ブルーアワー


 デルフィナとの大仕事に、紫炎石で作った顔料を使うことに決めた。


 そこに大きな意味など無い。私がただ、このブルーアワーを気に入ったから。鮮やかで、始まりを感じさせるような夜明けの色を、私が気に入ったから。

 初めての大仕事に我がままを乗せると決めたのだから、細部まできっちりと乗せてやるべきだろう。いまさら遠慮なんて必要ない。だから、私はこのブルーアワーを使う。そのために宝石商のヴィジリオから、追加の紫炎石を買い付けた。


 それから一週間。

 この国にも週という概念がある。土の日、水の日、金の日、木の日、空の日、そして休息の日。六日間を一週とし、それを五週で一か月。一年は十三か月だ。月の満ち欠けを数えるところは前世と変わりないが、季節と暦をあわせる閏日は確認できていない。


 休息の日は祈りの日とも呼ばれ、街の人々は労働を休んで、主に日々の感謝を伝える。この日は八百屋も鍛冶屋も飲食店も、軒並み店が閉まっている。そのため、前日の空の日に食料など足りないものを買い足しておく必要がある。

 親の金で生きている私には、休息の日は縁遠く、聖堂で神官が説法を行っているかどうかで判断していた。だって、私にしてみたら毎日が休息の日だもの。


 座席が埋まった聖堂と、講壇に立って有難い話をしている神官長。今日は休息の日だ。


 朝から聖堂で炭ペンを握り続け、気づいたら周囲の人間が熱心に祈っていた、という次第である。

 壇上の神官長と目が合ったので、胸に手を当てて無言の挨拶だけした。三年半も通っていたら顔なじみにもなるというもの。下っ端以外の神官は、みな知り合いと言ってもいい。中には随分と馴れ馴れしく“ジータちゃん”と愛称で呼んでくる者もいる。いつも薄汚れたヤッケを着ている私は、どうにも貴族令嬢の威厳が足りないらしい。


 ついに描けた。と言っても、まだ下書きエスキースにも満たない段階だけれど。

 私が今描きたいと思うもの。デルフィナとの大仕事、父親から娘への贈り物。セルモンド領主のひとり娘。あぁ、わくわくする。デルフィナはなんというだろう。早く色を乗せたい。描きたい。あぁ、楽しい。



 タルクウィニア像を描くために教会に通って三年半。神官たちのあいだでも私は、信心深い令嬢として名が通っている。しかし、神を信じているか、と問われたら微妙なところだ。

 前世での知識があり、生物の成り立ちや人類の歴史を学んできた私は、タルクウィニアが人間の生息地を創ったという神話を作り話だと思っている。しかし、人格ごと輪廻転生を果たした私だからこそ、科学の力が及ばない神の奇跡を信じているのだ。


 そしてなによりも、私はタルクウィニアというこの世界の象徴を敬愛している。タルクウィニア像の美しさに心酔しているだけのような気もするが、それでもこれは信仰に近いものがあるのではないかと思っていた。


 柔らかく微笑んだ神官長に笑みを返して、画板を片手に教会を出た。走り出さないように、なんとか膝をなだめながら。


 清貧を尊ばない教会の在り方が、私は好きだった。タルクウィニア信仰がなによりも尊ぶものは、人間の生命そのものだ。飢えは敵で、清く貧しくなんてもってのほか。神官たちの仕事は民への奉仕活動、農業、畜産、孤児の世話だ。土に汚れ、飯を腹いっぱい食らうことこそ美徳。飢えている者を見て見ぬフリする人間には、主の祝福が訪れない。

 毎年の建国祭や奉納祭で出される食事は、そのすべてが神官の世話したものである。


 主の愛す人間が飢え苦しむことのないように、土に汚れその食料をつくる。主に使える人間だからこそ、飢えと無縁であれ。


 国の政と深く接しているため、いずれはタルクウィニア教の在り方も変わってくるだろう、そこには腐敗があるかもしれないし、教派が分裂して戦争が起こるかもしれない。それはあまり見たくないな、とどこかぼんやり考えた。



 セルモンドの中心、教会を背にしてソン・ザーニャに向かって歩く。屋敷とは反対方向。川沿いに待っているのは、セルモンド領を支える職人地区だ。

 街の中心は馬車の乗り入れが禁じられているので、どうやってもてくてく地味に歩くほかない。自転車も原付もないのだ、ここには。街を汚す馬車はセルモンドの敵。ならば、排気ガスなんてもってのほかだろう。

 馬車に乗ったのは、生後間もない私を首都ランからセルモンドに移送した以来である。記憶も薄れてしまったので、乗ったことがない、と言ってしまっていいかもしれない。馬車は郊外に行かねば乗れないし、そもそも郊外に用事などない。私の生活はセルモンドの中心で完結してしまっている。


 休息の日の街中は、とても静かだ。


 冬のじめっと冷たい空気、人の少ない白い街並み。昨晩の雨が乾ききらない、濡れた石畳。

 セルモンドは美しい街だけど、私はやはり人に溢れる賑やかな様相が好きだった。いつもであれば遠くに見える鍛冶工房の黒い煙も、今日は見えない。大きな荷物を抱えて歩くご婦人もいなければ、せわしなく駆けていく少年もいない。窓辺の猫が、大きな欠伸をしているだけ。


 一抹の寂しさを感じながら、小さく鼻歌を唄う。おお、ハーシェル。

 静かで寂しいけれど、この逸る気持ちに水を差すほどではない。早く早くと急ごうとする足を押さえつけようと、あえてのんびり歌うのだ。おお、ハーシェル。


 数えていた石畳に影が差す。


「お?ジークレット様じゃないか!」

「あ、デルフィナ様!ごきげんよう、お祈りですか?」

「いやいや、アタシはそこまで熱心な信徒じゃないんでね。アタシが祈るのはタマーラとボニート、信じているのは自分の腕さね」


 ジークレット様はお散歩ですか?という問いに、首を横に振って答える。

 デルフィナに会いにいこうとしていたのだ。満足する下書きが出来たので、デルフィナに見せようと思っただけ。鉄は熱いうちに打て、とも言うし、私だっていつも屋敷で待つばかりではない。


 早くデルフィナに見せたくて、そのくせ走っていくのは恥ずかしかったので、なんとか逸る気持ちを抑えていた。冷静に「ごきげんよう」なんて言ったが、デルフィナを見上げていたら、抑えていたものがじわじわとこみあげてきた。嬉しい、楽しい、早く早く。


「間が悪かったかね?なかなか良い彫りが出来たんで、ジークレット様に見せようと思ってたんだが……」

「タルクウィニア様!格別のご配慮、痛み入ります!」


「お、おう……アタシはタルクウィニアじゃないよ……」


 なんと!デルフィナも同じような理由で会いに来てくれたらしい。もはや運命では?

 喜びが天井を突き抜けて、デルフィナの手を掴んでしまっていた。さらさらですべすべなデルフィナの手をぎゅうぎゅう握る。良い手、最高、デルフィナだったら抱かれてもいい!というかこの手に抱かれたい!好き!


「ジークレット様ならやぶさかじゃないが、あんまり男には言わないほうがいいよ。あいつらは例外なく単純バカだからね。こんな可愛い女の子に言われたらすぐ本気にしちゃう」

「あ、声に出ていましたか……」

「あははは!大人しいお嬢さんに見せかけて、ジークレット様は本当に面白いねぇ」


 けして言葉数が少ないわけではない。前世はどちらかといえばお喋りなほうだった。

 だが、頭の中に日本語という固定された言語が染みついていたせいで、喋ることに苦労しただけだ。言われた言葉を頭のなかで翻訳して、喋りたい言葉をふたたび変換し返事をする。そのプロセスを踏んでいたために、結果として大人しい子どもに仕上がっていた。

 たとえば英語と日本語のバイリンガルは、英語を喋るときは英語で思考し、日本語を喋るときは思考も日本語になるのだと聞いたことがある。バリバリの一言語話者モノリンガルであった私には、到底理解の及ばない話であった。


 ランドウルフの言語で思考し、ランドウルフの言語で会話する。頭のなかで翻訳のプロセスを踏まなくてもよくなったのは、実は本当につい最近である。

 使わなければ言葉は忘れる。私もいずれ、日本語を忘れてしまうときがくるだろう。十年も日本語を口にしていないのだから、もしかしたらすでに上手な発音が出来ない可能性すらある。それを特別寂しいと思わないことに、私は驚かなかった。


