第3節
「…………?」
あたしの覚悟を、あざ笑うかのように。
痛みの瞬間は、いつまでも訪れなかった。
おそるおそる、目を開ける。
「……ぅはっ?」
我ながら、情けない声が出たもんだ。
ママは、憤怒の鬼のような顔で右手を振り上げたまま固まっていた。
時間が、停止している。そう表現するのがぴったりな状況だった。
それでも、あたしは動ける。頭を守るために上げていた腕を下ろし、訳の分からないまま四つん這いになって、カサカサっとその場から退避した。
どくどくと、極度の緊張と混乱で、耳の奥がうるさい。
「ま……ママ……?」
触るのも怖いけど、ずっとこのままで般若像みたいなのができても困る。あたしはぷるぷると震える指先で、なんとか、ママに触ろうとした。
途端、ママの肩とあたしの指の間で、ぱぁっとピンク色の火花が目の前で弾ける。そのきれいなきらきらした光はあたしに降り注いで、肌でジャンプして、きんと冷たい感触をこぼしていった。
どうしてだろう。その光を、見ていると。
泣きそうになっちゃう――
――ぱちんっ!
「あぁあっ! ぃいだいッ!」
ゴムが弾けたような、甲高い音。そしてヒキガエルのような、ママの悲鳴。
唐突に時間が動き出した。ママはどばたーん! と素晴らしい勢いで尻もちをついて、顔を真っ青にしている。赤から青に、忙しい人だ。
あたしはもう、混乱の極み。自分の右手を広げて、じっと視線を落とす。ピンク色の光は消え去って、肌にためらいのような冷たさだけが残っていた。
「あぁあぁぁんた!? 一体何したんだ!」
「しっ、知りません!」
本気度100%の回答にも、しかしママは満足いただけなかったらしい。何が起きたかなんて、むしろあたしが聞きたいのに。
時間が止まった? 世界がバグった? そんなことママに言っても説得力ゼロだ。説明してるあたしの方が頭がおかしいように、自分でも聞こえる。
「うっるさいなぁ~こんな朝からぁ」
うわ、余計なのが……いえいえ。飯縄家のお嬢様、あたしのお姉さま(そう呼ばないと怒る)、香苗が起きてきた。
さすがにこんなどったんばったんしていたら、寝てなんかいられないよね……社畜で体力ボロボロのパパは、こんな中でも寝ているみたいだけど……
香苗は根元が黒くなってきた金髪をボリボリかきながら、キッチンで座り込んでるママと、呆然と突っ立っているあたしを交互に見て、それからママに近寄った。
「何やってんのママ、新しいエクササイズ?」
「そんなわけないでしょう!? またよ、この疫病神は!」
そう。“また”。
あたしの身の回りで、こんな不思議な状況は正直、当たり前のようにしょっちゅう起こっていた。
誰かが転ぶ、誰かのお皿が割れる、誰かが小指をぶつける。
あたしだって最初こそは、ただの偶然だと思っていた。その人の不注意、あるいは不幸な事故。それでもあたしは、認めたくなくても、そこにはひとつの事実がついて回っていることを忘れられない。
そのような不幸に見舞われた人はみんな、あたしを傷つけ、害しようとした人たちばかりだってこと。
同情はできなかった。でも、それで気持ちが晴れるわけない。
傷つけられるのは怖い。悲しい。腹が立つし、何より、寂しい。
それでも――誰かが傷つくのを見るほうが、苦しい。
「大丈夫ですか、ママ……?」
おずおずと差し出す手。しかしそれは、とんでもない憤怒の表情をしたママに、ばしりと払われた。
「触るな、不幸が移る! ああ、もうこんなことなら五年前に引き取るなんて言うんじゃなかった!」
「うっわウケ~ママだって保険料たっくさんはいるって喜んでたじゃーん」
「金は金、気味悪いもんは気味悪いんだよ! ああもう、さっさと食事作ったら買い出し行ってこい! 掃除も忘れるなよ!?」
「……はい……」
きっちり家事は押し付けるんですね、とは口が裂けても言えず、あたしは素直にうなずいた。
どうして、あたしばっかり。
何回もそう考えて、考えるだけ無駄だって絶望して、考えることをやめただろう。
香苗に支えられながらキッチンを出ていくママの広い背中をみながら、あたしはぎゅっと自分で自分を抱きしめた。
――あたしは、自分を信じてる。
自分だけは、自分を信じなきゃ。誰も信じてくれない。誰も求めてくれない、誰も信じてくれないんだから。
だから、あたしはあたし以外を信じない。
さっきのだって、疲れすぎたあたしがめまいを起こしたのだろう。うん、そうだ、きっとそう。めまいを起こして目がおかしくなった人は、目の前に火花が散ったみたいに目がチカチカすることがあるって聞いたことがあるもん!
そう。だから――
あたしのせいじゃない。あたしの、せいじゃないのに……
あたしに関わる人はみんな、いずれ離れていく。お前は気持ち悪い、お前に関わるとろくなことがないって呪いの言葉を吐いて。
年々、息をするのも苦しくなってくる。考えちゃダメなのに、「なんのために生きているの」って叫びだしたくなってくるのに、逃げる勇気もない。
(……ああ、そういえば)
一人だけいたっけな。あたしに怒らず、初めて笑顔を向けてくれた友達が。
でもそれは中学のこと。順調に高校へ進学した中学生と、家で奴隷よろしく家事に追われているニートなんて、会える機会なんかない。
もう顔すら忘れてしまったかつての友人を夢想しながら、あたしは一人朝食つくりの続きをするしかなかった。
「……じゃあ、行ってきます」
リビングに向かってそう言うも、ママはテレビに目線が釘付けだ。返答のないことはわかっていても、一声かけないで出かけるとあとでうるさいのだ。
青色のがま口を、ぱかっと開く。三千円……これで、家族三人分の朝食と夕食を、一週間回さなくてはならないのだ。足らないなんて言ったら、何をされるかわからない。
重い扉を開けて外に出れば、ひゅっと冷たい風が顔を撫でた。寒いのは嫌いじゃない。寒すぎるのは嫌だけど、これくらいの温度は背筋がしゃんとして気持ちが落ち着く。いろいろなことでぐちゃぐちゃな心が、冷やされていくみたい。
外に出て空を見上げれば、今日はよく晴れていた。うっすらと白い雲がぽつりぽつりと流れていくだけで、どこまでも吸い込まれそうなほど青く突き抜けていた。
お父さん、お母さん。
二人が死んだ朝も、こんな風によく晴れていたんだって。
どうして置いていったの、なんて恨み言を言えるほど、あたしは二人のことを覚えているわけじゃない。五歳前後に何かあったはずだけど、それ以前を覚えていないってことはよっぽど忘れたかった記憶なのかな……
低い外気にさらされた手が、あっという間にかじかんで感覚がなくなってくる。はあー、と手にあったかい息を吹きかければ、真っ白な煙になって空気に溶けていった。
「あたしがもし死ぬなら、溶けて消えたいな」
氷が溶けていくように。雨が川になって、一体となっていくように。
誰にも聞かれることのない独り言は、冬風がさらっていった。
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