ちっぽけな匙が持つ意味



 いつも冷静で穏やかなナーシャが悲鳴を上げた。

 金切声ではない。思わず口から漏れてしまった、というような小さな悲鳴だった。


「驚かせて申し訳ない!ソルマト木工房のダルド・ソルマトという。ジークレットのお嬢さんに取り次いでもらいたい」

「ぁ、失礼いたしました。まずはご用件をお伺いしても……」


「あぁ、ダルド様!お待ちしておりました!」


 ナーシャのヒッ!という悲鳴が聞こえて駆けつけてみれば、そこにはダルドがいた。相変わらずの半裸に悪人面。ナーシャの悲鳴はダルドの顔を見てか、むき出しになった上半身を見てか。


 扉を開けたら半裸の悪人面。そりゃ悲鳴のひとつも上げたくなる。


「どうぞ、中へ。ナーシャ、お茶の用意をお願いします」

「お嬢さんはやっぱり花が好きなのか。すごいな、これは」

「好きは好きですが……なんと言いますか、全て贈り物なのですよ。たったふたりからの」


 ひとりは貴方のお父様ですよ、とは言わないまま苦笑いだけ返す。

 母、カルロッタとハルクレッドから贈られる花は、ついに私室から飛び出して、廊下や玄関にまで浸食していた。屋敷のどこを歩いても花、花、花。そんなにいらないよ……


 工房見学からわずか三日。ダルドが脇に抱えているのは二つの木箱と置いてきた画板だった。仕事が早い。


「ありがとう、ナーシャ。下がってくださって大丈夫ですよ」

「ですが……」

「ふふ、心配はいりません。ダルド様はハルクレッド先生の息子さんですから」


 声には出さなかったが、表情が内心を物語っていた。嘘でしょう!?という顔。わかる、わかります。驚くよね。あの好々爺の血を引いているとはにわかに信じがたい。


 応接室から出ていくナーシャの背中を見送って、ダルドに視線を戻す。ナーシャを好色な目で見ないあたりにも好感が持てた。あれで未亡人なんだぜ、そそるだろ。言わないけど。


「ではさっそく。まずはお支払いを」

「おっと、物は見なくてもいいのか?」

「ダルド様が作業しているところを実際に見学させて頂きましたから。品物の出来が悪いはずがございません」


 それに、ハルクレッドの紹介でもある。見学の結果、ダルドの腕を信用したというのもあるが、なによりもこれはハルクレッドへの信頼だ。

 ニシシと笑うダルドに、お嬢様スマイル投げ返す。


 私がテーブルに銅貨二枚三二〇ジルを置くと、ダルドも同時に二つの木箱の蓋をあけた。銅貨一枚で一六〇ジル。特注の木製匙ふたつ、しめて三二〇ジル也。


 鉄貨三枚三ジルで茶が一杯飲める。大鉄貨の欠けた半鉄貨二五ジルで、外でドリンク付きの昼食が食べられる。大鉄貨六〇ジルで、平民の靴やシャツ、ズボンが買える。

 銅貨一枚一六〇ジルもあればそれなりの高級料理が食べられるし、平民であれば一週間は困らない。


 その上に銀貨や金貨もあるのだが、平民がお目にかかることはそうないだろう。街での買い物は鉄貨から大鉄貨で事足りる。


大銅貨五〇〇ジルから銀貨一枚一二〇〇ジルであることを考えれば、特注の匙はそれなりに高価な品と言える。


「きれい……」

「なかなか良い出来だろ?」

「はい。期待以上です」


 こちらに押しやられた箱から匙を手に取ると、その滑らかな仕上がりがよくわかる。我がデザインながら可愛いのではないか。


「お嬢さんデザインだと、ここの部分が指に当たっちまうんでな。申し訳ないが、ちょこっとだけ弄らせてもらった」

「かまいませんよ。こちらのほうがずっと素敵です。ありがとうございます、ダルド様」


 匙を箱に戻して、銅貨をダルドに渡す。が、何故かススっと戻された。ので、もう一度ダルドに渡す。が、やはりススっと戻される。


「お嬢さん。今回のお題を頂かない代わりに、お願いがある」

「……はぁ」


 おっと、気の抜けた声が漏れた。


「お嬢さん、いいや、ジークレット様!頼む、絵を描いてくれ!」

「……はぁ」


「はぁ、ってオイ。いや、すまねぇ。実はな、お嬢さんから預かってたコレを使って、弟子に魔力像を作らせてみたんだよ」


 話は簡単だった。魔力像を脳内で上手く作れない弟子に、試しに私のデザインを元にしてやらせてみたのだそうだ。すると驚き、今まで出来なかったのが嘘のように、簡単に魔力像を作れてしまった、と。


 そもそも私も、デザイン画エスキースというものが存在しているのだと思っていた。そのくせ絵画のレベルがお粗末なのはなぜだろうと。

 頭のなかですべて完結しているなどと思うまい。


 弟子たちは初め、親方の作品を模倣するところから練習する。簡単なものから、少しずつ複雑なものへ。いずれは、親方の手を借りずに作品を作り、個人の客がついたら独り立ちする。


「俺たちも、まったくの無から作り出すわけじゃねぇ。たとえばトスカ・サリエラは白髪白髭のオッサンだが、なんとなくそのイメージに近いヤツをモデルにしたりする。でも、親方の見本なりお嬢さんの絵なり、こうして完成したもんが目に見えると格段にやりやすい」


 皿に描かれているトスカ・サリエラは、もしかしたら実在するオッサンの顔だったのかもしれない。尚更トスカ・サリエラの皿を使いたくなくなった。いずれ全部すげ替えてやろう。


「心んなかでイメージを固められないなら、お嬢さんの真似してまずは絵に描いてみようってな、やってみたらしいんだ。だがな……見てくれ」

「あぁ……これは……」


「ひどいだろ?」


 見慣れたアレだ。絵本の挿絵になっている、独特すぎる宗教画。下手くそな『快楽の園』。スプーンのようなものの中に、気持ち悪い人間の顔がある。


イ、インパクトの強いイラストだなァ……


「そこでだ。お代の代わりに、弟子たちに絵を描いてもらいてぇ、そういう話だ。弟子たちの考えたもんを上手く絵に出来たら、俺の模倣じゃない、ちゃんとしたアイツらの作品が作れる」

「なるほど」


 デザインの仕事だ。絵の仕事をする、死ぬまで誰にも言えなかった夢が叶うと言っていい。三年もかけて、いまだに画材の使い方を試行錯誤している身としては早すぎる気もするが、素直に嬉しい。


 だが、それとこれとは別だ。


 スプーンをもらう代わりに絵を描く。それは嫌だ。仕事なら仕事として、しっかりとその対価をもらいたい。商売神マリピエーロも言っている。技術には金を払え、と。


「お断りします」

「だぁ!よなぁ!……すまんな、都合が良すぎたわ」


「お仕事として、いくつかの提案を飲んでいただけるのであれば、考えます」


 お?という顔をしたダルドに、まずは銅貨を差し出す。

 この匙は、私の心を込めたプレゼントだ。絵を描く代わりにタダで済ませるのはいけない。物々交換が当たり前ならまだしも、この国は貨幣制度のある国なのだから。


「まず、先のお話と、この匙のお話は別です。これは私が使うものではなく、贈り物ですので」

「おう。わかった、受け取ろう」


デザイン画エスキースを描く件については、正式にお仕事の依頼とさせてください。私の仕事に見合った対価を頂きたいのです」


 悪人面がニヤっと笑った。十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人。よし、私はまだ十歳。神童で通る。通そう。


「ですが」

「ですが?」


「私はおそらく、ダルド様が思っていらっしゃるような令嬢ではございません。悪知恵ばかり働く、怠け者のわがまま娘です」


 ワッハッハッハッ、と今度は声をあげて笑った。あんまり大きな声は出さないでね、ナーシャが来ちゃうから。


 覚めてしまった紅茶で口を濡らして、本題に入る。


「ひとつ、仕事の相談や打ち合わせは我が家で。私はそちらへ足を運ぶことはしません。ひとつ、しごとの期日は流動的に。ながらくお待たせすることをご了承ください。ひとつ、描きたくないものは描きません。お断りするものもあるでしょう」


 以上のみっつをお願いできますか、と問うと、ダルドはまた笑ってすぐに頷いた。期日を守るなんてこと、私に出来るわけがないでしょ。



〇●〇●〇●〇



「ナーシャ、少しだけお時間を貰えますか」


 癖の強すぎる塗料を使いこなせるようなったら、いつかナーシャとレーナを書かせてもらおうと思っている。私がいま一番描きたいものは、ナーシャとレーナとタルクウィニア像だ。


 タルクウィニア像と同列に並べられているなどと知ったら、ナーシャは大いに恐縮しそうである。レーナは諸手をあげて喜ぶだろう。


 五月九日、日本で言う母の日のプレゼントといえばカーネーション。

 この国は、前世とは暦も違うし、母の日にあたる日もない、それでも、これは私なりの気持ちだ。


 親から子への贈り物として代表的なものは皿だ、生まれたときは銀製のものを、毎年の誕生日には木製のものを。『飢えに苦しむことがありませんように』という願いが込められている。如何に飢饉を恐れているのかが良くわかる風習だと思う。

 使用したことはないが、私も両親からもらった銀製の皿をを持っている。


 そして、子から親への贈り物は匙。成人を迎えたときに、銀製のものを贈る人が多い。こちらには『あなたのお陰で、ここまで育ちました』というメッセージを込める。


 だから私も匙にした。

 まぁ、成人まではあと数年あるのだが。そのときはそのとき、今度こそ銀製の立派なものを用意しよう。


「ナーシャ、これを」

「はい、えっと、ありがとうございます?」

「いつもありがとう、大好きです。その気持ちです」


 木箱を開けたナーシャの目が大きく見開かれ、じわじわと涙の膜が張った。やーい、泣いたな!ふふ、どうだ、嬉しかろう!

 忘れることなかれ、クズは見栄っ張りで格好つけなのだ。昔から私は、サプライズが大好きなのだ。


「ジークレットさま……」

「はい、ナーシャ。抱きしめてくださいませ」


 言い終わる前にぎゅうと抱きしめられた。


 匙のデザインはガファーニユの花とジークレットの花。自分の名前を入れるのは自己愛が強すぎると、今更ながらに思う。作ってしまったから、もう遅いけど。

 ガファーニユはそのままカーネーションだ。似ているだけかもしれないが、たぶんカーネーション。花言葉もそのまま『母への愛』。


 トスカ・サリエラ要素は申し訳程度に入れられたツタだけ。オッサンの出番はない、一升来ない。


「私がデザインしたのですよ。喜んでもらえましたか?」

「とても……とても嬉しいです」


 レーナに貰えなかったものをジークレット様から頂けるなんて、と続けられた言葉に思わず笑ったのは内緒だ。

 ナーシャの期待しているタルクウィニアの落とし子だとは、いまでも思えない。なれるとも思わない。それでも私は、どうにかして前世とは違う人生を歩みたいと思うのだ。その先にどうか、ナーシャを喜ばせるものがあればいいと、ただ漠然と願う。



 怠惰なクズであっても、悪人にはならない。愛には愛を。

 そうは言っても、首都まで出向くのは面倒なので、カルロッタにはガファーニユの花束とともに送り付けた。


 この生で初めてもらったプレゼントは、カルロッタの子守歌だ。おお、ハーシェル。

 ちなみに、ハーシェルというのはサゼロ領の目の前に座す大霊峰の名前だった。


 実の母へは、ガファーニユの花とネームの花のデザインを。ネーム、別名カルロッタ。会ったときに好きだと話したので、おそらく伝わるだろう。

 ナーシャに贈ったものと同じデザインにするわけがない。無粋すぎる。違う女に同じ贈り物、ダメ、ゼッタイ。


 関係の改善をはかってくれる実の母、カルロッタへ。私の最大限の気持ちだ。



 送り付けたちっぽけな匙は、何十倍もの花束になって返ってきた。そんなにいらないよ、なんて言いながら、私はたしかに嬉しかったのだ。家中を覆い尽くした花束は、これから何年たっても、心温まる笑い話になるだろう。


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