「ソン・ザーニャのほとりを散歩しながら、デルフィナ様の工房に向かおうと思っておりました。私も満足のいく下書きが出来ましたので」

「そうか!そりゃ、タルクウィニア様の思し召しだね」

「塗料の相談をしようと思っていた時も、とても良いタイミングでデルフィナ様がいらしたので……まただ、と思って嬉しくて、その……ついはしたないことを……」


 アタシら相性良いねぇ、と笑ったデルフィナに、ふたたび喜びメーターの針が振り切った。

 年上好きは生まれ変わっても年上が好き。ジータちゃんはまたひとつ賢くなった。



〇●〇●〇●〇



 デルフィナとぶらぶら歩いていると、道の向こうにソン・ザーニャの青い水面が見えてくる。ここはもう職人地区だ。


 ソン・ザーニャのほとり。こうして眺める分にはとても穏やかだが、船で渡ろうと思うと案外流れが速いのだそうだ。

 川の掃除屋ソン・プリツアーノと呼ばれる肉食魚がいるらしい。実物は見たことがないが、大きい者は大人の男ほどのサイズだという。

 ソン・ザーニャに川魚を食す鳥がいないのは、このソン・プリツアーノがいるからである。魚のくせに鳥すら食べる。それどころか人間の流した廃棄物すらも食べてしまう。なるほど、確かに掃除屋プリツアーノだ。


 以前、木の柵から身を乗り出してみたのだが、残念ながら魚影は見えなかった。紡績工房のお姉さんに慌てて止められただけで終わった。河に自ら突っ込む輩が一定人数いるらしい。


「さて、まずはアタシのから見てもらおうかね。わざわざ休息の日じゃなくともって思ったんだけどね、早く見せたくてちょっと我慢できなかった」


 ふたりでベンチに腰掛けて、デルフィナが背負っていた布の袋開ける。先日目にしたものと同じような木の箱は、見た目以上にずっしりと重たい。


 ゆっくりと慎重に蓋を持ち上げる。


「う、わぁ……!」

「どうだい?」

「すごい!とても綺麗です!こんなに綺麗なパン皿、初めて見ました」


 緩衝材の木くずに包まれたそれは、真っ白なパン皿。縁はびっしりと、繊細な装飾で覆われていた。


 私が想像していたものとは全く違う。

 縁の装飾と聞いて、私はその表面に施すのかと思っていた。でも、これはそんな二次元的なものではない。


 楕円の皿の周囲をシェールとリンゴで彩られたツタが囲んでいる。事実、ツタが囲んでいるのだ。皿の周囲を包むように囲ったそれは、まるで白石で出来た植物だ。

 ツタや花の隙間から、細かい木くずが覗いて見える。パン皿からツタが生えているようにも見えた。


「まだ試しに作ったものだけどね、どうだい?なかなか可愛いだろう?」

「はい!すごく!」


「あとね、これはジークレット様へのプレゼント」


 手に収まる細長い木箱を渡された。父の日だったらネクタイかな?なんて冗談を言ったところだが、この国には父の日は存在しない。伝わらない冗談ほど虚しいものはないので、心に留めておく。


「あけてもいいですか?」

「あぁ」


 ふわぁ、とバカみたいなため息が漏れた。


 箱の中に横たわっていたのは、一輪のジークレットだった。シミひとつない、白く美しい、枯れないジークレット。

 それは、デルフィナの彫刻で作られた白石の花。


「気に入ってもらえた?」

「私……私、デルフィナ様が大好きです!」


 ありがとうございます!と胸に飛び込めば、優しく温かく受け止めてくれる。芯の通った柔らかさに、少しだけ胸が高鳴った。


「アタシが本当にやりたい彫刻ってものを教えてくれたジークレット様にね、なにかお礼をしたかったんだ。普通に花を贈ったって面白くないだろう?これは……いや、これこそが、アタシの本当にやりたい彫刻だ」

