剥がれた仮面が見つからない
商業区から中心部にある屋敷まで、驚くべき速度で駆け抜けた。
数段の階段で盛大に息切れしていたヘビースモーカー時代とは比べ物にならない。健康な若い身体のスペックに驚きつつ、私の脳内はそれどころではなかった。
なにがハルクレッドとの関係も大事、だ!
なにがふたりとの関係を壊したくない、だ!
やってしまった。いずれなにかしらやらかすだろうと考えた直後にやらかした。
いくら同性婚が認められているといっても、不貞行為は認められていない。場合によっては犯罪だ。
ガタガタと扉をあけて、玄関に飛び込んだ。そのまま硬い床に身を投げて頭を抱える。
「ジークレット様!?」
駆け寄ってきたラウラが慌てたように私の肩に触れた。
アーレストとの話をつけるために、今日は帰らないと言っていたはずなのに。なぜラウラがここにいるのか。忘れ物?
とりあえずやらかしたことの重大さは置いておくとしても、いままさに恥ずかしい体勢を目撃されていることには変わりない。
状況が色々な角度が殴りかかってくる。やっぱり私は世界に嫌われているに違いない。
「ラウラ様……なぜここに?」
「兄に号を返上してジークレット様の弟子になりたいと申し出たところ、二つ返事で了承の意をもらいまして。ですので、ご報告に戻りました」
「そうですか……」
至近距離で床と見つめ合ったまま、ラウラの言葉を聞く。
内容は分かったが、諸々それどころではない。ラウラが実家と揉めることが無かったのは幸いだ。
けれど、私の頭は油断すると先ほどのことを思い出してしまう。下手したら犯罪、デルフィナとの関係、下手したら犯罪、私も舌吸われたい、デルフィナ、キス、ハルクレッド、犯罪……
あと、顔を上げるタイミングを失った。
「ジークレット様、お身体の具合でも……?」
「ラウラ様、不貞行為による犯罪とはいったいどこからなのでしょう」
「え、不貞行為ですか!?」
やめて大きな声ださないでぇ……
逮捕?逮捕なの?ジータちゃん、まさかの逮捕?
この国の犯罪者って重労働刑だったはず。犯した犯罪の重度によって刑期や労働場所が決まる。
「えっと、家庭維持の義務、でしたか。不貞行為はたしか、家庭内の不和をもたらした夫または妻に問われる罪です。伴侶以外の方と関係をもっても、家庭内の不和が認められない場合は犯罪にはなりませんし、相手も同じく罪には問われませんよ」
ですので、たとえジークレット様が伴侶のいる方と関係をもったとしても、ジークレット様ご自身は罪には問われません。
と続けたラウラの言葉に、まずは一つ目の安堵が押し寄せてきた。労働刑はない。
そうだ、随分と前に勉強したが、すっかり記憶から抜け落ちていた。ナーシャとの王国法の授業で習ったはずだ。
家庭維持の義務。婚姻の届が受理された者は、その家庭を維持する義務がある、というもの。伴侶や子どもへの暴力、養育の放棄など、家庭内に不和をもたらす行為を禁じている。そして、不貞行為もまた、これにあたる。
「えッ!?ジークレット様、家庭がある方と恋人なのですか!?」
「ち、ちちちち違います!」
ガバっと顔をあげると、心底驚いたというような顔をしたラウラがすぐ近くにいた。危ない、勢い余ってラウラの顎に頭突きするところだった。
「恋人でもないのにキスしてしまっただけです!」
「どういう状況ですかソレ詳しく!」
「痛い痛い、痛いですラウラ様」
勢いよく肩を掴まれ、かと思いきや勢いよく離れていく。涙を見せたあの日から、少しずつ距離は近づいているような気はしていたのだが、どうにもラウラの勢いがおかしい。
どういう状況かって、そりゃ、言葉通りの意味でしかない。恋人でもないのに猛然と舌を貪っただけだ。
たしかに前世の私は恋人でもない女の唇や舌どころか身体中を舐め尽くしたし、舐め尽くされた。ひとりやふたりではない。大学生の頃は本名もしらない女と三日三晩ホテルにこもったことがある。
なぜだろう。あの頃だったらきっと、ただ逃げるだけで終わったはずなのに。なぜ私はいま、こんなにも焦燥しているのだろう。
「大切な師の奥様なのです。十歳のことからずっと好きで、あの人もきっとそれを知っていて……だからでしょうね。私をいつまでも子どもだと思っているのです。子どもの可愛い恋心だと」
デルフィナのからかい混じりのそれを疎ましく思ったことなどない。からかうのでもいいから、好きだと言ってもらうのは嬉しかった。
この気持ちを、子どもの可愛い恋心だと許してほしいと願ったのは、私だ。
だけど、そのくせ私は堪えきれなくなった。
前世の思春期は、恋が叶うなどなかったから、こんなことには慣れていると、そう思っていたのに。大丈夫だとタカをくくっていたら、あっさり思春期の情動に負けてしまった。
「それで!?ジークレッド様は恋心に耐えられなくて、ご自身の気持ちをキッッスで伝えようと!?」
「なんですかキッッスって。違います。耐えられなくなったのは仰るとおりですけど……か、からかわれるのですよ。好きと言えば私も、と返してくださるし、ハグをねだれば抱きしめてもくれる……私の反応を面白がって、わざとドキドキさせてくるのです!」
「ウッ……尊い……!」
待って、ラウラが前世のオタクみたいなことを言っている!
