自由の代償


 この国には家名を持つ者と持たない者がいる。家名というものは国王陛下に“認められた”一族が授けられるものであり、手前勝手に名乗って良いものではない。

 家名のある家に生まれた者は、親と同じ名を名乗ることを許される代わりに、王が認めた親の功績に準ずる働きをせねばならない。


 コルシーニ・デ・ヴァイオはヴァイオという家名を名乗ることを許された貴族だ。そして、ジークレット・デ・ヴァイオはヴァイオ一族の生まれとして、その家名を名乗ることを許されている。


 平民たちのあいだでは、家名がある者と言えば貴族、という印象だが、これは貴族のみに認められたものではない。名乗ってよろしいと認められれば、たとえ平民であろうと、元スラムの出身であろうと、家名を授けられる。


 たとえば、税で大いに貢献する商家。たとえば、戦争で活躍した英雄。たとえば、名のある職人。

 デルフィナの一族が良い例だろう。デルフィナの父が木彫師として家名を授かっていた。故に、娘であるデルフィナ、入り婿のハルクレッド、連れ子のダルドは『ソルマト』の家名を名乗る。


 もしかして、と思うことは何度かあったが、ダルドはデルフィナの実子ではなかった。すっかり思い込んでいたが、それもこれも、あのふたりが似すぎていることが原因だろう。本人たちがそれを面白がっていることが、なによりもタチが悪い。

 初めて会ったときに若そうだとは思ったが、デルフィナは実際に若いのだ。なんと、ナーシャと同い年である。


 閑話休題。ハルクレッドは除くが、家名を頂いたソルマト家は彫刻師としての功績を一族で引き継いでいる、ということになる。



 では、私の名に入っているような『デ』や、セルモンド家における『ガラ』、カルロッタの実家であるサゼロ家の『ジ』、これらは何を意味するのか。


 これは、家名ではない。爵位を示すものだ。


 『デ』というのは子爵を意味する号で、敬称としても用いられる。デ・ヴァイオといえばヴァイオ子爵、コルシーニを意味する。

 私やカルロッタ、弟たちも、子爵家の一員として『デ』を名乗るが、デ・ヴァイオと呼ばれることはない。

 いずれ何かしらの事情で子爵を継ぐ可能性、その権利を有するものとして、私たちはデ・ヴァイオを名乗るのだ。たとえその可能性が、どんなに小さなものだとしても。


 ラン・ドウルフは王族。ランに家名を続ければ、王族の血を引く公爵家。ジは侯爵、ガラは伯爵、デは子爵、ルーは男爵、と言った具合だ。


 ヴァイオ家の使用人となるまで男爵家に籍を置いていたナーシャは、それまでルーの号を名乗っていたことになる。ナーシャは準爵位を持つが、これは一代爵位であるため号が存在しない。残っているのは、亡くなった夫と同じ家名のみだ。



「それで……?お前はひとりの職人になる、と?」


 なぜ長々とファミリーネームや号について語ったと言えば、話は簡単。私が『デ』の号を捨てようというだけのことである。捨てる、は不敬にあたるので言い換えよう。子爵号を返上しようというだけのことである。


 お父様の商会の手は借りません。ヴァイオ家の支援もいりません。だからこれを機に、陛下に号をお返しするつもりです。そう言ったら、盛大にため息をつかれ、そして睨まれた。


「屋敷を用意して頂き、さらには十四年間好きにさせて頂きました。お父様にはとても感謝しております」

「ひとりで生きていけるというのか」

「そうするほかに、術はありません」


 ひとりで生きていけるのかと問われたら、おそらく私には無理だ。ひとの手を借りなければ、まともな食事ひとつ作れない。

 でも、子爵家の一員として身を置き続けたら、コルシーニの商会が支援商会スポンサーになることは間違いない。そうすれば、いずれ私の絵は“仕事”になってしまう。“やらなければならないこと”になってしまう。それは無理だ。できないのだ、私には。


