第42節

「今日は一日、本当にありがとう! とっても楽しかったよ」


 新鮮な驚きがいっぱいの一日だった。ずっと家に引きこもっていては得られない数々の経験が、宝石のように輝いていた。


 商店街の入り口で、モモちゃんはあたしの手をぎゅっと握って、真剣なまなざしで口を開く。


「ねえ、エリカちゃん。エリカちゃんはすごく素敵な人だよ。そして本当に、きれいで可愛い人なの。どうか道端の雑草に耳を傾けないで、堂々としていて」


 祈りにも似たモモちゃんの言葉は、あたしの心に深く突き刺さった。


 ――モモちゃんは。


 もしかして。あたしの外見を変えるのが目的じゃなくて、あたしに自信をつけさせるために、丸一日使ってこんなにもいろいろしてくれたの……?


 入学式、あたしのことを笑っていた女子生徒を、モモちゃんは悔しそうな顔で見ていた。エリカちゃんは可愛い子なのにって、モブ扱いされたことに怒っていた。


 あたしはそんな扱いにすっかり慣れてしまって、怒る方法さえも忘れてしまっていた。


 そうか……。自分の大切にしているものをバカにされて、怒ってくれたんだね。怒らずに受け入れてしまったあたしの代わりに。しっかりと悲しんだ、心の代わりに。


「モモちゃん……っ!」


 それに気付いた瞬間――あたしは、思わずモモちゃんを抱きしめていた。


「ふぁッ!? えええええぇぇええどどどしたのエリカちゃん」


 あたしから行動を起こしたことが初めてでよほど衝撃的だったのか、声が震えまくっていた。ぷるぷると生まれたての小鹿のように体を震わせ、わきわきと両手が居場所を求めてさまよっている。


 本当に、本当になんて素敵な子なんだろう。モモちゃんは。


「ありがとう。モモちゃん。いつもいろいろ気付くの遅くて、ごめんね」


 モモちゃんは無言のまま、ぶんぶんと首を横に振ったり、うんうんとうなずいたり、落ち着かずにあわあわしていた。


 あたしはいつも周りが見えていなくて、心を知ることを怖がって、本当に大切にしなきゃいけないことに、気付くのが遅くなって。


 それでもモモちゃんは、懸命にあたしが気付くように声をかけてくれる。あたしの本当の心の声に耳を傾けるようにって、教えてくれるんだ。


「べべべつに、私は、エリカちゃんが笑ってくれればそれでいいんだよ」


 他人の幸せを願える人が、本当にすごい人だって、あたしはモモちゃんからたくさん教えてもらったんだよ。


 だから。


「あたしは、モモちゃんが幸せなら、それで幸せだよ」


「エリちゃぁあん……!」


 とんとん、と背中を撫でてあげると、モモちゃんはえづくほどボロボロ泣きながら、しがみつくように抱きしめ返してきてくれた。


 ありがとう。もう、モモちゃんからの友情を疑ったりしない。


 信じることは怖い。まだ慣れない。上手にできないかもしれない。それでも、ここまでしてくれたモモちゃんの心を疑うことだけは、したくなかった。


 名残惜しい。まだまだ遊んでいたい。でも、時間だけは誰にでも平等に存在している。霆門も疲れただろうし、あたしたちにはそろそろ帰る時間が迫っていた。


「――また月曜日、学校でね!」


 モモちゃんがそう言って手を振りながら、ずっとあたしたちを見送ってくれる。あたしは振り返り、振り返り、何度も手を振った。


 両手にいっぱいお土産を抱えた、神社への帰り道。モモパパからもらったたくさんのフルーツが、いい香りを放っていた。これはナオさんもきっと喜んでくれるだろう。リンゴがたくさんあるから、アップルパイとか食べたいな。学校の図書館なら、きっとレシピもあるよね。


「今日は本当にありがとう、霆門。いろいろ歩き回って疲れてない?」


 大きな紙袋を二つも持っている霆門に、あたしは気づかわしげな言葉をかけた。思えば疲れやすいとか体が弱そうな発言をしていた霆門にとって、一日中歩き回るのはかなりの負担になったんじゃないかな。


「問題ない。お前と違って、やわじゃないからな」


 ほーら、二人っきりになるとすぐこれだ。いつもの霆門の調子でからかわれるように言葉が返ってくる。


 でも、その言葉は虚栄ではないのだろう。すました顔で、重い荷物を軽々と運んでいる。モモパパってば張り切っていろんな種類のフルーツを持たせてくれたもんだから、紙袋が破けそうになっていた。


「もうっ、心配したのに! 荷物も持ってくれちゃってるしっ」


「果物がたくさん入ってるからな。お前に預けて転ばれでもしてみろ、台無しだろ。ほら、このスカイベリーとかいうイチゴは驚きの大きさだな!」


 いろいろあった今日だけど、新しく知ったことがもう一つある。


 すなわち。霆門は意外と、甘いもの好き。


 あたしに対しては向けない、きらっきらした目で、霆門の手のひらの半分ほどもあろうかという大きなイチゴを紙袋からわざわざ引っ張り出して、目の前に掲げてみせた。


 おぉ、確かに大きい。一口じゃ絶対口に入りきらない。なんだか高そうなものをもらってしまったのではないだろうか……


「お前、いい顔するようになったな」


 スカイベリーを大切そうに紙袋に戻しながら、霆門が何気なくそう言ってきた。


 え、いい顔? 自分の顔なんて自分から見れないから、どんな顔してるのかなんて想像するしかないけど……


 でもこれは、褒めてくれてるってことだけははっきりわかった。それもこれも全部、モモちゃんが心を砕いてあたしのために奔走してくれたからだ。


 胸の内でまたモモちゃんにこっそり感謝していると、霆門が「けどな」と言葉を付け加えた。


「お前、あまりあの桃瀬に深入りするなよ」


 霆門の言葉に、一瞬頭が理解するのを拒絶した。


 今、霆門はなんて言った? モモちゃんに、深入りするな――これ以上仲良くなるな、って言ったの?


「それは、どうして?」


 発言の意味がまったく分からない。そんなことを言われたら急に不安になってきちゃうじゃないか。


 霆門とモモちゃん、二人で美容室を出て行ったあとに何か話でもしたに違いない。


 けれど二人は、そのときの会話の内容をあたしに教えてくれることはなかった。


 三人で食事に行ったとき、ちらと聞いてみたけど「ただの世間話だよ」とモモちゃんに微笑まれて、結局謎のままだった。


 霆門はすぐには答えなかった。なんと言えばいいのか、適切な回答をさがしているように見えた。あたしにはそれが、余計不安に見えてしまう。


「桃瀬は……闇の影響下にあり、人間関係を構築できなかった小学校時代ですでにお前に心酔しているってことだ」


 霆門の言うことを聞いて、あたしははっとした。


 確かに、霆門の指摘は間違ってない。モモちゃんと出会った時点ではまだ闇はあたしの中にあったはず。人間関係に悪い影響を及ぼす闇の力は絶大で、おかげさまで寂しい小学校時代を過ごしたんだ。


 それなのに、モモちゃんはずっとあたしのことを慕ってくれていた。あたしが忘れてもなお、あたしのことを想い続けて、周りの人たちに一生懸命話をして……


「それって、どういうこと……? モモちゃんが、闇の影響を受けてなかったってこと?」


「それ以上は、いずれあいつの口から話すだろうよ」


 いつかは分かる日が来るさ。そう言って、霆門は黙ってしまった。


 夕暮れ時。太陽が、赤く燃えていた。


 不吉なほど鮮やかに、赤く燃えながら、身を溶かすように沈んでいく。


 霆門の不穏な言葉はあたしの心に強く刻まれ、いつかその日が来ることを望んでいるような、そんな日が来ないことを願っているような――唐突に訪れた不安に、揺れていた。


 モモちゃんの笑顔が、夕暮れに溶けていく。


 楽しかった時間と同じくらいの、ううん、楽しかったがゆえの不安が、一気に胸に広がっていった。


 モモちゃんは、いったい――何者なんだろう?


 それはきっと、明日学校で会ってもすぐには教えてくれないだろうけど。今はただ、イチゴ色に染まった空を見上げながら、霆門と並んで家に帰るだけだった。

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