それはそれとして、なぜ私はラウラにこんなことを話しているのだろう。躊躇いもなく、ぺらぺらと恥を語っている。そう思えど、この口はとまらない。
「頬に触れられたらキスしたくなってしまうし、思わせぶりなことを言われたらそれ以上を想像してしまう。だから、やめてくださいとお伝えしたのです。なのに……なのにあんな顔をするから!無理、好き、許してくださいハルクレッド先生……」
「お相手はデルフィナ・ソルマト様ですかーッ!」
なんで万歳するんですかーッ!
さてはエルネスタに恋物語を勧めたのはラウラだな!?
「それで!?キスのあとは!?キスして次はどうしたのですか!?押し倒したのですか!?押し倒されたのですか!?」
「してません!走って逃げました!」
「なんでぇー!?」
なぜ頭を抱える!
ねぇ、あなた、そんな人だった……?鉄仮面の女はどこに行ってしまったの。帰ってきて、鉄の女。
楽しそうだったラウラの表情がふと落ち着いて、私の両手を包むように握った。デルフィナとは正反対の冷たい手だ。末端冷え性なのかな。
「お逃げにならずとも良かったのでは?デルフィナ様とは何度もお会いしておりますが、あの方もそれはそれは愛おしそうにジークレット様のことをお話になります。尊いな、と思っておりましたから」
「尊いって、ラウラ様……」
「人の恋路ほど尊く甘美な物語はございませんよ!っと、それは今は置いておきましょう」
アーレスト・ガラ・セルモンドはデルフィナのお得意様だ。屋敷の食器が白石製にすげ替えられているくらいだから、ラウラももちろん面識はあるだろう。
「デルフィナ様は、ジークレット様をお想いになられています。間違いなく」
「……もし本当にそうだとすれば、とても嬉しいことです。でも、それはいけません」
「なぜ?恋人になってしまえば、やらしいことも、し放題ですよ?」
やらしいことって……!そういうことを言われると簡単にその気になる思春期の身体をなめないでほしい。場合によっては前世以上に、この身体は諸々が旺盛だ。なにがとは言わない。とにかく旺盛なのだ。
「なぜ、と言われましても、デルフィナ様はハルクレッド先生の奥様ですよ。私のせいでソルマト家に不和をもたらすわけにはいきません」
ラウラの目を見てそこまで言い切ったと同時、背後のベルがカランカランと鳴った。二人そろって玄関の扉を見て、そのまま黙って顔を見合わせる。
この状況で来客と言われても、そんなのひとりしか思いつかないのですが……
「ジークレット様?」
「ラウラ様、良いですか!私は今から体調不良です!絵を買い付けにいらした方以外とはお会いしません!」
あとはよろしくお願いします!と叫んで、私は部屋に逃げ込んだ。
こんな時は一心不乱に筆を握る。
なんてことが出来るほど、私は職人体質ではない。本当は浴びるほど酒を飲んで、酔いが回ったら泥のように眠ってしまいたい。けれど、そうもいかないので、ただ頭から布団をかぶるだけだ。
早急にデルフィナと話をするべきだ。分かっている。だが、それはあまりにも怖い。デルフィナになんと思われたか、ハルクレッドになんて言われるか。それがとても怖い。一分、一秒先の未来を考えることが怖い。
生まれ変わったところでストレスに弱い臓器が、また私の呼吸をギリギリと締め付ける。浅くなった呼吸を整えるために、なんども深く息を吐いた。
ナーシャもいない。レーナもいない。泣きつけるひとは、もういない。自慢じゃないが、私の交友関係は恐ろしく狭いのだ。十五年も生きてきたくせに、屋敷の使用人を除けば、ソルマト家とセルモンド家くらいしかない。
広く浅く交友関係を築いてきた私は、もういない。ジータちゃんは狭く深く。
……狭すぎる!
