母とは


 ジークレットか、久しいな。


 そう言った。私の耳がこの年で老化を始めていたとしても、間違いなくそう言った。敬称もないし、再会を匂わせる言葉でもあった。

 あ、と気づいたときには、自然と手が洗礼服の裾をつまんでいた。


「お父様、お母様、ご無沙汰しております。ジークレットでございます……お会いできて嬉しく思います」


 あってるよね!?と思って伏せた目をあげると、仮定父親が満足げに頷いていた。

 私に兄や姉はいないし、親戚その他にも会ったことがない。親族に会うなんてインパクトの大きいイベント、忘れるはずもない。だから、消去法でいってこのふたりは両親。

 咄嗟の推論は、どうやら無事に正解を踏んだらしい。


 父親のグレーの目を見つめて言葉を待つ。神経質そうな人だ。

 挨拶は位の低い者から。話題の提供は位の高い者から。


「そう硬くならなくともいい。久しぶりに顔を合わせたのだ。別荘で話でもしよう」

「はい、お父様」


 貴方にとっての別荘は、私の育った城ですけどね……


 父の後ろに控えた母も、ナーシャも、レーナも、誰も言葉を発しない。

 どの位置を歩いたらいいのかも分からず、とりあえず母の横を確保する。神経が細そうで鋭い目をした青年より、どこかふわっとした優しそうなお姉さんのほうが良いに決まっている。

 こちらを見ずに、ただ歩き続ける父。隣に並んだ時から、そわそわと動く母の手。どうやら私の外見は父親似であったらしい。


 しかし、若い。ふたりとも、とても若い。私の享年よりも、おそらく若い。これで四人の子どもがいるというのだから驚きである。


 この国の成人年齢は十四歳。貴族は成人を迎えると共に結婚する者も多く、十六や十七までに子どもを産むのが一般的だ。平民でさえ、二十歳を過ぎれば行き遅れなんて陰口をたたかれる。

 それを踏まえて考えると、このふたりはまだ二十一から二十三歳程度と言える。見た目が若いのも納得な話だ。


 屋敷に着くと、ナーシャがすっと扉を開けた。室内に入るときは、身分の低い者から。

 屋敷に入り、再び服の裾を持ち上げる。人を招きいれたときは、その家に“住まう”最も身分の高い者が代表となる。


 だから、ここで言えば代表は私。


 この屋敷はヴァイオ家の別荘であり、その所持者は父親であるコルシーニ・デ・ヴァイオの名義となる。しかし、別荘であって、ここに在住しているわけではない。

 私がいなければ、この代表の挨拶は別荘の管理を任されている筆頭使用人が行うのだ。


「ようこそお越しくださいました、お父様、お母様。すぐに軽食を用意させますので、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」

「うん。よく教育されている。悪くない」


 やってて良かった、礼儀作法の授業!ありがとうナーシャ!ありがとうハルクレッド先生!


 食堂に案内し、着替えると言って自室に逃げ帰った。


「れ、レーナ、ちゃんと出来ていましたか!?どこもおかしくなかった!?」

「ジータ様は完ぺきでした!最高!」

「良かったぁ!ハグしてください、ハグ!」


 両手を広げて、レーナの腰をぎゅっと強く抱く。洗礼式だけでも疲労度マックスイベントなのに、その直後にこんなサプライズいらない。緊張したし、この緊張がこの後も続くのだと思うと最悪な気分だ。


 レーナの肩に顔を埋めて、思いきり匂いをかぐ。レーナの日向ぼっこをしたあとの猫みたいな匂いが、私は好きなのだ。


 日本とは違い、この国は人と人の距離が近い。親しい人とのハグは当たり前だし、チークキスもする。幼少期からナーシャやレーナとぎゅうぎゅう抱き合っていたら、流石の元日本人もハグくらい当たり前になっていた。

 レーナに引っ付いたまま、もごもごと喋る。身長伸びたな、レーナ。そうするのが自然であるかのように、私の頭を撫でた。頭皮にあたる爪すら心地よい。好き……食堂に行きたくない……


「レーナ……ドレスは派手なほうがいいのでしょうか。それとも質素なほう……?」

「うーん……うん、こういうときはママに聞きましょう!」


 と、ナイスタイミングでノックの音が響いた。ナーシャです、お着替えをお持ちしました、である。最高、ナーシャ大好き。


 ナーシャの手で広げられたそれは、シンプルながらも少し大人なデザインのドレスだった。洗礼を迎えたから、大人っぽくても良いでしょう、とのこと。

 するすると着せ替えられながら、ナーシャが小さな声で囁く。


「久方ぶりにご両親とお会いされたのです。もう少し肩の力を抜いても良いのですよ」

「久方ぶりですか……ナーシャ、生まれたときに顔を見ただけの相手は、もはや久しぶりとは申しません。はじめまして、ですよ」


 私は生まれてすぐにセルモンドへ移されたことを知っている。セルモンドに来てから、一度として両親が顔を見せに来なかったことを知っている。手紙一つ寄こさなかったこと知っている。

