人生の師と呼んだ人
タルキス一六八九年。王国歴七二年。
ランドウルフ王国に仕えるヴァイオ子爵(デ・ヴァイオ)家の長女、名をジークレット・デ・ヴァイオ。明日に洗礼を控える七歳である。
初めて建国祭に参加した五年前、私は気づいた。わざわざ自分から行動せずとも、知識はいずれ勝手についてくることを。
多くを訊ねずとも、どうせ何らかの形で知ることになる。私が当時気になっていた事柄はすべて基本的なことであり、私が動く必要はない。普通の子どもとして、ゆっくり知識を吸収していけば良いのだ。
食べて、寝て、遊んで、食べて、寝て、遊ぶ。
五歳になるまでやってきたことは、たったのそれだけ。最高だった。五歳までは。
そう、五歳までは。
「ジータ様―、先生がいらっしゃいましたよ」
「ありがとうございます、レーナ。お呼びしてください」
面倒くせぇ……
今日くらい良いじゃん、だって明日洗礼式だよ。あぁ、面倒くさい。
「ジークレット様、本日もご機嫌麗しゅう」
「ごきげんよう、ハルクレッド先生」
片手を胸に当て、もう片方の手でスカートの裾を持ち上げる。片足を後ろに流し、姿勢を崩さないように膝を落とす。いわゆるカーテシーというものである。お辞儀でいいじゃん……
好々爺としたハルクレッド・ソルマトが、相貌を崩して笑った。
「はい、良くできました。今日はシェールの花をお持ちしました。洗礼を控えるジークレット様を祝福するようで、思わず持ってきてしまいましたが、いかがかな」
「まぁ……まだ春先ですのに、綺麗に咲いていますね。花言葉は『あなたの成功を祈ります』でしたね」
「えぇ、その通りです。私の思い、受け取ってくださいますかな、ジークレット様」
ハルクレッドが含んだ冗談に気づきながらも、花のプレゼントは嬉しかったので素直に礼を言った。素敵な贈り物です、ありがとう、と。受け取った花束に鼻を近づける。甘い香り。
シェールの花はブーゲンビリアに似た初夏に咲く花である。花びらに見えるホウと呼ばれる白い葉の中に、小さな黄色い花が咲いている。ブーゲンビリアの咲く熱帯とは似ても似つかない気候のため、実際にはシェールとブーゲンビリアはまったく違う花だ。しかし、トゲがあるところもよく似ている。
自慢じゃないが、花には詳しいのだ。前世で女を口説くとき、花束や花言葉はとても便利だった。
「レーナ、お願いします」
「はい、花瓶にお入れしますね!」
花を受け取ったレーナが部屋を出ていく。給仕服の背中を見送ったあと、ハルクレッドに向かってニッと笑ってみせた。
「ハルクレッド先生、シェールの花とは、なかなかに情熱的ですね」
「ふははは!やはり知っておられましたか!他意はございませんよ、ふははは!」
シェールの花言葉はふたつある。先ほど口にした『あなたの成功を祈ります』という言葉の裏に『身を削るほど愛している』の言葉を隠している。夏の始まりに相応しい、情熱的な花だこと。
「さて、ではでは。花が戻る前に先日の復習を終わらせてしまいましょう」
「はい。旧ハラナの滅亡と、海路開拓のお話だったかと」
「よく覚えていらっしゃいましたな、素晴らしい。では、旧ハラナ最後の王の名と、滅亡した理由をどうぞ」
旧ハラナとは、ランドウルフ王国の前身となる国のひとつだ。海に面した小国だったが、海路を渡ってきた蛮族の襲撃によって衰退。隣国ドウルフ王国の英雄王ライノール・ランが蛮族を退けるとともに、旧ハラナを合併。現在のランドウルフ王国となった。
ちなみに、県立から今年で七二年。現ランドウルフ王は五代目である。
五歳からつけられた家庭教師の授業で、私は今世における時代と国について学べた。
その結果出した結論は、こんな世界知らない、である。
歴史の授業はランドウルフ王家や、前身となった旧ドウルフ王国をヨイショするばかりで、正直なところ正しい歴史とは思えない。だが、だからと言って一切合切が虚偽であるとも思えない。
ランドウルフ王国のみでなく、周辺国家の歴史に焦点を当てても、前世の知識に該当するような国はなかった。
たとえ言葉を知らなかったとはいえ、あまりにも知らなさすぎる。
