第10節
何度も、何度もあたしの名前を呼んでくれても。霆門の声は、あたしには少しも届いていなかった。
ずぶんっ!
「きゃぁッ!?」
あたしの足下が、泥沼になったかのように沈んでいった! 怖い……! 底のない沼のように、ゆっくりと体が沈んでいく。泥の中は背筋が凍るほど冷たく、一分、一秒ごとにどんどん体の自由を奪っていくみたい。
「だめだ、諦めるな! 心が弱ると闇に飲み込まれるぞ!」
少しだけ、霆門の声が聞こえてきた。
飲み込まれる。死んで、しまう?
だめだと言われても、言い知れない恐怖感はあたしをさらに混沌へと突き落としていく。濁流の中でもがくように、必死に手足を動かしても、いっこうに体は持ち上がらない。
闇の向こうにいる霆門の手が伸びる。霆門のすごく焦った顔が、見えた気がした。
「助けて、霆門……!」
あたしも霆門に向かって必死に手を伸ばす。
こんなところにいたくないよ。ひとりはもういやだ……!
「ぐぁッ!」
けれど闇は、巨大な一本の腕を作って思い切り霆門を振り払った。闇の中から、霆門のきれいな体が吹っ飛ばされるのが見えた。
「いやあっ! 霆門!」
霆門が死んじゃう!
「やめて、お願い、止まって……!」
反響すらしない深い闇の中で、あたしは誰かに懇願した。けれど宛先のない願い事は、誰にも届くことはない。闇はどんどん深くなって、霆門の姿がほとんど見えなくなってくる。
けれど霆門はすぐに立ち上がり、ひるまずに手を伸ばしてくれた。
あたしも、手を伸ばす。でも、縮まない距離。
「――霆門!? どうしたんですか!?」
遠くのほうで、十河さんの声が聞こえる。でもそれは水の中で声を聞いているように、ぼんやりと輪郭がはっきりしない音声だった。
「闇……可視化したら、途端に暴れ……禊ぎす……いつが危な……!」
「そん……!」
「今すぐこ……俺が……手伝え、……!」
どうやら、あたしを助けるために二人ともなんとかしようとしているみたいだった。
――ああ。間に合わない。
冷たい、氷の湖の中に落ちたときのように。あたしの手足はすっかり凍えて動かなくなり、指一本でも自由にならない。
それでも空に向かって伸ばしている腕が――とぷん、とすべて泥の中に沈んでしまうまで、数分とかからなかった。
★ ★ ★ ★ ★
静かだ。
気付けば、あたしは……しんと静まりかえった闇の中で、膝を抱えてうずくまっていた。
天も地もない真っ暗闇で、恐怖に動けずにいる――最初はそうだった。このまま息が止まるんじゃないかって、怖くて不安で泣きたくて、それでも水の中に入ってしまったかのように涙なんて出なくて。
自分の呼吸さえも聞こえない闇の中で、あたしはここが懐かしい気さえすることに気付いてしまった。
永遠の孤独。かつて自分が求めていた世界。誰にも邪魔されず、誰にも迷惑をかけず、誰にも害されない。そんな場所。
そして、なんだかここは……とても懐かしいにおいがする。
……ずっとここにいるのも……いいかもなぁ……
どうせあたしなんかを待ってくれる人もいない。帰るべき場所だって、存在しないのに。
どぷんっ……
心が落ちていくと、体がさらに深い、昏い水の底へぐんぐんと沈んでいくのがはっきりと分かった。手足の動かし方も忘れて、一つの卵みたいに、思考が溶けていく……
――めだよ…………
「……え……?」
熱い……何かが、すごく熱い。けれどそれは、太陽みたいに優しいあたたかさで、どこかであたしはこの温度を知っている……
――起きて。起きて、エリカ!