 その意味について、それが“普通の”子どもに与える影響について、ナーシャが理解していることも知っている。実家からの扱いを知った私がどう思うのか、それを心配していることも知っている。


 ジークレット様……と、悲しそうな声を出したナーシャに微笑んで見せた。ナーシャは私が寂しい幼少期を送ったと勘違いしているようだから、教えてあげる。

 彼らは確かに私の両親で、私の血肉は彼らの遺伝子を継いでいるのだろう。でも、第二の人生の母は、ナーシャただひとりだ。


 ナーシャは否定するだろう。私はただの乳母です、使用人のひとりです、なんて言って。

 馬鹿なひと。ただの使用人が、雇い主の生意気なガキのために、準爵位を授かる努力をしたりするもんか。


「両親には感謝しています。でも、私が家族として愛しているのは、ナーシャとレーナだけですよ」

「ジークレット様、それは……」


「否定しないでください、ナーシャ。赤ん坊だった私の身体を作ったのは、ナーシャの母乳です。赤ん坊だった私の心を守ったのは、ナーシャの背中トントンです。寂しさという檻から知らずのうちに私を救いだしたのは、レーナが引いてくれた手です」


 目を潤ませたナーシャが、ぐっと強く唇を噛んだ。いつも穏やかなナーシャの、初めて見る顔だった。

 この表情を見て、初めて思い至った。ナーシャは、両親の訪問を事前に知っていたのだろう。なのに、私に伝えなかった。


『私はただの使用人のひとりです』


 これは、私に言い聞かせる言葉じゃなかった。

 本当に残念で仕方ない。ナーシャの年齢も、おそらく両親と同程度。私はまだ七歳。口説くには少し、歳が離れすぎている。こんなに可愛くて良い女なのに。

 いや、一回りくらいだったらいけるかな?成人は十四歳だし。


 バカなことを考えてしまった。それが恥ずかしくて、誤魔化すようにちょっとだけ笑う。すぐにヘラヘラ笑うところは、生まれ変わっても健在であった。


「ナーシャが自分のことをただの乳母だと、ただの使用人だと一歩引いても、私はナーシャのことを“第二”の母だと慕っていますし、愛しているのはナーシャとレーナだけです。これは私の心で、私のもの。だから、否定しないで」


 第一の母が私の魂を生んだ前世の母であるならば、第二の母はナーシャしかいない。ナーシャが想像する第一の母は別人だろうが、これくらいのブラフは許されるだろう。


 愛しているとか、大好きとか、この国の人々は簡単に口にする。日本ではなかなか見られない光景だった。前世の記憶があれど、この国で生まれてこの国で育ったのも私だ。だから、それに順応するのも仕方ない。仕方ない。


 もしもナーシャが本当の母親であれば、気恥ずかしくてありがとうも愛しているも口に出来なかったかもしれない。だから、血が繋がっていないことは、私にとっては良いことである。


「私も……ジークレット様を愛しています。レーナと同じように」


 レーナと同じように。それはきっと、最上級の愛しているだ。


 美人に愛をささやかれるのは気分がいいな。

 やっぱりバカなことを考えながら、ふたりの頬にキスをして、行ってまいりますを返事にした。



〇●〇●



 父親、コルシーニ・デ・ヴァイオの目は、ジークレットという娘に興味のない目だった。可愛くも思っていなければ、憎くも思っていない。強いていうなれば、少し面倒くさそうな表情。良くも悪くも、この男は私に興味がない。


 それは見方によっては、私が両親に向けるものと似通っているだろう。

 愛しくも思っていなければ、憎くも思っていない。慣れない目上の人間を前にして緊張するばかり。良くも悪くも、私はこの大人たちに興味がない。


 それに比べて、問題は母親。カルロッタ・デ・ヴァイオの視線である。先ほどから顔面に穴があきそうなのだ。


「ジータ、息災でしたか」

「はい、お母様。おかげさまで不自由なく生活しております」

「……そうですか」


 そうです、そうなんですけど……


 膝の上で握りしめられた手、薄く涙の膜が張った目、もの言いたげに動く唇。これが演技であったら、とんでもない女優である。貴族怖い。


 カルロッタ・デ・ヴァイオはサゼロ侯爵家からきた嫁であり、元はヴァイオ家よりも身分の高い女だった。大きな商会を傘下に入れたことで、子爵でありながら地位を引き上げたヴァイオ子爵家と、旧ドウルフ王国時代から続く歴史あるサゼロ侯爵家。