地図は簡素過ぎて王国の形すらあやふやだし、改竄された歴史では大陸の全貌など分かるはずもない。
「海路開拓は未だ成し得ぬ王国の夢でありますな」
「海の向こうから来たとされる蛮族は、特別な魔法でも使えたのでしょうか」
「うむ、その可能性は長年論じられております。しかし、英雄王ライノールの滅ぼされたことから、魔法全体が発達しているわけではなく、海を渡る技術に特化したものと言われております」
これである。
私がこんな世界を知らないと思ったもうひとつの理由。
魔法がある。
火をつけたり、水を出したり、土を操る。魔法があるのだ。
ランドウルフ王国に仕える貴族は、そのすべてが魔法を使う。生まれながらに持つ魔力というものを操作して、奇跡とも等しい魔法を行使するらしい。
国家間の戦争は魔法の撃ち合いであり、それは私が知る現代兵器を用いた戦争に近い。魔法があるくせに、剣をもってガチンガチンと斬り合う、いかにもなファンタジーではなかった。
魔法を使う貴族は国や領地を治める官吏であり、国を守る兵士なのだ。銃や戦車、地雷、それらが魔法という加力に置き換えられたにすぎない。
私が知らないだけで、地球でも過去には魔法をつかって生活をしていた。なんてことはないだろう。私が知っている地球に生きる人類は、魔法など使えなかった。だから科学が発達したのである。
私は、こんな世界知らない。
「ジークレット様は……」
「魔法を使えないことは少々惜しくも思いますが、それだけのことです。お気遣い無用ですよ、ハルクレッド先生」
「……本当に惜しいことですなぁ」
魔法の話題となると一々そのような反応をされるのは面倒だった。身分のある者が魔法を使えずに生まれてくる。それは、その者にとって悲劇でしかない。
子爵家という貴族に名を連ねる家の生まれでありながら、私は先天的に魔法が使えない。魔力を持たない。だからこその待遇であり、だからこその境遇なわけだ。
貴族は官吏でありながら兵士。魔法を使えないものは戦場に出ただけで死あるのみ。運よく他家へ嫁や婿に出ることはあっても、当主にはけしてなり得ない。
その代わり、前世と違い女性蔑視の風潮はない。創世神タルクウィニアが女神というのもあるだろう。魔法が巧みであれば、女性だろうが男性だろうが上に立てる。
ヴァイオ家にとって私は、予備にもならないお荷物に過ぎない。
私のすぐ下に、魔法の使える弟がいるらしい。そしてその下にも、魔法の使える妹がふたりいる。跡継ぎにも、他家との政略結婚にも困らない。だから私は予備の予備の予備。ただのお荷物。
弟や妹がいなければ、私が婿をもらう他なかったのだろうが、幸いにというべきか、残念にというべきか、きっちり魔法が使える跡継ぎが生まれた。だからと言って殺すわけにも、産み落とした長女をなかったことにするわけにもいかない。
結果、屋敷と使用人を与えて、殺さない程度に放置されているというわけだ。実家は首都ランにあるにも関わらず、わざわざ離れたセルモンド領に送り込むくらい徹底している。両親は、私の顔も見たくないらしい。
この世界に生を受けて七年。私は両親の顔を知らない。私の母は乳母である、ナーシャただひとり。
愛もなければ憎しみもない。それはそうだろう。だって、会ったこともないのだから。面と向かって罵詈雑言を投げられたわけでも、殺されそうになったわけでもない。
そのくせ、親の身分のおかげでなにをせずとも傅かれる生活を送れている。感謝こそすれ、恨むことなどありはしない。
「さぁ、爺は喋りつかれました。歴史はここまでにして、算学に入りましょう。おっと、その前に食事ですかな!」
「ジータ様、昼食の準備が整いました。ハルクレッド先生もどうぞ、食堂へ」
「ありがとう、レーナ。すぐに参ります」
いつも笑顔で元気なレーナも、昔の魔王っぷりは鳴りを潜め、今では専属のメイドさんである。現在は十一歳、まだ幼さは残るものの、いずれ良い女になるだろう。
穏やかなナーシャの娘とは思えないほど溌剌としているが、目元の泣きぼくろは年不相応に色っぽい。ちょっとおバカなところに目を瞑れば、すでにその片鱗を見せていた。
レーナに引いてもらった椅子に座ると、タイミングをはかったように食事が運び込まれる。パンとスープと茹で野菜。
「トスカ・サリエラ、大いなる恵みに感謝を」
パンをちぎり、オイルピッチャーから少しだけオリーブオイルを垂らす。正しくはオリーブオイルではないのだが、似たような植物性オイルだ。
食前食後の祈りは聖餐日に行い、普段の食事はその限りではない。ただなんとなく、『いただきます』にあたる言葉がないため代用している。けして信心深い宗教家というわけではない。
「トスカ・サリエラ、大いなる恵みに感謝を」
続いて祈りの言葉を口にしたハルクレッドは、正しく信心深い宗教家である。いや、本業が神官、というほうが正しいか。
貴族の子女子息に教育を施す教師には二種類ある。ひとつは職業として家庭教師を行う者。その多くは本家の当主になれなかった準貴族であり、講爵という爵位を国王から授かっている。国王の名において正しき知識を説く、言うなれば教員免許だ。勉学から礼儀作法、魔法までを全て教えることができる。
もうひとつが、ハルクレッドのような神官。ハルクレッドのように勉学の教師を務めるものは珍しく、主に楽器や歌、舞踊、彫刻芸術など、貴族的な習い事を教える。神官が家庭教師を務めるのは、仕事ではなく奉仕活動。もらうのは賃金ではなく、寄付金だ。
貴族の子どもたちは、講爵をもつ教師と神官教師、どちらも最低ひとりはつけなければならない。なんと、そういう法律があるのだ。
次代を育てることは貴族としての務めであり、義務。家庭教師代をケチって不正を行えば、教師代以上の罰金が科せられる。
なので、私にもハルクレッドともうひとり、家庭教師がいる。聞いて驚け。
「ジークレット様、午後の算学が終わりましたら、礼儀作法の時間を使って明日の練習を致しましょう。ふふ、パンのおかわりもお持ちしましたよ」
「ありがとう、ナーシャ。明日の練習ですか。なにか難しいことでもあるのですか?」
そう、ナーシャである。
我が家、と言っても私に与えられた屋敷というだけだが、この家の筆頭使用人であり、乳母であり、講爵をもつ教師なのだ、肩書が大渋滞すぎる。
まだ二歳だった初めての建国祭、あの日、もっとも変わったのはナーシャだった。彼女の中でなにがあったのか、その心境は分からない。分からないが、ナーシャは確かに変わった。優しいだけのお姉さんではなくなった。
『ジークレット様、もし私がジークレット様の教師を務めたいと言ったら、私を選んでくださいますか』
二歳児に言うべき言葉ではない。ところどころ言葉が分からなかったし、明らかにいつもの雰囲気ではなかった。二歳児に出して良い雰囲気ではない。
よく分からないながらも、ナーシャが真剣であることは分かった。私はクズだが、私は人の本気を笑わない。本気で物事に取り組むこと、努力をすること、私には出来ないことだからこそ、尊敬するのだ。結果がどうあれ、私は人の本気を笑わない。
だから頷いた。ナーシャが真剣であったから、まるでプロポーズみたいな雰囲気だなとヘラヘラしそうになる頬を抑えて、頷いたのだ。
まさか、たったの三年で講爵を得てくるとは思わないだろう。あの時は、講爵とはなんたるか、どころか国の名前すら曖昧だったというのに。
当主になれないと分かっている貴族の子どもたちは、成人後の身の振り方を考えなくてはいけない。他家へ嫁や婿に出るのか、講爵や騎士爵を得て準貴族として身をたてるか、使用人として身分が高い家へ奉公に出る手もある。
講爵を授かるためには高い教養が必要とされる。上位貴族の子を教えることを考えれば、礼儀作法も完璧でなければならない。講爵を目指す坊ちゃん嬢ちゃんは、幼い頃からそれを目指して勉学に励む。
それが三年。もともと貴族として最低限の教養があったとしても、三年。私の世話をして、レーナの世話をして、その上でたったの三年。
ナーシャはもともと、男爵家から他の男爵家へと嫁いだ貴族だった。当主になるはずの夫が死去したことで、我がヴァイオ家へ奉公に出たそうだ。男爵家の次期当主は、結局、亡くなった夫の弟に繰り上げられた。
初めてその話を聞いたときは驚いたが、よくよく考えれば大いに納得できる話でもあった。放置しているとは言っても、子爵家の長女。乳母を任せる者が、素性の知れない平民なわけがない。本の読み聞かせだって、そう。識字率の低い平民が、神話を読み聞かせられるわけがない。
ちぎったパンでスープの皿を拭っては口に運ぶ。味のしない茹で野菜や、旨味ゼロのスープはどうでもいい。パンである、パン。
馴染みのある柔らかいパンや、酸味のある黒パンとも違う。たしかに硬く水分量はすくないが、この弾力の強いもちもち食感が良い。香りといい、噛みしめた時の甘味といい、とにかくパンが美味しい。
パンうめぇ。と思いつつ、壁際に立つナーシャの顔を見る。
「どうかいたしましたか?」
「いえ……ナーシャはなぜ、わざわざ講爵を得てまで私の教師を請け負ってくれたのだろうと思いまして」
「あらあら、ついに訊かれてしまいましたか。ふふ、ハルクレッド様の前でこのようなお話をするのは、少し気が引けてしまうのですが」
構いませんよ、と頷いたハルクレッドは、すでに食事を終えていた。
私も最後のひとかけらを口に放り込んで、フィンガーボウルに指をつける。食後の挨拶は、ナーシャの話を聞いてからでもいいだろう。
「私は、ジークレット様をタルクウィニアの落とし子だと期待しているのですよ」
わお……
驚きすぎて逆に反応が出来なかった。ハルクレッドは驚くどころか、何故か嬉しそうに笑っている。
タルクウィニアの落とし子。神話や歴史のなかで、多く見られる表現だ。私はこれを、英雄の別表現だと解釈している。
人の生きる大地を創り出した女神、タルクウィニア。大地を創り、迷いし時代に手を差し伸べる。ときに知恵を、ときに力を。
農耕神トスカ・サリエラは、タルクウィニアの落とし子代表と言っても良い。飢饉に喘ぎ苦しむ人間を救うため、タルクウィニアによって知恵を授けられた農夫。魔神ポッシメルも有名だ。獣によって苦しめられる人間を救うために、魔法という力を授けられし賢者。
本来持つべきものと引き換えに、知恵や力を授かって生まれてきた人間。それを、タルクウィニアの落とし子と呼ぶ。
トスカ・サリエラは『満ちた心』と引き換えに知恵を、ポッシメルは『言葉』と引き換えに力を。ランドウルフ建国の英雄王、ライノール・ランも落とし子と言われているが、力の対価はなんだったか。『母』だったと思うが、定かではない。
「ナーシャ……あの、私には特別な力も知恵もありませんよ……?」
あるとすれば、私には生かしきれない前世の知識だけだ。農耕神トスカ・サリエラや、商売の神マリピエーロのように、なにかに特化した知恵でもない。残念ながら私は、ナイチンゲールにはなれない。
「ふはははは!ふふ、ははははは!」
「ハルクレッド先生……?」
「ふははは!同士がおりましたなぁ!」
普段以上に相貌を崩す好々爺にちょっとだけ引いた。
大笑いするハルクレッド、にこやかなナーシャ。戸惑っているうちに、レーナがさらっと食器を下げていった。話を邪魔しないように、などという気遣いではない。あれは、皆が何の話をしているのか分からないときの顔である。知っている。バカについては詳しいのだ。
「ジークレット様の瞳には知性の輝きがございます。知恵を得たから、学んだから得たものではありません。まだ目も見えぬ、乳飲み子であった頃からある、知性の輝きです」
わお……
自分が上手に子どものフリをこなせているなどと思ってもいなかったが、まさかベイビーの頃からとは。いたって健全に癇癪を起しては、おっぱいを吸っていたつもりだった。
嫌悪されていなくて良かった。
「うむ、うむ。私もよく覚えておりますとも。数年前の建国祭、私は肉串の串を回収しておりましてな。そのときに出会った幼子に『ありがとうございます、トスカ・サリエラ』と挨拶されたのですよ。なるほど、ナーシャ殿の言う通り、あの時のジークレット様に見たものは、まさしく知性の輝きでした」
「あ、え、ハルクレッド先生だったのですか……いえ、でもあれは、串をお返しする直前にナーシャに教えてもらったのです。特別な何かがあるわけでは……」
「ふははは!ほとんどの子どもは、あんな幼子の時代のことなど、覚えてはおりませぬ。それに、私が驚いたのは別のことですよ。あのときジークレット様は、私に串の持ち手を差し出したのです。よく教育されている貴族のお子であっても、その気遣いと行動は驚くべきことですよ」
困った。非常に困った。
人に物を差し出す際、持ち手を向けて渡すのなんて当たり前だ。身についた習慣は、意識して行うものではない。ハサミなどの刃物は持ち手を向けて渡しましょう。小学生で習うようなことだもの。そもそも、自分が口をつけた部分など、他人に持ってほしくない。
たしかに私の頭の中には“私”という存在が生きていて、前世で得た知識や経験が詰まっている。これをタルクウィニアに授けられし知恵というのならば、そうなのかもしれない。
そして、前世のお調子者だった私であれば、大口を叩いて調子に乗っていたのだと思う。
しかし、私はこの七年間で決めたのだ。何も言うまい、何もしまい、と。
大口を叩いたところで、中身は所詮私。どうせやらないに決まっている。ちやほやされて、調子に乗って、そのくせやるべきこともやらないで、最終的に保身に走る。前世の二の舞になるのだ。
「……神童も大人になればただのひと。考えられる力はあれど、特別な知恵もなければ、それを形にする力もありません。私はまだ子どもですから……多少頭が回ることが、他の子と比べて奇偉に見えることもあるのでしょう。ですが、それは同年代の子どもと比べて、そう見えるだけ。ほんの少し成熟が早かったに過ぎません」
「ふはは、はーっはっはっはっはっ!」
すごく笑われている。ナーシャまで、口元を手で押さえて笑っている。ニコニコしているレーナは、たぶん笑いの意味が分かっていない。
「神童も大人になればただのひと!なるほど、なるほど、よく言ったものです」
前世の表現です!十歳で神童、十五で才子、二十歳すぎればただの人!この国の成人年齢は十四歳と猛烈に若いので、そのままこの言葉が当てはまるわけではないが。
「大丈夫、私たちはただ期待しているだけ。今はまだ分からずとも良いのです。落とし子は本人がそう名乗り出るものではない。成した功績をもってして初めて、人々はかの者が落とし子であることを知るのです。私やナーシャ殿は、いつかジークレット様が何かを成し遂げる方だろうと期待しているに過ぎない。ジークレット様は、ただなさりたいように過ごせば良い」
今まで壁際にいたナーシャが、私の横に膝をついた。目線を合わせ、優しく口を開く。
「私が講爵を得た理由でしたね。それは、ジークレット様が落とし子であると勝手に期待しているから、です。貴女が事を為した時、私はその従者なのだと周囲に自慢したいだけ。ただの我がままなのですよ。特別に何かをなさろうと思わなくても良いのです。やりたいことをやったまでだと、歴史に名を残す偉人は皆そういいますから。やりたいことを、やりたいように、ジークレット様のただあるがままに。私はジークレット様が好き勝手に生きたその先が見たい。その一助でありたいのです」
やりたいことを、やったまで。私の前世だって、同じようなものだ。やりたくないことを、やらなかった。やりたいことすら出来なかったのだけど。
肩に置かれたナーシャの手が背中にまわって、そっと抱きしめられた。これ、なんの流れ?と頭の冷静な部分がささやくが、まだまだ子どもの情緒に支配される心は自動的に震える。
突然期待されて慌てふためいたところに、そのままでいいよと言われた。それだけのこと。だというのに、なぜこうも胸が苦しい。
私は前世の頃から泣き虫なのだ。小説も、映画も、アニメも、ドラマも、漫画も、安いお涙ちょうだい物語だって、簡単に涙腺が負けてしまう。だから、頭と心が結びつかないまま、身体が勝手に泣き出してしまうのも、仕方のないこと。仕方ない、だってナーシャが暖かいから。
でも、ダメだ。
期待されるのは、やっぱりダメだ。なんとかなる、どうにかなる、そればかりで生きて、結局どうにもならなくて死んだ。それが私だ。タルクウィニアがジークレットの身体に与えたのは、そんな怠惰クズ人間の魂と記憶。
あるがままに、なんて言われたら、私のことだ。日がな一日寝ているだけに決まっているじゃないか。
「ナーシャ……」
「はい、ジークレット様」
「期待してくれてありがとうございます。大好きなナーシャに褒めてもらうことが、私は一番嬉しいです、でも、私はナーシャが期待するような人間ではありません。私は……私は本当は勉強なんかしたくないし、働きたくもない。ナーシャに抱きしめてもらって、レーナと遊んで、そうやって日々を過ごしていたい。あるがままに、なんて言われたら、一日中ベッドの中です」
私の身体を抱きしめたまま、ナーシャは黙って聞いていた。ハルクレッドも何も言わない。レーナはたぶん分かっていない。
私がこの世界に何かをもたらす人間ならば、そうあれとタルクウィニアに送り込まれてきた人間ならば、なぜ当たり前に持つべき魔力を持たない。地位のある家に生まれて、なぜ実の親に疎まれる。生まれてきただけで疎まれる人間に、その身体に愚者の魂を宿すような人間に、いったい何が出来る。
私のいるべき場所は新宿の路地裏で、明け方のパチンコ屋の前で、競馬場のパドックだ。
「勉強したくない、ずっと遊んでいたい。子どもだから当たり前と思うかもしれません。でも、違うのです。私はきっと、大人になっても変わりません。やらなければいけないことから逃げ続ける。私のことです。私が一番知っています……私は誰かに期待されるような人間じゃない」
恥の吐露に、胸に負荷がかかる。素直に謝罪も出来ない人間が、一丁前にストレスなんか感じている。
タルクウィニアの落とし子。本当にそうであれば、どれだけ良かったことだろう。特別な才覚をもって生まれ変わったのなら、どれだけ良かったか。それを成せる人格なら、どれだけ……
実際に前世の記憶を保持して、まるで人生の地続きのように生まれ変わったのだ。神の所業だと思ってしまいたい気持ちもある。
でもね、神さま。やっぱり思うのだ。クズはどうやったってクズ。同じ状況になれば、私はきっと繰り返す。一度死んだところでやりたくない病は治っていないし、後回しに後回しを重ねてスレスレ、きっとまた取り返しがつかなくなって死ぬ。
ねえ、神さま。やり直しをさせるのなら、せめて記憶は消してほしかった。せめて人格くらい、まっさらなままやり直しをさせてほしかった。
生まれ変わってもクズなんてあんまりだ。これは神の恵みなんかじゃない。怠惰に過ごし、三十年を無駄にした罰だ。
だって、こんなにも苦しい。それなら努力をしろと言われるだろう。でも、私はきっと努力をしない。できない。
やれるものならとっくにやっている。
でも、苦しいのだ。だって、だって。
「私は……ナーシャを失望させたくない。期待外れだったなんて、思ってほしくない」
だけど、私にはそれを覆す努力ができない。
クズを言い訳にするなって?するよ、だからクズなのだ。様々な言い訳を駆使して、“やる”から逃げ回ってきたのだから。
「大丈夫、私は知っています。ジークレット様がお寝坊さんで、お勉強嫌いなこと。とっくに知っています。失望したりなんか、いたしません。期待に応えようなんて思わないでくださいませ。ふふふ、期待しています、なんて言った後にこんなこと……ちょっとズルいですね」
馴染み深い地球史の偉人たちも、この国で学んだばかりの偉人たちも、知識があったから偉大なわけではない。力があるから偉大なわけではない。彼らの功績の裏には、立ち上がる勇気と、成し遂げようとする強い意志と、前に進む行動力と、たゆまぬ努力がある。
私にはひとつもない。
期待に応えようなんて思わなくてもいい。あるがままでいい。ふたりはそう言うけれど、そんなことでは二人が期待する偉大な功績などつくれるわけもない。偉人とは努力の人を言うのだから。
だけど、ねえ、ナーシャ。貴女の腕の中にいると、こんな私でも期待に応えたいなんて思ってしまう。ねえ、ナーシャ。出来ることなら、私だってやりたいよ。
私だって、クズなんて嫌だよ。
ナーシャが耳元でささやいた。
「ジークレット様の、あるがままに」
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