クズの矜恃

うちたくみ

プロローグ

プロローグ〜内省〜

 好きなものは酒と煙草と女とギャンブル。嫌いなものは仕事と早起き。座右の銘は悪人でなければ良し。嫌いな言葉は努力。


 これが、私というクズが自己紹介に使っていた口上である。


 なにやら暖かい薄膜にくるまって、どうやら私はウトウトしているようだった。最後の記憶は胸部の激痛と、女の泣く声だったと思うが、あまり定かではない。どうにも思考がまとまらなければ、ともすれば自分が誰なのかすら分からなくなりそうだった。


 走馬灯を見ることもなかっただろうし、少しばかり回想してみるのもいいかもしれない。だって、おそらくだが私は、あの時すでに死んでいるのだから。



 私は大人になってからクズになったわけではない。たしかに外側からみれば、新卒で入社した会社で上手くいかず、たったの二か月でバックレたところから人生の転落が始まったようにもみえる。

 高校は進学校へ、大学は推薦で第一志望へ。学生時代に虐められることもなく、留年することもなく、就職氷河期のなか無事に内定を勝ち取った。両親は健在で、兄妹たちも真っ当な道を生きている。

 初めて就職した会社を早々にリタイアするまでは、“外側からみて”とても順風満帆な人生だったと言えるだろう。


 しかし、違う。まったくもって、違う。私は幼少期からクズであり、物心ついたときから自身がクズであることを理解していた。

 とはいえ、私は悪人だったわけではない。殺人を犯したこともなければ、違法な薬に手を出したこともないし、詐欺グループの一端だったわけでも、無差別に暴力をふるったこともない。

 クズと悪人は違う。クズな悪人はもちろん多いが、悪人でありながら誠実な人間も、クズでありながら悪人になり切れない人間も、この世にはごまんといるのだ。


 そして私は、生まれながらにして、生粋のクズである。


 昔から私は、保身癖のある嘘つきな子どもであった。私はごめんなさいが言えない子どもであり、そしてそれは大人になっても変わらない。日本人はすぐに「スミマセン」とペコペコ頭を下げる、なんていうが、私はとっさにそれが出来たためしがない。冗談めかして「うわぁ、ごめんごめん」なんてヘラヘラと茶化すことはあっても、心の底から非を認めて素直にごめんなさいと言えたことがほとんどなかった。


「とくに思ってなくも、まずはスミマセンって言っておけばいいんだ」


 そう言ったのは、私の二度目の就職先にいた大嫌いな先輩だった。すぐ怒鳴るし、口が悪い。顔も悪けりゃ、声まで悪い。そのくせ営業成績はトップときたもので、彼の顔を思い出すだけでどことなく嫌な気持ちになる。

 お前は謝ることができない、言い訳をする前にまずはスミマセンだろう、と。そんなことは知っている。私に非があって、私が謝らなければいけなくて、そんなことはわかっていて、それでも私は謝ることが出来ない。子どもころからずっと直したいと思っているのに、最期まで直らなかったな。

 正直、私もなぜこうまでして謝罪が出来ないプライド人間なのか、自分でも分かっていない。ただひとつ、私はごめんなさいができない、という事実が転がっているだけだ。


 謝ることができない。ごめんなさいが言えない。この口からまず出てくるのは「でも、だって、私じゃありません」のどれかだ。これはお前がやったのかとミスのある書類を突き付けられたとき、私はまずそう言った。


「私じゃありません」

「私は知りません」


 そうして、最終的に追い詰められる。どうやっても言い逃れができなくなって、それでようやくすみませんと口にする。本当にどうしようもない。


 取引先と電話をしていて「夜分遅くに申し訳ありません」とか、「すみません、どうしても外せない用事があって」とか、そういうことは言えるのに、私には自分の非を認めて謝るという、人間として当たり前のことが出来なかった。

 私は、私が悪いことを知っている。心中では、うわぁどうしようやってしまった、とてんやわんやで、それは私が悪いのだと認めていて、そのくせ口から出てくるのは逃げようとする言葉ばかり。


 人に怒られることも、自分が怒ることも苦手。人が怒っているところを見ることも、自分の感情変化を見られることも苦手。素直じゃない。いつもヘラヘラ笑っている。自分でもここは笑う場面じゃないと分かっているのに、私の顔は勝手にヘラヘラ笑う。

 謝るような状況を作らなければいい。それは分かる。できたらとっくにやっている。そんなことが出来るのなら、私はクズなんてやっていない。



 私は勉強が嫌いな子どもだった。学ぶことが嫌いなわけではない。気になったことを調べるのは好きだし、知識を得ることは楽しい。ただ、どうにも、“やらねばならないこと”が苦手だったのだ。


 遊ぼうと誘いにいった友達に「宿題はやったの?」と聞かれ、嘘つきな口は「やったよ」と答えた。私は、宿題をやっていなかった。そのときの私にとっては、友人である彼女と遊ぶほうが重要で、宿題は帰ったあとにやればいいと思っていた。

 家に帰って母親にただいまと言うと、母は「夕飯までに宿題やっちゃいなさい」と言う。遊び疲れた私にそんな気力はなく、嘘つきな口が「遊びに行く前にやったよ」と答える。夕飯を食べて、お風呂に入ったらやればいいと思っていた。

 お風呂からあがると兄がテレビを見ていて、私はいつも兄の左隣に並んでそれを見た。宿題やらなきゃなぁと頭の片隅にあれど、寝る前でいいかと押しやった。


 歯を磨いて布団に入って、朝起きたら宿題をやろうとぼんやり思う。母に起こされ、朝食を食べ、テレビで占いを見て、家を出る、教室についたらやろうと思う。


「宿題を提出してください」


 ごめんなさい、やっていません。言えるはずもなく、「せんせー、家に忘れてきました」とまたヘラヘラ笑う。

 家に帰ったら今度こそ、夕飯を終えたら、お風呂からあがったら、寝る前に、朝起きたら、教室で……それを何度も繰り返し、さすがにマズいと思って、初めて適当に宿題を終わらせる。

 小学校の勉強なんてとくに苦労をするわけもなく、ほんの数分もあれば終わるようなことばかりだった。それなら最初からやっていればいいのに。バカだな、本当。


 同年代の子どもと比べて、ほんの少し成熟が早かったこともマズかった。小学校の勉強で躓くこともなく、授業をぼんやり聞いていればたいていのことは理解できる。テストはテストに非ず、そんなマセガキだったのだ。バカだな、本当。


 中学に進学してもそれは変わらない。そもそも、変わろうという意思がなければ、人間は変われない。私にその意思もなければ、変わらなければと思わせられるような出来事もなかった。親や教師に叱られそうな場面を、ほんの少しばかり回転の速い頭で切り抜けてきてしまったのだから。

 難易度が少しだけ上がった授業も、さほど苦労はない。さすがに何もせずに試験を切り抜けられるほどではなかったが、得意のスレスレ戦法で見事に可もなく不可もなくを維持してやった。

 ここでまったく勉強についていけないような頭脳を晒していれば、ほどほどの高校に進学していただろう。まあ、そうなっても私が逃げ癖と保身癖のあるクズだという事実は変わらなかっただろうが。



 クズのくせに見栄っ張りな私は、親が望む制服の可愛い進学校に入学した。街の小さな学習塾程度で、よくもまあ偏差値七十超えの高校に進学できたものだ。受験勉強はもっぱら過去問題集だけで、こんなところでも少しばかり出来の良い脳が役にたってしまった。


 趣味にばかりかまけていた高校時代は夜更かしをする毎日で、授業は寝てばかりいたことを覚えている。ようは、授業中の風景などほとんど覚えていないということだ。結果が全てのあの高校では、寝たりサボったりを叱られることはない。必要な出席日数を満たし、試験の点が基準以上であれば良いのだ。

 もちろん板書なんてしない。ノートはたいていが白紙。ノート提出の際は、慌てて教科書や教師自作のプリントを要約して書きなぐった。おそらく、教師が黒板に記したものとは違うだろうが、まっさらなノートが提出されるわけでもない。大半はこれで乗り切れた。乗り切れてしまった。

 定期考査の結果はいつも赤点のギリギリとスレスレを繰り返した。取れなかった点数は、学年末試験で回収する。出来るなら最初からやれよ、というのは昔からだ。


 進学校であるために試験の内容は難しく、毎年成績不振の留年者が絶えない学校であった。それにも関わらず、私は学年末試験のあとに待ち構えている、留年決定追試というものを受けたことがない。だって、追試になると親に連絡がいくのだ。怒られたくない私は、これを必死に回避するほかなかった。

 よくもまあ、ギリギリとスレスレの狭間を潜り抜けてきたものだと思う。バカだな、本当。


 やりたくない、面倒くさい、明日やろう。私を構成するすべて。

 やらなければいけないことすらやらないのに、努力なんてもってのほか。私の努力というのは、ギリギリの段階になって、説教を回避するために本気を出すことを言う。矛盾も甚だしくてビックリする。



 見栄っ張りのくせにやりたくない病の私は、AO推薦で大学を決めた。面接や作文がやたらと得意な口八丁には最適な受験方法だった。追試をギリギリで回避し、提出物も未提出が多く、さらには授業中も寝こけている。遅刻や欠席も当たり前。どうやっても、指定校推薦なんて受けられるはずがない。

 だからと言って、受験勉強もしたくない。おそらく真っ当に受験をしても、世間に恥じない程度のそこそこな大学に進学していただろう。私は見栄っ張りなので、そういう絶妙な見栄が得意なのだ。


 大学時代は酷かった。

 やりたくない系怠惰クズの私にとって大学は天国。友人に学生証を預けて講義の代返をお願いし、試験は適当に切り抜ける。そこそこアルバイトをして、旅に出ては酒を飲む。

 私が酒と煙草、パチンコと競馬にのめり込んだのは、この大学時代からだ。私みたいなクズや、私以上のクズがたくさんいて、なんだか変な安心感があるのだ、あの世界は。

 美容に気を使わなくても、それなりの容姿をしていたことが、大学時代で一番マズかったと思う。外見における努力を、私はしたことがない。健啖家のくせに、食べても太らない体質だったのもある。


 容姿がそこそこの口八丁で八方美人。容姿が良すぎることもなく口の上手い私は、なんとある程度モテる。良すぎる容姿は時として人を遠ざける。けれど、この程度なら自分でもイケるかも、と思わせるのが得意な“丁度いい”顔をしているのだ、私は。


 面倒くさいことが嫌いで、何よりも争いが苦手で、怒られないように立ち回る。人の怒っている顔や怒鳴り声はもちろん、自分がそれを行うことも嫌いだった。

 酒と煙草とパチンコにかまける、穏やかな性格をした優しいクズ女。大学時代に確立した、私という女である。


 異性にモテたわけではない。同じ“界隈”の女にモテたのだ。とくに年上。

 私の女好きは小学生からなので、おそらく生まれつきだろう。男性にとくにトラウマがあるわけでなし、私は当たり前のように女が好きな女だ。性的嗜好で悩んだ記憶もない。

 小学生で気づいて、中学生で嗜好を認めた。高校の時には迷わず同性の同級生に恋をした。


 ふらりとどこかに消えて、またふらりと急に現れて、甘え上手で優しい。そう言われた。


「貴女は私がいないと駄目でしょう?」

と言ったのは誰だったか。


「捕まえておかないと、どこかで野垂れ死んでそうだもん」

と笑ったのは誰だったか。


「自由な貴女が好きだから」

と甘やかしてくれたのは誰だったか。


 酒、煙草、パチンコと金のかかる趣味嗜好のくせにそこそこのアルバイトで生活が成り立ったのは、この年上のお姉さんたちのおかげである。お酒も奢ってもらえたし、煙草も買ってくれた。お金がないと言えばお小遣いもくれた。私が愛読していた漫画雑誌を買ってくれるお姉さんは、なぜかいつもその雑誌のどこかに一万円札を挟んでくれた。


 そのくせ本命の恋人を作らなかったのだから、本当に救いようがない。


 旅が好きだった私は、交際費は人任せ、アルバイト代のほとんどを画材と旅行に費やした。とはいっても、高級なホテルに泊まるわけではない。安くてぼろい民宿を好み、移動はもっぱら深夜バス。旅先で絵を描くのが好きだった。


 そう、酒やパチンコを覚えるまでの趣味と言えば、絵を描くこと一択だ。高校生の頃から、夜更かしをしては絵を描いてきた。絵を描くのが好きだというと、結構な頻度で漫画家になりたいのかと聞かれてきたが、それはまた別だ。私は、漫画家になりたいと思ったことはない。

 私が描きたいのは物語ではなく、人体と風景。私は人が好きなのだ。人の情緒や営みが好きなのだ。そのたった一枚の中に描かれる歴史や感情が好きなのだ。


 だけど、見栄っ張りな私は人生を美術にかけることができなかった。絵を志し、堂々と夢追い人だと言えたら、どれほど良かったか。

 私は努力ができない。好きなことしかできない。絵を志し、それを仕事にしてしまえば、私はまた逃げ出すだろう。期日のギリギリになって、描きたくない絵を適当にこなすのだ。どんな仕事でもいいからやります、なんて出来ないことを、私が一番よく知っている。好きで描き続けてはいたけれど、目を引くほどの才能もなければ、それを勝ち取るための努力が出来ないことを、私が一番よく知っている。


 見栄っ張りで口八丁なばかりの私は、私の心に対しても口八丁だったのか。

 こうして回想していて、初めて知ることもある。もう、なにもかもが遅いけれど。


 私は描きたいものだけ描いていたいから。私は絵を嫌いになりたくないから。

 今だから言える。本当はやりたかったくせに。本当は絵を仕事にしたかったくせに。



 ギリギリとスレスレの狭間を生きるクズに社会人なんてできようはずもない。

 毎日早起きして会社に行く。そんな高度なことができるわけがない。サボったり遅刻したりはあったものの、高校生までなんとかこなしていたソレは、大学の怠惰な四年間で全くできなくなっていた。


 なにより、愚者にありがちな保身癖というものは、社会人にとってもっとも許されない悪癖であった。

 夜型の人間で、午前中のパフォーマンスがガタガタというのも悪い。私の仕事中のミスは、そのほとんどが午前中に手掛けた仕事だった。


 やりたくないと騒ぐ心に鞭打って出勤し、回らない頭で慣れない仕事をこなし、ミスを怒られたくなくて保身に走る。新人なのだから許してもらえたのかもしれないが、染みついた保身癖はもはや自動発動だ。やっていません、私じゃありませんなんて言うから、怒られなくてもいいところで怒られる。


 最初に就職した会社を二か月で逃げ出し、それからの半年間は実家で穀潰し。順調だった人生の初めての挫折として、家族は許してくれた。

 雇用保険に入れるという理由でバイト先を選び、たしか一年ほど勤めたと思う。短い人生の中で、この一年が人生でもっとも真面目だった日々かもしれない。会社を二か月で逃げ出したことが、私はひどく恥ずかしかったのだ。

 次に勤めた会社は最悪であった。会社が、ではない。私が、である。どうやっても、どう考えても悪いのは私。


 だって私は、この会社をクビになったのだから。


 表向きは自己都合退職だが、こっそり呼び出されてクビ宣言をされているので、クビである。まごうことなき、クビである。その日のうちに荷物をまとめて退社した私は、こんな日でもヘラヘラしていたことを、よくよく記憶している。


「お前はさ、他のやつに比べて圧倒的に仕事が早いんだよ。器用だし頭の回転も速い。だけど、プライドが高すぎる。謝れないのは社会人として一番駄目。とくに思ってなくても、とりあえずスミマセンって言っておけばいいんだよ」


 私が荷物をまとめているときに、嫌いだった先輩に選別としてもらった言葉である。

 うるせぇ、そんなことは自分が一番よく知ってるよ。心のなかで思っていた。その思考が駄目なのだとも、分かっていた。


 私がクビになった理由は、表向きには情報の漏洩である。SNSに愚痴を書きなぐっていたから。でもそこには、けして社名も個人名もなければ、決定的な仕事の情報はなかった。あくまでこの理由は、表向きの理由でしかない。

 会社は、私のお世話をしきれなくなったに過ぎない。だって、勤務態度が最悪だったもの。最初の一年は良かったが、そのあとから少しずつ崩れていった。仮病やら親族の訃報やらを駆使して、遅刻と欠勤を繰り返す。午前の勤務中はウトウト、ミスは謝らない。


 最悪だな。いま思い返しても最悪である。


 二度目のニートは、さすがの家族も許してくれなかった。それでも、様々な理由をつけては穀を潰した。

 働かずに一日中絵を描いて、飽きたらパチンコをして、就職活動と称して競馬場に行く。ときどき年上のお姉さんからお小遣いをもらって、ときどきバイトをする。金がないくせに酒と煙草はやめられない。


 だんだん家に居場所がなくなって、パチンコと競馬場に入り浸ることが増えた。まともに働いていないから、ギャンブルに費やす金もなく、借金をした。パチンコ屋の横に置いてある、消費者金融の無人機だった。


 借金は全部で百万と少し。四社の消費者金融から少しずつ借りて行って、たった二年でそこまで膨らんだ。まともな収入がないため、それ以上の借入ができなかったことは幸いだろう。いや、何が幸いだ。どういい方向に解釈したところで、二十五歳半ばからの人生が酷すぎる。


 結局、家族に借金がばれ、行くあてもないくせに家を出た。


「寮があるところに就職した」


 私が家族についた、最後の嘘。まともに会話をした、最後の言葉。実現することもなく、恥が多すぎて顔を合わせることもできない。最低で最悪な嘘だった。


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