 たとえばコルシーニが、私の性格や特性を理解して、上手に使ってくれる人間だったら、何の問題もなかったと思う。私は喜んでジークレット・デ・ヴァイオで居続けた。

 しかし、コルシーニはきっと理解してくれない。この人はきっと、とても真面目な人だから。私がそうありたいと願っても、私は父の仕事道具にはなれない。



 私には魔力がない。貴族の務めである舞踏会すら、一度も顔を出したことがない。顔を繋いだ貴族はみな、私の絵を買ってくれた人々だ。

 どうあっても子爵家を継ぐことのない私に、『デ』の号を名乗る資格はない。

 私がヴァイオ家を継ぐということは、大虐殺劇でも起きない限りありえないのだ。何かしらの理由で弟たちが死んだとしても、私は魔力のある男を婿にもらうだけ。そうなれば、ヴァイオの当主はその婿になる。

 私が子爵を継ぐ。それは、弟たちだけでなく、未婚の魔力を持つ者すべてが死んだときだけだ。そんな歴史的大虐殺劇、想像したくもないけれど。


 道楽で絵を描き続け、金を生むことがないのであれば、号はヒモとして必要だった。しかし、私の絵は金を生む。でも、私は描きたいものしか描けず、強要されたものは描くことができない。コルシーニはそんな私に苛つき、失望するだろう。そうして、もっと縛り付ける。私は逃げ出して前世の二の舞。


 そんな未来が見えるから。だから、いらない。貴族という身分は、もういらない。


「それで?お前は私になにを求める。子爵号を返上したいだけはないのだろう?」


 深く息を吸う。


 夕飯を終えてから、この話を持ち出した。先ほどからカルロッタの顔が真っ青だし、コルシーニの顔が超怖い。やめたい、おうちかえりたい……ナーシャと手を繋いで、レーナに頭撫でてもらいたい……


 もともとこの話は今日中にするつもりだった。それが、ベストな食後のタイミングでコルシーニからスポンサー契約を切り出してきた。「お前の絵を紹介経由で売り出してやろう。注文もとってやる」と。

 これ幸いとお断りしたのだ。


「ふたつほど、お願いが……まず、子爵家の号はお返ししますが、そのあともヴァイオの名を名乗らせてください。私はお母様と他人になりたくないのです」

「ジータ……」


 カルロッタの肖像画はすでに完成している。帰る間際に渡すつもりだ。タイトルは『雪降り唄』。あの子守歌の題をそのままもらった。私のカルロッタへの想いは、やはりあの子守歌にすべて詰まっている。


 著名は、ジークレット・ヴァイオ。


「もうひとつは?」

「私にこの屋敷を買い取らせてください」


 コルシーニが一瞬般若のような顔をしたかと思えば、そのまま片手で顔を覆った。その隙間から特大のため息が聞こえる。


 たとえ断られても、実はもう手を回してある。屋敷の所有者はコルシーニだが、土地はセルモンド領が管理するもの。

 前世のように一国民が土地を所有することは、この国では認められていない。土地はあくまで国の所有物で、各領主に管理を任せているにすぎない。

 そして、その管理者が立ち退きなどの強権を発動すれば、屋敷の所有者は逆らうことができないのだ。もちろん法律でタダでとは言えないことが明記されている。

 立ち退きを命じる明確な理由と、それに対する補償は必須だ。


 私はセルモンド領主、アーレストに話を通してある。もし、父コルシーニに断られた場合、どうか力になってほしい、と。その対価はエルネスタ嬢の肖像画だ。エルネスタ嬢と会いたくないから、コルシーニには是非とも穏便に譲ってもらいたい。

 アーレストに力を借りることを提案したのはナーシャだった。コネというのはこういうときに使うものですよ、と笑った顔は、たしかに元貴族のそれであった。


「お前は……お前もそうなのか……」


 はい?

