光と影に思うもの
エルネスタの絵を乾燥させているあいだに、ずっと描こうと思っていたものに取り掛かる。
画板のサイズはどれにしよう。板を掲げて寝転がり、自分の視界の広さを確認する。記憶の視界というものは不思議だ。焦点が合っている箇所は鮮明に記憶しているのに、その周囲のぼやけたものはどうにも思い出せない。けれど、焦点があった景色だけでは、記憶は完成しない。視界の端で忘れがちなぼやけたものだって、記憶には大切なものなのだ。
この画板は大きすぎる。これは小さい。これかな。
画板の大きさを決めて立ち上がろうとしたところで目が合った。
こわッ!えッ!ビックリした!
「らッ……ウラ様」
「あの、ジークレット様」
「は、はい」
扉の隙間からジッとこちらを見つめる鉄の女。怖すぎて夢に出そう。いつから見られていたのか不明だが、普通に声をかけてほしい。
怖すぎて泣いちゃうから。
床に寝っ転がったまま、扉の隙間から見えるラウラの顔を見つめる。覗かれるのも怖いが、何も言われないのも怖い。
「…………作業の見学をしてもよろしいでしょうか」
「え、あ、はい。構いませんが……」
「ありがとうございます」
え、それだけ?なにか大切な用事があったのでは?
いや、用事が無いなら無いで構わない。描いているところなんて、レーナに散々見られているし、ラウラであればレーナのように見学しながら鼻歌を唄ったりもしないだろう。
無音のなかで無心に筆を握るのが一番捗るけれど、レーナの声を聞きながら作業するのも、私は大好きだった。
う……寂しい……レーナに会いたい……
ラウラの視線を感じながら身体を起こし、先ほど選んだ画板をイーゼルに立て掛ける。そういえば、イーゼルがまたひとつ行方不明になった。おそらく屋敷のどこかに置き忘れているのだろうが、わざわざ探し出すのも億劫であった。
まだ真っ白な画板。この上に、私の見た光景を描きうつしていく。あの日の気持ちを、乗せていく。ずっと描きたかった、戸惑いと、寂しさと、喜びを。
デッサンするために見るのは心の内。記憶。瞼を差した陽光も、ぼやけて見えた視界の端も、全て。
何百本とすり減らしてきた炭ペン。よろしく頼むよ、相棒。
アタリをとってから、なるべく細かく描き込んでいく。普段の下書きよりも、ずっと丁寧に、詳細に。下絵を描くための紙がないので、私の画法は印象派の油絵師に近いものがある。場合によっては素描もそこそこに塗料を乗せることだって少なくない。
「うさぎ……」
「可愛いですよねぇ、うさぎ」
返答が適当になってしまった。まあ、ラウラ本人も口から言葉が漏れてしまったというような雰囲気であったし、私からの返答は求めていなかったのかもしれない。
会話はそれだけ。あとは黙って、ただ炭ペンを動かし続けた。
ここが影になって、ここが光。ここが凹で、ここが凸。
たったひとつの線が雰囲気を変える。違う違うと指で擦っては、その上からまた新しい線を引く。布や練り消しを使わないで、こういう横着ばかりしているから、手が真っ黒になる。誰か早く、洗浄力の高い石鹸を開発してほしい。
線を書き足して、違う、と消す。足りないから、また線を引く。また消して、また描いて、また消す。また、描く。
画板のざらついた表面で炭ペンが削れて、デッサンが形になるにつれて、手の中のそれも短くなる。聞こえるのは、画板を炭ペンで引っかく、カリカリとした小気味良い音。衣擦れ。私の呼吸音。記憶の中で鳴り響く、あの日の音。
ふいに集中が途切れて、それと同時に短くなりすぎた炭ペンが崩れた。
粉々になってしまった炭ペンの残骸を捨て、ぐっと伸びをした。描きながら前のめりになっていたらしく、背中の筋肉が軋むような悲鳴を上げる。
我ながら良い出来だ。このまま下塗り作業に入っても構わないだろう。
「……すごい」
「これから下塗りですよ」
「シタヌリ」
そう、シタヌリ。
このやり取り、誰かとしたような覚えがあったが、まあ、良いか。顔料などの画材を棚から降ろ……あ、床に置きっぱなしだ。
汚い水が入れっぱなしの筆洗器、そこに無造作に突っ込まれた筆。こんなものを床に置きっぱなしにして、蹴飛ばしでもしたらどうするのだ。過去の私、信じられない。
数時間前の自身に軽く苛立ちながら、下塗り用の塗料を手早く作り、これまた丁寧に塗っていく。下塗りで使う丸筆はこれ、と決めている。
下塗り塗料の下にくっきりと見える、炭ペンのデッサン。
「白石塗料はどんどん重ねて塗っていく塗料です。真っ白な地に塗料をそのままのせるよりも、こうして最初から色を塗っておくほうが、後で重ねた色に深みが出るのです。下塗りの後に素描を描くのでも良いかと思いますよ」
白石塗料は重ねてナンボの塗料だ。重ねて厚みを出せば出すほど、白石彫像のような味が出る。
艶のない質感は油絵とはまったく違う。油絵具も白石塗料も、どちらも色を積み重ねて絵画を作るという共通点はあれど、クセや仕上がりの質感はやはり別物だ。もちろん水彩とも違う。
ときどき止め時を見失うくらい、重ねて厚みを出す作業は楽しい。
なんだか説明を求められていそうな空気だったので、ラウラが本当に求めているかわからないまま口に出す。
「下塗りや素描をせずに、直接描き込んでしまうのもアリですよ。白い布に刺繍をするような楽しさがあります。たとえば、そうですね」
この国の刺繍は魔法だったな、と今更気づくも遅い。ラウラもなにも言わないし、いまのセリフはなかったことにした。
一番サイズの小さい画板を手にとって、二種類のグリーンと濃いピンク、黒色の塗料を作る。それぞれ白石粉の濃度を分けたものを複数用意した。
細い丸筆にグリーンを乗せ、軽く凸になるように縦線を引く。まだ塗料の乾かないうちに濃いグリーンでそれっぽく影をいれる。粘度の高い塗料は色が混ざりにくい。
白石濃度の高いピンク色で、盛り上がるような花弁を描く。さらに薄いピンク色や黒色を使って光や影を軽く描き込んだら出来上がり。
所要時間わずか十分程度のジークレットだ。
白い板の上に、立体刺繍のように花弁が浮かび上がる。重ねて塗らずとも、実は白石粉の濃度を調整することで、立体的な絵が描けるのだ。
立体絵具、というものが、前世でもあった。使ったことはないのだが、おそらく似たようなものだろう。白石粉濃度のみで立体感を出すこの技法は、塗料を重ねた技法よりさらに質感が彫刻に近い。
出来上がった即席ジークレットを眺める。重ね塗りに比べると、全体の仕上がりがコロンとして可愛い。白石粉濃度を上げれば上げるほど、扱いにくさも跳ね上がる。難しいし、白石粉の消費が激しいのであまりやらないが、そこそこ気に入っている技法だ。
これは質の良い白石粉を使っているから出来ることで、少しでも粉のグレードを落とせば、途端にゴミ塗料になる。
塗料で悩んでいた過去が嘘のように思えるほど、デルフィナの白石粉はなんでも出来た。
「はい、どうぞ」
「え」
「差し上げます……いらなければ捨ててくださいませ」
小さな画板を受け取ったラウラが、首をぶんぶんと横に振った。良かった。もらってくれるらしい。
よぅし。大丈夫。ラウラは相変わらず笑わないし、何を考えているか不明だが、ちゃんと会話出来ている。嫌われていない、嫌われていない、大丈夫、大丈夫。
下塗り作業を終わらせたあとは、途中だったエルネスタの描き込みを進め、気づいたら床で寝ていた。起きたら身体に布団が掛けられていたのは、おそらくラウラの仕業だろう。
二度寝して起きたらお礼を言わなければと考えながら、今度こそベッドに倒れ込んだ。
この国のトイレはおまる。我が家は白石製の高級おまる。さすがに十五年も生きていれば、おまるに用を足すことに躊躇いはなくなる。しかし、おまるに彫刻された天使様が本当に嫌だ。なぜ中性的な天使の美しい瞳に晒されながら用を足さねばならないのだ。
そんなことを考えながら、おまるに蓋をする。
排せつ物の回収業者がいるのも嫌だ。いや、汚物を放置しておくほうが嫌なのだが、それでも見ず知らずの人間に排せつ物を回収される身にもなってほしい。なぜ魔導機工の落とし子がいながら、トイレはおまるなのだ。水洗トイレを開発してくれよ。
