていないと生きていられないもの。


 近所のスーパーから帰る道すがら、るんるんでステップを踏んでいると。


「――あ! ぁああああ!?」


 やばい。これは、もしかしたら。


 あたしは唐突にあることに気付いて、買ったばかりのスーパーの袋を道のど真ん中でガサガサあさり始める。


「うあー……やっちゃったよ」


 誰も聞いていなくても、声は出るもんだ。誰に聞かせるわけでもないけど。

 そんな後悔とともに、がっくりと全身の力が抜けてしまった。


 なんてことだ。美女にはイケメン、剣士にはヒーラー、ツイッターには炎上。それくらい必須アイテムの、「サンマには大根おろし」を買い忘れるなんて。


 これは、急いでスーパーに戻らなければならない。けれど、問題が一つある。

 ……あたしは、あまり方向感覚がよろしくない。


 どんな家事でもパーフェクトにこなす自信だけは(悲しいながら)身についてしまっていたけど、道だけはどうも覚えるのが苦手だった。なぜならば、いかんせん学校と家の往復のみしか許されず、遠出などせず、せいぜいスーパーに行くくらいの外出経験しかない。あたしにとって、外の世界はあまりにも小さく、狭かった。


 しかし、遠回りする正規ルートより、なんとなーく覚えている近道の方がはるかに時間が短縮できるのも事実。


 あたしは重いレジ袋を持ち直しながら、よしっ、と小さくつぶやいて気合を入れなおし、まっすぐ行くべきところを左に曲がっていった。


 早く帰らなきゃ。とはいえ、まだまだ日の高い時間帯。


 ようやくぽかぽかとあたたかくなってきた外の気温は、お散歩にはちょうどよかった。どうせ早く戻ったって何かてきとーな細かいことでお小言を言われるのは目に見えている。開き直って、せっかくの外出を楽しもう。


 こうあたたかいと心配するのがサンマちゃんのことなんだけど、念のため大量の氷を入れておいたから、すぐに腐る心配はない。

 その分重くなってしまっているのは……考えると辛くなるから、頭から追い出しておこう。


 コンクリート塀の上から、立派な柿の木がこちらを見下ろしている。全身にたっぷり、橙に色づいた立派な果実を実らせていた。鳥がつつくのも寛容して、秋の恵みを振りまいている。


 最初は楽しかったお散歩も、ずっと歩いていくごとに足の裏がずきずきしてきた。そしてとうとう、あたしは見知らぬ路地で立ち止まってしまった。


「えーーーん……ここどこぉ……」


 とにかく、一度戻ったほうがいいかもしれない。これ以上迷っても、回りは住宅街ばっかりで道を尋ねることも難しいし……


「はあ……どうしよう」


 こんなとき、急に心細くなる。


 まるで五歳の女の子。行く場所も分からず、帰る場所もなくなって、記憶もない。着ている服以外何も持っていない。そんなあの頃に、強制的に叩き落される。

 遠くで子供たちの笑い声がした。家の窓が開け放たれて、白いカーテンが揺れている。


 どうしてあたしの世界は、あたし以外がいつもみんな幸せに見えるんだろう?


 レジ袋をつかむ手が、じんじん痛い。サボりかな? セーラー服を着た女の子が自転車で軽やかに、あたしを追い抜かしていく。つやつやサラサラと風に流れる長い髪が、自由の象徴みたいでとてもきれいに、まぶしく見えた。


 寂しさに押しつぶされそうになる心に、体も重く感じて座り込みそうになった――その時。


 ふわっ、と、あたたかい風があたしの黒い髪を持ち上げた。

 秋にしては生暖かい、やけに優しい風。それに、かすかに甘い花の香り。


 まるで、「下を向くな」と勇気づけてくれているような。


「……いやいやいや。ただの風じゃん」


 そうだ。あたしは非現実的なことなんか信じられない。あたしを救ってくれるとしたら、現実的で物理的なこと以外ありえないんだから……。


 それでも、その風に背中を押されるようにあたしはふらふらと歩き始めた。行先なんてわからない。別に、あの家に帰りたくもない。


 あたしはもはや、半ば自暴自棄に足を進めた。いつでもそうしてきたように。絶望を引きはがすように、現実に生きてるあたしは歩き続けるしかない。


 どこか休めそうな場所を探して、さまようあたし。だが、そんなあてのない散歩も角を三つ曲がったところで、唐突に終わりを迎えた。


「――やあ。お嬢さん」


 神社……なのだろうか。


 どす黒い鳥居に、瓦が落ちまくったどんよりとした屋根。掃き清められたところのない落ち葉だらけの石畳の上には、清廉な赤袴と白い着物に身を包んだ、長身の男の人が声をかけてきた。


「あ、どうも……」


 何気なく声をかけられたので、ついこちらも返答してしまう。だがあまりにも、なんというか……


「さびれてる……」


「えっ」


 あぁっ! あたしの馬鹿! こういう下手に言葉を我慢しないところが嫌われるって、短い学生時代のときに学んだでしょーが!

 神主らしき人はしかし、あたしの発言に一瞬目を丸くし――怒るどころか、ぷっ、と噴出した。


「あっははは! そうなんですよ、正直なお嬢さん。すっかり寂れてひどい有様でしょう?」


「あっ、いえ、その……! ごめんなさい! 急にへんなこと……」


「いえいえ。事実ですから、お気になさらず。やあ、お買い物途中でしたかな」


 あたしの買い物袋を目で指しながら、涼しい顔でにっこりと微笑む。黒髪をそっとなでつけ、オールバックにした姿は神社の神主さんというより、エリート商社マンとしてスーツに身を包んだほうが似合うのではないかと思うくらい、「長身のイケメン」を見事に体現していた。


 男性にあまり面識がないあたしはなんて答えたらいいかわからず、こくこくと首を縦に振りまくる。


 やばい。こんなイケメンに、なんて言ったらいいのか分からない。何歳なんだろう。三十は越えているだろうけど、つるんとした白い肌から年齢は読み取れず。ふっと細められる切れ長の目は優しくこちらを見ていた。


「あなた……」


 神主さんが、雪駄の音も軽やかにこちらに近づいてくる。あたしはすっかりビビりあがって固まってしまい、神主さんの動きを目で追うばかりだった。


「……わたしは、こちらの月石神社で神主を務めております、十河和緒とがわ なおと申します。失礼ですが、お名前をうかがっても?」


「えっあっのあのあたしっ、神籬エリカといいますっ」


 コミュ障陰キャのイケメン免疫皆無な体質の日陰女子は、悲しいながらイケメンを前にすると日本語能力が宇宙までぶっ飛ぶ。


「ひもろぎ、さん」


 神主さん――十河さんは、涼やかな目元をいっぱい開いて、そのままじぃっとあたしを見つめる。どうして十河さんがこんなに見てくるのか分からなくて、自分の容姿にあまり自信がないあたしは見てほしくなくて、思わず目をそらす。


「あ、アハハ、その、珍しい苗字ですよね。ていうか書くの難しすぎ! みたいな。小学校までびみょーに間違えたまま、テストとかに記入してたりして~」


 気まずくて何と言っていいかわからなくて、無駄に早口でまくしたてるあたし。頭の中ではもっと冷静に、クールビューティーに年上イケメンと余裕ぶって話している妄想が補完できているのに、現実はなんと無様なことか。


 陰キャの特徴「話始まりは「あ」から言わないと死ぬ病気」なあたしの話し言葉を、しかし十河さんは穏やかににこにこ笑いながら聞いてくれていた。神かな。創世伸か。


「そうなんですか。確かに、あまり聞かないお名前ですよね。ああ、そうだ」


 十河さんは十段ほどの階段を降りると、あたしと同じ道路に立つ。隣に並ぶと、そのすらりとした長身っぷりがさらに強調される。

 お香、だろうか。とても大人っぽい香りに、あたしの心臓が余計にどくどくと早鐘を打っている。心臓、壊れないかな。

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