「たいせつにします……」


 この花も、貴女がくれた言葉も。



 それじゃ、ジークレット様の絵も見せてもらおうかね、と言ったデルフィナの言葉に、脇に置いていた画板を持ち上げる。

 デルフィナの白石粉を使用した下地剤は重ね塗りの回数を必要とせず、初期のものに比べると随分軽くなった。白石粉の質が良いというのは、良い影響しかない。もっと早く出会いたかった。


「あの、デルフィナ様の彫刻にあわせると少し修正しなければいけないのですが……」

「いいよ、いいよ。早く見せて」


「では……」


 恐る恐る、炭ペンで描いた下書きを見せる。

 すごく良いものを描いたつもりだったけれど、デルフィナの彫刻を見せられたあとでは自信もしぼむ。ウキウキしていた気持ちも、今ではシナシナだ。


「あぁ……これは……」

「だ、ダメですか……?」


 画板をじっと見つめて、デルフィナは何も言わない。その数秒間の間が、恐ろしいほど長く感じた。


「これに、色がつくんだね」


 長い人差し指が、するりと画板の表面をなぞる。試験の結果を待つような緊張だった。

 早くなにか感想を言ってほしい。できれば、ダメ出し以外で。


「綺麗だ……アタシ、タルクウィニアがこんなに綺麗だなんて思ったことないよ。これが、ジークレット様の見ているタルクウィニアなんだね……」


 デルフィナの言葉に、そっと安堵の息をつく。それはまだ、色のないタルクウィニアだ。


 私が描きたかったもの。ハルクレッドに唆された結果とも言える。

 彫像に色をつける文化がない。白い肌に稲穂のような金の髪、という伝承はあっても、色のついたタルクウィニア像は存在しない。色がついたものと言えば、刺繍くらいしかないのだから。


 私はこの世界に色を乗せる。


「彫刻にはね、それを作った人間の気持ちや世界が、そのまんま現れるんだ。たとえば魔神ポッシメルは見目麗しい男神だけど、それに嫉妬する男が作った彫像は醜い美しさになる。白石粉の質や風魔法の技量だけじゃないんだ。花を美しいと思わなきゃ、美しい花は作れない」


 ジークレット様の見るタルクウィニアは、こんなにも美しいんだ。


 この人は、油断するとすぐに泣かせてくる。けれど、少しデルフィナの前で泣きすぎだという自覚があるので、気合で堪えた。私は涙腺を鍛えたほうが良い。


「そうだね、アタシはこのタルクウィニアの指先にあわせて、この位置をずらそう……うん、すごい、いいね、いいよ……楽しみだ!あぁ、楽しいね、ジークレット様!」

「はい、デルフィナ様!」


 ソン・ザーニャの青に、デルフィナの笑顔が咲く。

 そうか、これがハルクレッドの惚れたデルフィナの笑顔か。南国の花ような、少女のような瞳に、私は深く頷いた。

 惚れた女ならばなおさら、自分の手でこの笑顔を取り戻したかっただろう。悔しかったと言った気持ちが、今なら良くわかる。


 だって、私も悔しい。


 デルフィナはもうとっくに、違う男のものだ。と、そこまで考えて首を振った。私の手の中にある白いジークレット。見事に落とされた気がした。



〇●〇●〇●〇



 下書きを持ち帰ったあとのデルフィナは、驚くほどに行動が早かった。

 完成品が屋敷に届けられたのは翌早朝。私基準の早朝ではない。世界基準の早朝だ。太陽も寝ぼけ眼な時間ブルーアワー


 窓枠に腰かけて、青とオレンジに染まる街並みを描いていた。屋敷に向かって走ってくるデルフィナが見えて、ひどく驚いたものだ。出迎えたナーシャの、どこか戸惑う表情が印象的だった。


 私が手を入れる余地を残した、無垢な白い皿。これを完成に導くのは私の絵だ。

 娘のために彫像を注文したセルモンド伯爵は、いったい何と言うだろう。それを受け取った娘のエルネスタは、いったいどんな顔をするだろう。


 美しいと言わせたかった。私がダルドの匙を見たときのように、私がデルフィナの皿を見たときのように、私が初めてタルクウィニア像と対面したときのように。



 心を震わせるものを、私は描きたいと思った。

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