二度寝から目が覚めるとまだ外は薄暗く、私基準で言えばさらに十時間は眠れる時間だった。ラウラが来てからはなるべく早めに起きるようにしているが、それでも早朝である。
用を足して三度寝に戻ろうという最中、使用人部屋の一室から明かりが漏れていた。ゆらゆらと揺れるオレンジの灯りは、魔導ランプではなく油式ランプだろう。この屋敷は全室に魔導ランプが設置されているのだが、なぜそちらを使用しなかったのだろう。魔導ランプの灯りを好まないひとも多いというし、ラウラもそのクチなのか。
魔導ランプにしろ油式ランプにしろ、灯りの消し忘れとは、しっかりしていそうなラウラにもうっかりなところがある。火事が怖いので消しておこう。
扉を手にかけると、中から物音が聞こえた。
そっと覗き込んだ部屋の中に見える使用人服の背中。ひっつめられた金髪はラウラのものか。
そもそもこの屋敷には私とラウラのふたりしかいない。ラウラでなければ怖すぎる案件だ。
ラウラの目の前に立つのはイーゼルと画板。その手には木製パレットと筆。
なるほど、イーゼルを含めいくつか紛失したと思っていたが、どうやらこんなところにあったらしい。怠惰でものぐさな私は、しょっちゅう物を失くす。筆も消耗品だし、失くしたことについてはあまり気にしていなかった。
画板に描かれているのはたくさんの花だった。濃いピンクのジークレット。私がラウラにあげたものの模写だろうか。
音を立てないよう忍び込んで、真剣に画板と向き合うラウラの手元を眺める。
「ここの、この奥の花弁はもう少し小さく描いたほうが良いですよ」
「ジークレット様!?」
「こんばんは、ラウラ様。あ、うーん、おはようございます、でしょうか」
驚いたラウラの手から落ちた筆を瞬時に拾い上げる。画板に乗せた塗料は拭えばとれる。しかし、布製品につくととれないのだ。毛足の長い絨毯なんかにつけてしまおうものなら、もう死んでもとれない。今回はセーフ。うん、汚れていない。
ラウラのパレットから塗料を少量もらう。混ぜが甘いし、白石粉の濃度が高すぎる。すでにパレットの一部が乾き始めていた。
「ここは、こういう感じに。少し大げさですが、手前部分はこんな感じに。なぜだかわかりますか?」
「……い、いえ」
「そうですね……ああ、これが良いですね。はい、ではラウラ様。この太い丸筆を見てください」
筆洗器に突っ込まれていた太い筆を取り上げて、手のひらで寝かす。ラウラから見て奥行きが理解しやすいように。
「この筆を見えたまま描くと……こんな感じになります。モノや景色には奥行きがあります。近くに見えている筆のお尻部分と、太いはずのこの膨らみ。ここから見ると、同じくらいの太さに見えませんか?」
「見えます」
「それを、そのまま描くとこうなるのです。たとえば奥行きを無視して描くと、こんな感じ。ちょっとおかしいですよね」
はい、と頷いたラウラに、プレゼントしたジークレットの絵を見せる。手前と奥行きを意識した部分。花弁だけ立体にしたこの絵では教材として不足だが、奥行きを大げさに描いたものとしては悪くないだろう。
「花も同じです。手前の花弁は大きめに、奥は少し小さめに描いています。花の花弁というものは、すべてが同じ形ではありません。大きさも、形も、それぞれ違う。よく観察すると、自分の目にどう見えているのかがわかります」
どう見えているのかがわかったところで、見たままのものが描けるか。それは否、私には出来ない。思ったような線を引くためには、やはり描いて慣れるしかない。
今度はラウラの描いた花の茎を指差す。
「それとこの影。すこーし違和感がありませんか?」
「あります」
「なぜでしょう?」
なぜ……と呟き、私の絵とラウラの絵を交互に見る。私の絵を見て、ラウラの絵を見て、また私の絵を見て、首を振った。
「私の絵が、拙いから……」
いや、言ってしまえばその通りなんですけどね!?
最初からすべてを上手に描ける者など、天才をのぞいて他にはいない。私の周囲の者にとって、幼少の私はそう見えていたのかもしれない。だが、私には前世というアドバンテージがあった。
私がいまラウラに伝えるべきなのは、お前の絵はヘタクソだ!となじる言葉ではなく、どう描いたらどう見えるか、という原理だ。
「最初から上手なひとなどおりませんよ。では、こうして見るとわかりやすいのではないですか?」
机に置かれていたランプを持ってきて、自分の左手にかざした。ほの暗い部屋にぼんやりとした火の灯りは、わかりやすい光と影を生む。
「ラウラ様の目に、影はどう見えますか?光が当たるところはどこですか?」
「……ここに、光があたって……それで……指で、ここに影が」
「そうです!それです!このジークレットも同じです。こちらから光が当たっているから、ここに影が出来る。この絵に違和感があるのは、それを意識出来ていないから」
良い教材を発見!と思って、本棚から分厚い本を引き抜く。幼い頃、ナーシャに読み聞かせてもらった神話絵本だった。
それを床に置いて、斜め上にランプを置く。床に伸びる本の影。
「これを描いてみましょうか。まず私が見本をみせますので、ラウラ様も描いてみてくださいませ。あ、炭ペン借りますね」
机の上にあった炭ペンを拝借し、画板の白い箇所に長方形の箱を描く。細部までデッサンする必要はない。
まずは形を捉えて、光と影がどのように作用するのか。それを知るところからだ。あとは描いて学べば良い。
「はい、どうぞ。あ、私の絵を見ながらではなく、きちんと実物を見て描いてくださいね。どこに輪郭があって、奥行きはどうなっていますか?そうです。本のどこか暗くなっていますか?そう、そこですね。床に伸びている影は?ふふ、上手です」
もう一度。そう、上手ですね。
今度はこちらから光を当ててみましょう。そうですそうです、良い感じです。
では、光を手前にしてみましょうか。うーん、本当にそうですか?よく見て。ほら、影はここから伸びていませんか?
そんなことを繰り返していたら、本当に夜が明けた。ランプの油が切れて、火がふっと消えたことで我にかえる。
誰かに何かを教えるなんて、長い人生の中で一度もなかった。私の拙い言葉は、ラウラにちゃんと届いただろうか。
「もうこんな時間ですねぇ」
「ジークレット様!」
「あ、はい!なんでしょう……?」
炭ペンを握りすぎて、私と同じように黒く染まった手。黒い右手を左手で摩りながら、ラウラが真剣な目でこちらを見つめる。
勝手にへへっと頬が笑って、ほんの少し死にたくなった。
「ジークレット様、まずは画材道具を勝手に持ち出してしまったこと、申し訳ありませんでした」
「ああ……それは構いませんよ。せっかくですし、これらは差し上げます。他に必要なものがあれば、部屋から持っていってくださいませ」
「それは……いえ、ありがとうございます。それと……それと、あの……」
ぎゅうっとラウラの眉間にシワが寄り、アーレストそっくりのしかめ面になった。怖い怖い。
「ジークレット様!どうか私を、弟子にしてくださいませ!」
「はい、わかりま……ぇ、はい!?弟子!?」
ハイ!と大きく返事をしたラウラにお日様が当たって、やっぱりアーレストに似ているなぁなんて場違いなことを思った。
なるほど、弟子ね。弟子。ダルドとかデルフィナがお世話をしている、あの人たちみたいなやつね。
十五歳、春。なんと弟子が出来ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます