誰かの心を震わせるものとは2


 デルフィナに甘え倒していると、ほどなくしてアーレストが戻ってきた。


「待たせたな」

「いいえ、報酬のためなら何時間でも待つのがアタシら職人ですからね」

「ハ!納期を大幅に無視したくせによく言う。しかしまぁ、これは本当にすごい作品だな。彫刻だけでも一級品だし、絵も素晴らしい。これは何時間だって見ていられる。正直、私ごときでは値段のつけようがないくらいだ。芸術を嗜む者なら、何枚だって金貨を積むだろう」


 なにその、ハ!……笑っているの?馬鹿にしているの?いや、言葉から褒められているのは分かるのだけどめちゃくちゃ怖い。


 彫刻の施された銀製の箱をすっと差し出され、デルフィナが迷わず蓋をとる。

 この箱は支払箱スケータといい、貴族や商家などが大口の取引を行った際の支払いで用いられる。いわゆるキャッシュトレーのようなものだ。

 支払箱スケータも例に漏れず彫刻がなされ、木製なのか銀製なのか、それとも金製なのか、彫刻はどれほどのものか、その質で財力という見栄を張るのだ。


 支払箱スケータに彫られている神は、商売神マリピエーロ。モノには等しく価値があると説き、現在に続く貨幣レジームを取り入れた人物だ。彼の言う“モノ”のなかには物質的なものだけでなく、概念や行動も含まれる。技術には金を払うべし、行動には金を払うべし。物のやり取りが発生しない労働にも対価を支払え、他人の時間を拘束したら金を払え、と賃金制度を細かく整えたのも彼だ。

 すべての働く者サラリーマンの味方、それが商売神マリピエーロ。


 商人たちの神であるが、算学の神としても知られている。貨幣制度や賃金制度だけでなく、マリピエーロは計算機も作った。

 その計算機は今でも多くの人間に用いられ、文字は書けなくとも計算は出来る、という平民が量産されている。

 そして私は、マリピエーロの神話を読んでいて思った。


 あ、コイツ転生してるわ、と。


 だって、計算機がまんま算盤そろばんなのだ。しかも、その名称はアバカス。そう、アバカスである。翻訳してアバカス、ではない。こちらの言葉として、そのままアバカス。発音はアバーカスに近いけれど、正しくアバカスである。

 偶然同じ形になって、偶然同じ名称になりました。なんて無駄な奇跡、私は絶対認めない。コイツは転生している。


 貨幣レジームについても驚きがたくさんあった。

 貴金属を使用しているため、典型的な本位貨幣制度なのかと長いこと勘違いしていた。が、しかし、このジル貨幣は実際の貴金属を用いているわけではなく、なにやら魔法で造幣されているらしい。なんと、管理通貨制度なのだ。

 平民たちの間では大貨が欠けた半鉄貨や半銅貨というものが用いられているが、あれは国に認められたものでなく、本来は使用が禁止されている。簡単に言えば、半分に敗れた千円札を五百円だと言い張って支払いに使用しているようなもの。

 紙幣よりも価値が分かりやすいように、貴金属の色と名を模した硬化にしたのだろうが、多くの平民が本物の貴金属だと思い込んでしまったのは誤算だろう。教育が十分に行き届いていない平民にとって、“価値が分かりやすい”というのは良いことだと思うが。


 赤ん坊の頃から言葉を話したとか、二歳にして算学が完璧であったとか、五歳で貨幣レジームを完成させたとか。知識チートを全力で押し出した、どことなくクサい神こそ、商売神マリピエーロである。

 外見が銀髪の少年というのも、なかなかに香ばしい。


 金の支払い現場という、なんとなく直視し難い状況に、つらつらとマリピエーロについて考えてしまった。アーレストの支払箱スケータに彫られたマリピエーロが、それだけ良い出来だというのも原因であろう。

 ……うそ、数えていた。デルフィナが何度も数えるから、思わず目で追って一緒に数えてしまった。


 多すぎるでしょ……なんだこれ……


 いち、に、さん、よん……あ、間違えていない。十二枚ある。

 何度も数えるデルフィナに、やはり金のやり取りには慎重になるのだな、なんて思っていた。けど、違うわ、これ、あれだ。デルフィナも驚きすぎて、数える手が止められないのだ。

 そもそも元の報酬額すら知らないが、デルフィナも予想外の金額だったのだろう。


「本当に良いんですかい?この金額があれば、郊外に小さい家が買えるよ……」

「ハ!足りないくらいだよ。競売にかけたら、きっと白金貨や黒金貨が出てくるぞ。今回は納品が遅れたということで、申し訳ないがまけてくれ」


 納品が遅れてなかったらいくらになったの……!?


 金貨十二枚、しめて六万ジル。日本円すると二百五十万円程度だろうか。やばい、借金を耳揃えて返済できる挙句、奨学金の臨時返済にもまわせる。いや、先に滞納している税金と国保か……?

 いまは亡き借金について思いを馳せていると、嘲笑するように唇の端をあげたアーレストがこちらを向いた。


「さて、ジークレット嬢。貴女に仕事を依頼するときは、直接ご連絡差し上げてもよろしいのかな?それとも、ソルマト殿を通したほうが?」

「……ぁ、えと、絵画だけである場合は、直接で構いませんが、白石を使用するのであれば、デルフィナ様に」

「分かった。ありがとう」


 デルフィナの表情を確認すると、あっさりとゴーサインが出た。出たのだが、切り出すのが怖い。


 セルモンド邸を訪れる前に、デルフィナから事前に聞いていた。職人たちが作品を売るのは、そのほとんどが仲卸業を営む商人、いわゆるバイヤーである。しかし、デルフィナのように貴族や大手の商会から直接注文を受けることも珍しくない。経済力のある者にとって、有名な職人にオーダーメイドで作品を作らせることはステータスなのだ。

 もし今回の仕事を気に入れば、アーレストから私に直接依頼がいくこともあり得る、と。その話題が出たら、遠慮せず「やりたい仕事しかやりません」と言ってやれ、と背中を押されていた。


 ダルドも見た目は怖いが人の良さが滲み出ているし、我がままをいうことに然程躊躇いはなかった。なによりダルドは平民で、私は貴族令嬢だ。

 それに比べて、アーレストは私より何段も上の立場にいる。いくら実家の力が強くとも、私が父に疎まれていることくらい、アーレストは理解しているだろう。ヴァイオの長女だから、では許されない。子どもだから、でも許されない。


「セルモンド伯爵。私は必ずしもご依頼をお受けできるわけではございません。我がままな子どもだと謗られようと、描きたいものしか描かないと決めております。筆が乗らなければ、締め切りも守りません」

「なるほど。このタルクウィニアも、筆が乗らなかったのか?」

「……いえ、それは逆に乗りすぎてしまいました」


 ふっと唇の右端をあげると、アーレストはひとつ首肯した。

 怖い怖い、やめればよかった。依頼なんて受け付けていませんって言えばよかった。描きたいものがいっぱいあるのに、こんな怖い人の依頼なんて心が死んでしまうに決まっている。


「それなら構わない。それを承知で依頼すれば良いだけだ」


 ひぇぇ、怒らせたかもとビクビクしながら喋るの嫌だよぅ……


 だけど、言わなければならない。私が人生でやってはいけないこと。やります、できます、と口にすることだ。プライドを捨てるのだ。少しでもクズを脱するために、我がままになれ。


「たとえば、描いてほしいものを指定することは?」

「わ、私が描きたいと思えれば」

「たとえば、この家に来て描いてほしい、というのは?」


 指定されたものを描け、と言われたら描けるだろう。指定された日にち、指定された時間に来い、と言われたら出来るだろう。最初のうちだけは。

 出来るのは最初だけ。だんだんといつもの悪い癖が出始めて、いずれ身を滅ぼす。

 でも、それではダメなのだ。絵を描くことがやらなければいけないことになって、またギリギリとスレスレの狭間に陥る。そうなったら、前世と同じ。また、クズのまま死んでいくことになる。


 私は愚か者だ。前世の私は、自身が愚かな人間であることをもっときちんと自覚すべきだった。

 “やればできる”は、やらないからできない。私はやらない。私は、“やる”ができない。欲望に忠実で、意志の弱い私に『やればできる』は存在しない。


「私が、そうしたいと思えたら」


 アーレストが唇の端を、またクイっと持ち上げた。怒ってはいない。おそらくこれが、この男の笑顔なのだろう。そう思うことにする。だって、そう思っていないと嘲笑されているように感じて、心臓がストレスできゅうきゅうと悲鳴を上げるのだ。

 ストレス過多で呼吸まで浅くなり始めたら、自律神経に異常をきたしているから要注意。


「承知した。依頼はそちらに伺おう。気に食わなければ、断ってくれても構わない。実力のある職人とは大抵、そういうものだ、ジークレット嬢」


 ヴァイオ卿にもよろしく伝えてくれ、という言葉を最後に、セルモンド邸を後にした。父には人生で一度しか会ったことがありません、と伝えることはしなかった。家庭の恥をわざわざ晒すこともあるまい。


 とにかく、ストレスで血を流しそうな私の心臓は、無事に守られたのである。



〇●〇●〇●〇



 我が家の応接室に戻り、ナーシャのお茶で一息。ようやく気持ちが落ち着いたところで、改めて安堵が込み上げてきた。良かった、無事に認めてもらえた。納品できず突き返されることも、こんなものと罵倒されることもなかった。


 貴族令嬢あるまじき姿勢の悪さでソファに沈み込むと、デルフィナが悪戯っぽくニっと笑った。可愛い人だなぁ。


「さってと、ジークレット様!お待ちかね、報酬の相談だよ!」

銀貨一枚一二〇〇ジルでは?」


「そりゃあ、最初の依頼料だったらね。だけど、上乗せされてんだから、そのぶん払うにきまってるだろう?しかも、十枚も上乗せされてんだよ。正直なところ、この金額はジークレット様が描いた絵に対する付加価値だ。約束してたからって、銀貨一枚ポイと投げてオシマイってわけにゃいかないよ」


 ローテーブルを滑ってきた十枚の金貨。


 イヤイヤイヤイヤ……

 受け取れるわけがない。たしかに私は女の金で生きてきたクズだが、さすがに何百万という大金をさらっと受け取ってヘラヘラ喜べるほどお気楽な性格はしていない。


 とはいえ、金をもらえるのは嬉しいので、二枚だけ引き抜いて、残りをデルフィナに押し付けた。

 すると、また押し返される大きなコイン。デルフィナは知らないが、ダルドとも似たようなやりとりをしたことを思い出した。あの時とは比べ物にならない金額だけど。


「ダメだ。受け取んなって、ホラ」

「いえいえいえ、ダメですダメです。むしろ金貨二枚でも貰いすぎです!」

「いいや、ジークレット様は自分の価値を分かってない!」


 当初の話では、デルフィナから受け取る金額は銀貨一枚一二〇〇ジル。話を訊くぶんに、元の依頼料は金貨二枚一〇〇〇〇ジルだったのだろう。外部に一部工程を依頼するのに、銀貨一枚というのは妥当な金額だろう。報酬額の一割と少し。

 単純計算で、金貨十二枚六〇〇〇〇ジルであれば、金貨一枚と銀貨二枚程度ということになる。


 金貨二枚でも本当は貰いすぎだ。


「それを今の一瞬で計算したのかい!?アバカス無しで!?」

「そんなことは今はどうでもいいのです!こんな大金受け取れません!あと、アバカスは不得手です」

「いやいや、どうでも良くないよ!人間計算機アバカスじゃないか!」


 なんだ人間計算機アバカスって。


 前世の店なんて何割引きだの、何十パーセント引きだの、そこら中に転がっていた。今回に至っては、わざわざ六〇,〇〇〇ジルの一,二割なんて考え方をせずに、一,二〇〇ジルを六倍すれば答えが出る。

 よほどのバカでなければ、そこまで難しい計算ではないはずだ。


「では、こうしましょう!」


 金貨十二枚を三つの山、四枚ずつに分ける。そのひとつの山をまずはデルフィナに、もうひとつを私に。残りのひとつをローテーブルの真ん中に。


「今回の仕事にあたって、私はデルフィナ様に大きな援助をしていただきました。白石粉です。あれがなければ、依頼の品は完成しなかったでしょう」


 ふむ、と口を閉ざして、デルフィナが私の言葉を聞く。

 実際問題、私の絵はデルフィナからもらった白石粉がなければ描けなかった。市販の粗悪品ではデルフィナを泣かすことも、アーレストから追加の報酬を受け取ることも出来なかったであろう。いや、それ以前にデルフィナから私への依頼そのものが頓挫していた可能性だってあったのだ。


 塗料は最高級品の白石粉でなければ完成しないのだから。


「そして、デルフィナ様はこうも仰いました。これは必要経費ってやつだ、と」


 市販の白石粉は小袋ひとつで銅貨一枚一六〇ジル。私が一年間でデルフィナに融通してもらったのは、およそ三十袋ぶんにも及ぶ。軽く金貨一枚が飛ぶ。


「市販のものと同じ、粗悪なものであれば経費として金貨一枚で充分でしょう。ですが、デルフィナ様に頂いたものは最高級品です。しかも、どうやっても市販では購入できません。四倍の金額をお支払いしても足りないほどなのです。仲卸や小売店を介さないので、少しオマケをして頂いて……はい、経費でデルフィナ様に四枚」


 中央の山を、するするとデルフィナのほうに押しやる。顔を覆ってハァっとため息をついたデルフィナが小さな声で、「計算早ぇ……」と呟いた。私の計算が早いわけではない。平民に教育が行きわたっていないだけだ。教育の水準が追い付けば、この国の十一歳だってこれくらい当たり前になるだろう。

 日本の十一歳は賢かった。人によっては、翌年に中学受験をする者だっている。情緒が追い付かないだけで、あいつらは存外賢い。


 彫刻師デルフィナに四枚。外部委託の私に四枚。依頼のための必要経費として工房に四枚だ。これ以上は譲れない。

 元々、アーレスト・ガラ・セルモンドの依頼を受けたのはデルフィナだ。外部委託の私が、デルフィナと同じ金額をもらうこと自体が、そもそもおかしい。ついでに言ってしまえば、私のこれは未完成の技術だ。価値を認めてもらうことはとても嬉しいことだけれど、さすがの私でも図々しいことは分かっている。

 だが、ここで引いてしまえば私が金貨十枚を受け取ることになってしまう。


 絵画という物珍しい技術に投資してもらっているのだと考えても、額がちょっと馬鹿にならない。


 私はまだまだデルフィナに甘えていたいから、だから譲れない。なんとなくだけれど、そんな気がするのだ。私はデルフィナに、パトロンになってほしいわけでない。


「んだァー!忘れてたよ、ジークレット様が大人顔向けの賢い子で、強面のダルド相手に交渉するような子だってこと!絵の才能があるから落とし子だって言われてんのかと思ってたけど……そうだった。ハルクレッドが現代のマリピエーロだって言ってたね!負けた負けた!わかったよ、アタシが四、工房に四ね」


 ひぇぇぇ、待って待って、それだけはやめてほしい……

 現代のマリピエーロとか死んでも嫌だ……知識チートを振りかざした香ばしい銀髪少年と同じ枠とか、本当に心の底からご免こうむりたい。マリピエーロの神話は読んでいるだけで、誰かの黒歴史ノートを見ているような、恥ずかしい気持ちになるのだ。

 あいつ、絶対に『やれやれ系ハーレム主人公』でしょ……絶対にやだぁ……


 甘やかされちゃくれないか、と呟いたデルフィナに、少しあざといかなと思いつつ上目遣いを向ける。女を落とすには母性本能をくすぐれ!ヨシ!


「逆です。もっとデルフィナ様に甘やかしてほしいので……だから受け取れないのです」

「んぁー!かぁわいいねぇ!連れて帰りたいよっ!」


 飛ぶように隣に移ってきたデルフィナにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。連れて帰ってほしい。ついでに一回で良いから抱いてほしい。あと、おっぱいエアバッグで窒息しそう。


 知っていた。デルフィナが可愛いものが大好きなことなんて、初めから知っている。だから私はそれを利用するのだ。小さくて、懐いてくる子どもを、デルフィナが無碍に扱うなんてことはないはずだから。子どもだと許される短いあいだだけでも、こうして甘やかしてくれるように、精いっぱい可愛い子ぶるのだ。

 できれば、私の身長が伸びて大人になってしまったあとも、思い切り抱きしめてくれたらいいと、心の中でつぶやくに留めた。



 十一歳、春。こうして、私の初めての大仕事は幕を閉じた。


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