 セルモンド領から二か月かかるというサゼロ領は、この国の最北端。唯一、雪が降る地。そこで生まれ、はるばる嫁いできた女。橋渡しとなり、両家の縁を繋ぐ、旧姓カルロッタ・ジ・サゼロ。


 魔力を持たない長女と、跡継ぎになる優秀な長男、双子の二女と三女。四人の母親。


 私が知る母の情報は、たったこれだけ。


「……ジータ」

「はい、お母様」


 その初めましてなお母様が、先ほどからずっと泣きそうな顔でこちらを見ている。なんと声をかけるべきか、まったくわからない。

 貴族らしく、戸惑いは隠してにこやかにすべき?それとも、子どもらしく心配そうにするべき?

 三十年前、七歳だった私ならどうしていただろう。わからん、まったくわからん。そんな昔のことを覚えているはずがない。というよりも、あの頃の情緒を思い出せというほうが無理がある。


「カルロッタ、好きにしなさい」

「はい……ジータ」

「はい、お母様」


 ハイ、オカアサマ。同じ言葉を繰り返す人形にでもなった気分だ。


 するりと椅子を降りたカルロッタが、私の前に膝をつく。まるで、昨日のナーシャの再現だった。


「ジータ……抱きしめても、良いですか」


 あぁ、と胸中で頷いた。

 子どもを生んだこともなければ、育てたこともない。私には母親の情緒を正しく理解することなんてできない。理解することも出来なければ、上手に共感してあげることも出来ない。出来ることは、想像することだけ。

 どうぞ、と無愛想に手を広げるのは、あまりにも空気が読めないだろう。ならば正解は?


 私は怠惰なクズ野郎。私は口八丁な八方美人。振りまく優しさはすべて保身。

 愛情を向けようとする母を知ってなお、同じものを返せない。薄情な私は、薄情な心から逃げるために、また嘘をつく。


「おかあさま」


 椅子から降りて、自分から母の首に腕をまわした。


 身を寄せると、苦しくなるほど強い抱擁が返ってきた。まるで縋るように、このまま絞め殺そうとするように、イダ、イダダダダダダ!


「ジータ……っ、私の可愛いジータ……」


 お母様、ちょっと苦しいです!と言えないまま、ギリギリと内臓が締め上げられる。大蛇に絞殺されるときってこんな気持ちなのかなッ!


 潰されたカエルような声を出さないように耐えていると、カルロッタの涙声が聞こえてきた。


「あいたかった……出来ることなら、私が育ててあげたかった。そばにいてあげたかった……ごめんなさい、ジータ……寂しい思いをさせました」


 ジータ、ジータ、可愛いジータ。

 はい、そうですよ、あなたのジータですよ……


 ヴァイオ家にとって、ジークレット・デ・ヴァイオという娘は変わらず予備でしかない。会ったこともない弟や妹が、運悪く急逝でもしないかぎり変わらない。


 七年かけて学んだこの世界の常識に当てはめて考えれば、それはいたって仕方のないことであり、貴族としては真っ当なことであった。魔力なしが差別を受けやすい首都に置くより、セルモンドに逃がしたのは優しさだと言っても良い。

 私は彼らを恨まない。


 しかし、いかに貴族として真っ当であっても、人間の情というものまでは変えられない。自分で産みつけたタマゴを食べてしまうメダカとは違うのだ。

 実の子を食べたトスカ・サリエラの逸話が狂気という名で残されるくらい、この世界の人間もまた理性的であり愛情をもつ生き物。


 腹を痛めた母は子を愛し、子は母の庇護を求める。


 たとえ、魔力のない子どもをスペアに回さなければならないとしても、カルロッタはジークレットを愛した。

 ジークレットは……私は、カルロッタの代わりに、そばにいてくれたナーシャを愛した。


 だって、カルロッタは会いに来てくれなかったから。手紙ひとつくれなかったから。だから、仕方ない。これは、仕方ないことなのだ。


「ジータ、信じてくれなくてもいい。私は、母はあなたを愛しています」


 どうやっても、七年という歳月は取り戻せない。

 別の人間を母として愛した七年は、どうあっても取り戻せはしない。


「はい、お母さま」


 私は、カルロッタ・デ・ヴァイオに愛を告げることが出来なかった。

 おお、ハーシェル。


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