「ジークレット様」
「……ラウラ様、どなたでしたか?」
「絵の依頼だそうですよ。応接室にお通ししました」
助かった、と思いつつ、デルフィナでなかったことに傷ついている自分もいた。追いかけてはくれないのだな、と。はあ、乙女のメンタル面倒くさ……
少し油断すると沈み込んでいきそうな心を無理やりにでも押さえつけながら、応接室の扉を叩いた。
「お待たせいたしま……」
扉をあけて、そのまま閉めた。
おい。
おい、ラウラ!おい!
「おや、ジークレット様?」
な、ん、で!ハルクレッド!
振り返ってラウラを睨むと、お茶のセットを盆に乗せたまま、ちろっと舌を出した。
どういうことなの。絵の依頼って言ってたのに!ハルクレッド!
はぁぁぁぁ、と肺からすべての空気を押し出すようにため息をついて、ふたたびノブに手をかけた。先ほど顔を見せてしまったし、いまさら逃げられない。
「失礼いたしました、ハルクレッド先生」
「ふはは、ご健勝そうでなにより。号を返上なされたと伺っておりましたのでな、すこーし心配しておりました」
ウッ……
無理、心臓がキリキリする。どうしよう、デルフィナとのことがバレていないのはわかる。しかし、いずれハルクレッドも知るときが来るだろう。それはきっと、そう遠くない未来の話だ。
その未来が訪れたとき、この温厚なひとはなんと言うのだろう。教え子の裏切りを知って、どう思うだろう。怒鳴る?詰る?怒られたくない……
「どういたしました?お座りになられないので?」
「いえ……はい……座ります、はい」
「ふはは!またなにか悩んでおりますなぁ」
悩んでいるというより、気まずい。とても気まずい。
私がデルフィナを好いていることなど、ハルクレッドはとうに気づいている。しかし、私の抱く情が、たとえば王子様に憧れるようなプラトニックなものではなく、生々しい肉欲を伴うものだとは、微塵も思っていないだろう。
それもまさか、つい先ほど妻の唇が奪われたばかりとは、露ほども思わないはずだ。
「本日は教会の遣いとして参りました。単刀直入に言えば、是非ともジークレット様に、絵を描いて頂きたいのですよ」
「かまいませんよ」
「ほぅ?よろしいのですか?」
よろしいもなにも、教会の依頼となれば宗教画だろう。神話の一シーンか、それともタルクウィニア像か。どちらにしても断る理由はない。私はいつだってタルクウィニアを描きたいのだ。
断じて、ハルクレッドへの贖罪などではない。ないったらない。
「どのような絵をご所望でしょうか。タルクウィニアですか?」
「ふはははは!神官長には断られるやも、と伝えておりましたが、快諾して頂けるとはありがたいことです。いかにも、主のお姿を!と言いたいところなのですが」
「違うのですか?」
ふむ、といちど頷いて、いつものように笑う。うぅ、胸が痛い……ストレスがすごい……
「今年の洗礼式の様子を、描いて頂きたい」
「なるほど……洗礼式、ですか」
「セルモンド邸に贈呈された『未来』をアーレスト様に見せて頂いたのです。神官長がそれをいたく気に入りましてな。是非、譲ってくれと申し出たらしいのですよ」
それはまた、なんとも。
気に入ってもらえたのはとても嬉しいことだが、贈呈品を譲ってくれというのはなかなかに肝が据わった申し出だ。
「しかしながら、アーレスト様どころかそのご息女、エルネスタ様に叱られてしまった、と。ふはははは!なんと申されたか。『この絵はジータが心を込めて描いたものよ!その上で、アタクシにセルモンドの未来を託してプレゼントしてくれたもの。これを譲るのは、ジータとの約束を蔑ろにするのと同義よ。絵が欲しいのなら、ジータに直接依頼なさい!』でしたかな」
「ふふ、エリィが言いそうなことです」
ハルクレッドの似ていない声真似の感想はどうでもいいとして、たしかにエルネスタが言いそうなことだ。我の強いわがまま娘ではあるが、筋の通らないことを許せない正義感の強い子なのだ。ひとつ、違和感を指摘するならば、あの子の説教言葉はもっとキツい。あの歳で自覚があるくらい、言葉のキツさで同年代の友人を遠ざけているくらいだから。
言うとすればこんなところ。
『それはアタクシがもらったものよ!なにも知らないくせに横取りしようなんて、どれほど卑しいのかしら!神官の名が聞いて呆れるわ!欲しいのならジータに頭を下げなさい。はした金じゃ、ジータは描いてくれないわよ!』
ハルクレッドの耳を通し、彼の口から再現されたからこそ、ずいぶんと高尚な台詞に改編されたのだろう。
「ならば私も、エリィの言葉に倣うとしましょう。絵を売ることはかまいません。ですが、依頼としてはお受けいたしません。私は今年の洗礼を、私が思うままに、描きたいように描きます。それでもなお欲しいと思ってくださるのなら、是非買ってくださいませ」
「ふはは!ははははは!それでよろしいかと!」
ああ、かなわない。私が師とあがめるこの人には、二度目の死を迎えたとしても、きっとかなわない。
ハルクレッドは、私の先の言葉を引き出したかったのだ。依頼を受けて、このように描いてほしい言われたものではなく、私が描きたいように描きなさい、と。このひとは“やりたいこと、やりたいように、あるがままに”そうやって生きていく手助けをしてくれる。いつだって。
だって『未来』は、私が描きたくて描いたものだもの。神官長は、それを見て欲しいと望んでくれたのだから。
「神官長には依頼は断られたと伝えましょう。ただし、洗礼式の絵は描くようだから、それを買われてはいかがか、と。ふはははは!」
「ありがとうございます、ハルクレッド先生」
「して、ジークレット様。デルフィナとなにかございましたかな!」
ンゴふッ!と、自分の喉からすごい音が聞こえた。まかり間違えても人間が出していい音ではない。
後ろに控えているラウラがワクワクしている。絶対ワクワクしている!くそぅ!
ぱくぱくと金魚のように開閉する口。この国に金魚はいないが、観賞用とされる銀魚はいる。どうでもいい。
ソファの前に置かれたローテーブルに両手をついて、思い切り額を打ちつけた。痛い。痛いけれど、逃げようとする思考を無理にでも引き留めねば、このまま先に進めそうにはなかった。
「じじじジークレット様!?どどどうなされた!?」
「ハルクレット先生……」
「なんでしょうか!とりあえず頭を!傷になったらどうする!ラウラ殿、薬箱を!」
頭を上げないまま、ラウラを手で制す。
咄嗟に謝罪の言葉が出てこない私には勢いが必要なのだ。しんみりとした顔で改めて謝るなんて出来っこない。今言わないと。今言わないといけない。
「私は、デルフィナ様を好きになってしまいました」
「知っておりますが!?」
「勢いで、デルフィナ様の意志も確認せずに唇を重ねてしまいました」
深い深いハルクレッドのため息と同時に、玄関のベルが鳴る。最悪なタイミングの来客に、ラウラが名残惜しそうな気配だけを残して対応しに行った。
「デルフィナ様に責はございませんし、すべて私が悪いのです。もう二度といたしません。近づくなと申されるのでしたら、その通りにいたします。二度と、デルフィナ様にはお会いしません」
「デルフィナからではなく、ジークレット様からだと?」
「……はい」
うぅ、涙が出てきた。私が泣くのはあまりにも無責任で、そしてあまりにも卑怯が過ぎる。
謝らないと。ごめんなさいと言わなければ。
「なにをしているんだ、デルフィナは……」
震える呼吸を抑えて、ごめんなさいの言葉を絞り出したとき。
「ジークレット様ッ!」
「お待ちください、デルフィナ様!」
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