聞こえた。今度こそ、しっかりと名前を呼ばれた。そしてあたしは、その声でようやく思い出す。
自らの手のひらから発せられる、必死にも感じるほどの切ない熱量。それは手のひらを見た瞬間にぐんぐんと光を増していき、暗闇の中に明かりと影を作っていく。
「神様の……たまご……」
どうして今まで忘れていたんだろう。霆門からもらったばかりの薄青の卵は、今や小さな陽の光のように輝いていた。その光に照らされて、あたしの姿が闇の中で輪郭を保っていく。
『思い出して、エリカ。あなたを待っている人がいる。あなたを探している人がいる』
とても、とても綺麗な澄んだ声。笛の音のようにしんしんと耳に響く声は美しくて、一度聞いたら忘れられないような声だった。
あたしを、待っている人……?
そんなこと言われても、そんな人誰も思いつかない。この綺麗な声の人は、誰を思い出させようとしているんだろう。
一人も思いつかない寂しさで、ぐっと気持ちが落ち込むと。光はそれに呼応したみたいに暗くなっていってしまった。途端に、闇の色が強くなる。
『ああ、だめエリカ……あなたが闇に消えてしまう――』
それも、いいかもしれないな。
このまま消えちゃいたい……眠るようにまどろんで、だんだんと意識が遠のく――
「――ワン、わんわんっ!」
元気な元気な、子犬の声。思わずその声に、ぱちっ、とまぶたを開ければ。
真っ黒に濡れたお鼻が、目の前にズン! と迫っていた。へふへふへふ、とピンク色の舌が忙しなく動いている。濃い茶の毛並みがふわふわで、まるっとしたフォルム。黒々とした目はちゅるんと輝き、キラキラした目であたしを見ていた。
「きゃぷゎんっ! わん!」
豆柴の子供、子豆柴はあたしの鼻をぺろっと舐めた。そしてぐるぐるとあたしの周りを走り回る。その子が動く度に、火花みたいにピンク色の光が振りまかれていく。ぱちん、とピンク色の光が触れると、そこだけツンと冷たい。
この冷たさ。この、ピンク色の火花。
あたしは知ってる。この光を、この冷たさを。そして何より――この目を、この特徴的な鳴き方を、覚えていた。
「ヤナギ……?」
「ぁワワン! きゅぷぅ……」
そう。覚えてる。小さな子犬が、雨の中道の隅っこで震えていて、小学三年生だったあたしはその子がかわいそうで見ていられなくて、思わず拾って帰ったんだ。
でも、養子の身ではバレたらまた捨てられちゃうって、少し離れた空き地で飼ってたの。毎日給食の残りや夕飯の残りをかき集めて、雨の日は家の軒下に入れて。
大切にしていたのに、ある日ヤナギはどこにも居なくなってしまった。
泣いて泣いて一生懸命探しても、ヤナギは見つからなかった。その後、養子先の家の意地悪な兄が、段ボールに入れて橋の下に捨てたって言って、慌ててその場所に行ったけど――
ヤナギの姿はなく、前日に降りしきった大雨の影響で濁流となって暴れ回る川の姿に、呆然と立ち尽くしていたっけ。
『思い出した? その子はあなたの守護獣。ずっとあなたを守ってた』
「わんっぷ!」
むじゃきにあたしの腕に飛び込んでくる、小さな茶色い体を抱きとめる。小さな頼りない子犬。でも、何よりも濃い暗闇の中で、このふわふわの手触りは何よりも心強くあたしの心を揺さぶった。
それに、何より――
「ごめん、ね……! ヤナギ、ごめんなさい……あなたを守りたかったのに……!」
こんなこと信じられないし、信じたくない。でもこの世界にいると、嫌でも本能が叫んでいた。
――ああ。ヤナギは、やっぱり死んでしまったのだ。
ママが殴ろうとした時、守ってくれたのはヤナギだったんだね。ただ数週間だけの友達だったのに、ずっと守ってくれたなんて……
『ヤナギちゃんだけじゃないわ。今のあなたなら、この声が聞こえるでしょう?』
卵はそう言うと、ふわりと手のひらから浮き上がった。そしてくるくる回り始めると、天に向かってまっすぐビームみたいに一筋の光が闇を切り裂いていく。
「――カ! おい、エリカ! 聞こえておるのか小娘、早く戻ってこい!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます