プロローグ〜悔恨〜

 けして身体が弱かったわけではないが、私の享年は三十歳とひどく若い。借金まみれの穀潰し、そのくせ親より先に死ぬ。

 金だけ食う、ずいぶんと親不孝な娘である。


 まともな人生を送っている同級生と顔を合わせるのも嫌で、人生の最後、私には友人と呼べるひとがほとんどいなかった。

 明るくて友人も多かった学生時代から見る影もない、年下の女に養ってもらう立派なクズの出来上がり。


 たしかに、物心ついたときから自分のことをダメな奴だと認識していたし、仲の良かった友人には「私、クズだからさ」なんて言っていた。それでも、ギリギリとスレスレの狭間を生きてきた手腕に、この頭は人よりも優れていると驕ってもいた。

 二度目の会社をクビになったときに言われた「プライドが高い」というのはこういうところなのだろう。クズのくせに周りを馬鹿するとは、良い神経しているじゃないか、このドクズめ。思い出すと死にたくなってくる。まあ、死んでいるのだけど。


 実家を出てから死ぬまでの二年間、改めて思ったのだ。否、ここでようやく理解した。


「私は本当に、救いようのない愚者(クズ)なんだなぁ」


 私の、正真正銘、最期の言葉だ。

 目がかすんでいて見えなかったのだが、二年ものあいだ私を養ってくれたあの女は、いったいどのような顔でこの言葉を聞いていたのだろう。

 こうして回想をしていると、あれは自身の人生への言葉にも思えてくるが、たしか死に際はあの女のことを考えていたようにも思う。思い出そうとすると、死因であろう胸部の激痛を思い出して吐き気がするので、なかなか深く思い出せない。

 自身が死んでいることについては、あまり重く捉えていないが、身体はトラウマになっているのだろう。そりゃそうだ、死ぬほどの痛みなのだから。



 私はクズだったが、あの女はバカだった。私が救いようのないクズだとしたら、あの女はどうしようもないバカであろう。

 計算も出来ないし、漢字も読めない。新聞も読めないし、ニュースも理解できない。政治について話をしようものなら頭痛がするほど、頭を使うことができない女。

 養ってもらってこの言い草はないだろうと自分でも思うが、あの子は本当にバカなのだ。バカもバカ、大バカだ。

 だってそうだろう。そう言いたくもなるだろう。


 あの女は、私を養うためだけに男に抱かれていたのだから。


 風俗嬢の仕事を悪いものだとは思わない。需要と供給の上に成り立つ、れっきとした接客業だ。身体が触れ合い、言葉を用いて接客をする。恐ろしく難しい接客だろう。指名数上位に入る風俗嬢は頭が良いのだと、あの子も言っていた。

 相手を喜ばせ、また会いに来たいと思わせる。多様な男たちの話についていけるだけの知識や教養。優れた容姿だけでは、どうしようもない。


 それが分かるからこそ、私は風俗の仕事を馬鹿にしない。馬鹿にできない。アイドルや俳優に夢をみて救われる人がいるように、風俗嬢に救われている人だってたくさんいる。そこで得た癒しが活力になる者もいるだろう。

 そもそも、まともに働けないような私には、どんな仕事だってケチをつけられるわけがなかった。

 だから、風俗業界を馬鹿にしない。そこで働く女を卑しい者と蔑むことはしない。女が食いモノにされていないのなら構わない。

 プライドをもってその業界で働く人間を、私は立派だと思う。


 だが、身体を売ることが世間で良しとされないことも、もちろん知っている。病気のリスクもあるし、犯罪に巻き込まれることも多い。貞操が重んじられる風潮の中で、お金のために風俗に“身を落とす”のは馬鹿だと思う。母子家庭だったり、どうしようもない事情があったり、そういう人もいるだろうから、一概には言えないが。


 ただ、やはり、クズを養うためだけに、やりたくもない風俗嬢をやっていたあの女は、心底バカだと思う。



 新宿の繁華街から少し離れた路地裏。大きな地震でもあれば簡単に倒壊しそうなビルの壁にもたれて、私は夜が明けるのを待っていた。二丁目でしこたま飲んで、知り合いでもいれば泊めてもらうつもりだった。競馬で三連複を当てたのに、全部酒になってしまったのだから仕方ない。だって、賭けていた金額が少なかったのだ。シケていなければ、もっと大金になっていた。

 実家を飛び出してから二、三週間は、そうやって毎日を凌いでいたのだ。でも、翌日が平日であるその日は誰も泊めてくれなかった。


 二十八にもなった私は、もう年上のお姉さんに可愛がってもらえる可愛い年下ではなかった。大学生だった私にお小遣いをくれたあの人と、気づいたら同じ歳になっていたのだから。


 大丈夫ですか?それがあの子の最初の言葉だったように思う。あまり覚えていない。

 大丈夫じゃない。それが私の最初の言葉だったように思う。もう、覚えていない。


 酔っていたし、投げやりだった。生きるのが面倒になって、何度か死のうかなと考えていた時期でもある。借金をするようになってから、何度がそのようなことを考えていたが、実家を飛び出してからの数週間はその傾向が強かったのだ。この時はすでに延滞が続いて、たしか利子が結構な額になっていたはず。そのくせ競馬やパチンコで摩ってるんだから、まあ死んで当然の生き様だ。

 自分で死ぬ勇気がないから、このまま眠るように死ねたらいいなと幾度も思った。毎日、明日が来るのが怖かった。督促の電話も、家族からの電話も怖かった。


 死ぬよりも働くほうが嫌だなんて、本当に救いようがない。

 あのとき拾ってもらえなければ、私はたぶん、本当にあの路地裏で死んでいたのかもしれない。


 それは、二丁目で何度か見かけた女だった。バーのママに友だちが欲しいなんて話をしているのを聞いていた。


 仮初の宿。都合のいい女。それが、私にとってのあの子の立ち位置。結局、私が死ぬまでの二年間、交際しようなんて話は出なかったし、私はあの子に一度だって好きと言わなかった。あんなに言われていたのに。

 猫を拾うような気持で女なんか拾うもんじゃないよ、と私はいつだったかあの子に語ったことを覚えている。あの子は曖昧に笑っていたっけ。


 どうせ一晩泊めてもらうだけだから恥もかき捨てと、私のクズ人生譚を語って聞かせた。学生時代の話、いろんな女に貢いでもらった話、旅先の話、社会に出てからの話、会社をクビになった話、パチンコの話、競馬場で出会った面白いオッチャンの話、借金の話、家族の話。

 田舎から出てきたというあの子は、私のクズ話を楽しそうに笑って聞いていた。絵を描くのが好きだと言ったら猫を描いてくれとねだるので、左手の甲にアイライナーで描いてやった。おまけにアイシャドウで色をつけてやれば、嬉しそうに笑った。

 タチだからネコが好きなの?と問うて、何故かシングルベッドに押し倒されたのは、今思い出しても笑ってしまう。なんであのタイミングだったんだろう。


 短大を卒業して上京、派遣社員で手取りは笑えないほど安い。あっちにいったり、こっちにいったり、要領の得ないあの子の話は難解で、得られる情報量はとても少ない。それでも、着地点迷子なあの子のおバカ話をベッドの中で聞くのは、結構好きだった。


 一晩のつもりが二晩に、一週間が一か月に、半年たったとき、あの子からお小遣いをもらった。四八〇〇〇円。あの子の、一晩の身体に支払われた金。


「明日、競馬の大きいレースあるんでしょ。ごめんね、これで足りる?」


 バカじゃないの?そう思ったけど、言わなかった。一万円札と、交通費の千円だけもらって残りを突き返したら、何故か悲しい顔をするから、残りの三万円は借金の返済に回した。ほとんど利子だったけど。


「バカ」


 結局言った。


「いいの、好きでやってるから」


 私は救いようのないクズで、あの女はどうしようもないバカ。

 女を抱くのが好きなくせに、居候のクズ女を抱くために男に抱かれるのが、バカでないならなんと言う。


 私は覚えている。学生の頃、自分が同性愛者だと認めたくなくて、試しに同級生とセックスしてみたら蕁麻疹が出た、と笑いながら話していたことを。試しにセックスするなよ、なんて私も笑って返したのだ。

 申し訳ないなと上辺で思いつつ、謝れない私は「ありがとう」と口にした。バカは嬉しそうに笑っていたよ。バカだな、本当。


「せめてレズ風俗にしたら?」


 クズは所詮クズ。


「んー……女の子はきょーちゃんじゃなきゃ、嫌だからなぁ」


 バカはやっぱりバカだった。



 光の道が見える。眩しい。まるで揺り起こされるように、身体がグワングワン揺れる。あぁ、子守歌はもう終わりか。なんて言っていたっけ。オオ、ハーシェル?どこの言葉だろう……


 しかしまあ、輪廻転生なんて信じていなかったが、こうなるとさすがに信じざるを得ない。徳を積むどこか業を重ねてきた私にとって、この転生が神様のご褒美なんてことはあり得ないだろう。

 とすれば、これは贖罪のためのやり直しか。誰に対して償うべきか。父か、母か、あの子か、はたまた借金を踏み倒された消費者金融か。心当たりが多すぎるなぁ。


 だけど、神さま。クズはどうやったってクズなのですよ。同じ状況になったら、私は必ず繰り返す。一度死んだところで、やりたくない病は治っていないし、後回しに後回しを重ねてスレスレ、きっとまた取り返しがつかなくなって死ぬのだ。

 生まれ変わるのは有り難いが、ねぇ神さま、やり直しをさせるのなら、せめて記憶は消してほしかった。せめて人格くらい、まっさらなままやり直しをさせてほしかった。それともこれが罰なのかな。

 生まれ変わってもクズなんてあんまりだ。


 ひとまず、産道から這い出た痛みに負けて、私は思い切り泣いた。

 生まれたばかりだし、明日考えればいいや。

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