 コルシーニの震えた声に、思わず肩がビクンと跳ねた。鳩尾のやや下あたりに力を入れて、喉の奥をぎゅっと占めて待機する。こういう声を出した人間は、ぜったいに怒鳴る……!


「どうして……ッ!その力が俺にないッ!」


 ほらきた……!


「お前は俺の娘だろうッ!その力を生かしてやろうと思ってわざわざここまで来たんだ!娘なら!ヴァイオの力になるのが道理だッ!お前の力はヴァイオの力だろうッ!家から出るなんて許さないッ!」


 キレている内容が意味わからない。頭の冷静な部分では、なに勝手なこと言っているのだこの男は、と呆れているが、それ以上に心がパニックだ。どんなに腹に力を入れて事前に備えていたしても、やっぱり怒鳴り声が怖い。

 やだ、こわい、どうしよう、どうしよう。心を占める言葉が、それで埋め尽くされそうになる。


 意識して息を吐いて、吐いて、吐いて、吸って、吐いて……へへっと笑いそうな頬を引き締める。まず、コルシーニから目はなす。コルシーニの言葉を思い出して、解体して、考える。

 その力が俺にない、というのは、なんだろう。画力のことではないだろう。濁ってしまったコルシーニの目から、何かしらの苦悩を抱えていることは分かっていた。


 でも……そんなこと……


「そんなこと、知りません……」

「なに?」


 あぁ。やってしまった……口から出してはいけないというのに、勝手に漏れた。


「私には何の力もありません。魔力もなければ、人を先導する能力もありません。私にあるのは、ただ絵を描いていたいという我がままな心と、それを許してくれた人たちだけ。私が産んだ絵画も、私を許してくれる人の心も、それは私やその人たちのものです。ヴァイオのものでは、ましてやお父様のものではありません」


 昔からそうだった。ヘラヘラしないように、と思うと、今度は勝手に口が回り出す。言い訳だったり、理詰めの反論だったり、内容は様々だが、怒っている相手をさらに怒らせるのが得意なのだ。


 わかっているのに口がとめられない!


「お父様は私に何を下さいましたか?屋敷ですか?乳母や使用人ですか?お金ですか?」


 コルシーニが下唇を噛んだ。こちらを睨む、グレーの目。私と同じ色。


「屋敷を与えたのは、魔力のない娘なんか疎ましかったから。乳母と使用人は、赤ん坊を殺してしまうわけにいかないから。お金は愛情なんかじゃない。私の絵を描く力は私のもので、その環境を作ってくれたのはナーシャたち使用人の心です。なにもしてくれないヴァイオの力になる道理なんてありません」


 あぁ、なにを言っているんだろう。先ほどまで私を睨みつけていたコルシーニだけではない。カルロッタも、ナーシャも、レーナでさえも、驚いて口を開けている。

 怒鳴り散らしたコルシーニの言葉だってわけが分からなかったけれど、私の言葉だって支離滅裂じゃないか。感情に任せて言葉を垂れ流したって、どうせあとで恥ずかしくなるだけなのに。

 勝手に回る口から出る言葉に、勝手に心が感化して、なんでだろう。どうして気持ちが昂ると、ひとは泣くのだろう。


「私はヴァイオのためになんか、お父様のためになんか描かない……私を捨てたくせに……ずっとずっと、会いにだって来てくれなかったくせに!私はお父様なんか大嫌いです!」


 論点がずれているのはよく分かっているけれど、でも、言葉も心ももう止められなかった。


 言葉にして初めて知った。

 そうだ。ずっとずっと前、まだ私がジークレットではなく、“私”でしかなかったとき。思ったじゃないか。

 当たり前のように五歳を、七歳を、十歳を謳歌して、ついに成人まで迎えてすっかり忘れていた。


 頭の中に享年三十路が住んでいても、心は身体に引っ張られるって。思ったじゃないか。


 ことあるごとに、カルロッタの胎で聞いた子守歌を口ずさんだじゃないか。前世で好きだった歌でもなく、新しく知った歌でもなく、私はずっと『雪降り唄』を歌っていた。おお、ハーシェル。


雪降りしきるその夜に

きっと迎えがくるでしょう


 カルロッタの花束だって、私、本当は嬉しかった。

 そうだ、ずっとずっと、私は。


「寂しかったのに……」


 今更だった。


 私が金を生む金のタマゴだって知ったからヴァイオの力になれ、なんて。コルシーニがしてくれたのは、お金を出してくれたことだけ。十四年ぶんの養育費を返せと言うなら、利子を乗せて返済してやる。いや、まぁ、借金は二度とごめんだけれど。

 七年前のあの日から変わらない。コルシーニの言葉は嬉しくなかった。この人は抱きしめても、頭を撫でてもくれなかった。今日だって、そう。


 成人おめでとうって、ただ一言すら、貴方はくれない。


 私は、ジークレットを。ジークレットはジークレットを愛してほしかったのだ。頭の中に住む享年三十路じゃなくて、ただあるがままの私を。


「ジータっ!」


 がたっと椅子の音を立てたカルロッタが走り寄ってくると、そのままぎゅうと抱きしめられた。苦しい。

 苦しいけれど、骨が折れそうなんて文句を垂れたけれど、ジークレットはそれだって嬉しかった。


 レーナがナーシャに甘えていたとき、レーナにナーシャを譲ったとき、心のウズウズがしつこかったのは寂しかったからだ。

 ただの赤ん坊の癇癪だって誤魔化していた。そうじゃない、そうじゃなかった。私だって、心の救援信号を出していた。エスオーエスだった。


「本当はずっと寂しかった。私、お母様に抱っこしてもらいたかった。泣いているときは、お母様に背中をトントンしてほしかった……」

「ごめんね、ごめんなさいジータ……貴女は強い子だって思い込んでいた。貴女も、私がいなくても大丈夫な子だって……あのとき無理にでもジータのそばにいるべきだったのに……ごめんなさい……」


 カルロッタの、母の背中に手を回して、強く、強く、今までで一番強く抱きしめた。愛してるわ、ジータ。って、その言葉が、私はただ嬉しかった。


 随分と長く泣いていた気がする。私とカルロッタの感動の抱擁を遮ったのは、コルシーニの特大ため息だった。

 あぁ、そうだ。私のせいで論点が脱線事故を起こした挙句、母子でぴーぴー泣く事態になってしまったのだ。そんな話をしているのではなかった。


「……白金貨二枚だ」


 コルシーニの目は相変わらず私を鋭く睨みつけ、そこに親子の情など微塵も感じられない。今にも舌打ちが飛んできそうな口元、机が振動する貧乏ゆすり。


 白金貨二枚か。高い。金貨が二桁枚数以上になると、大半の人が“何万ジル”と言わなくなる。白金貨二枚って何万ジル?二百万?え、二百万ジルって何万ジル?

 高いことは高いが、払えてしまうことにも驚いてしまう。そうか、『我が子を食らうトスカ・サリエラ』と『毒芋を食らうトスカ・サリエラ』はセットで、この家と同等の価値があるらしい。


「大丈夫です」

「使用人はすべて引き上げる。家具は選別だ。絵画はうちの商会にも卸せ。以上」

「はい」


 はい。


 はい???


 やばい……忘れていた……

 そうだ、使用人……!彼らはみなヴァイオ家の雇用だ。そして、使用人雇用というのは、ランドウルフでは貴族雇用ともいわれ、いわゆる終身だ。嫁入りや婿入りと同じなのだ。

 一生を縛られる代わりに、その身の面倒は雇った家が生涯補償する。双方どちらも、勝手な都合で雇用を打ち切ることはできない。


 だから、当主を継がない子女子息の道に、嫁入り婿入り、準爵位、使用人と並ぶ。

 便宜上使用人としているが、この国の言葉で彼らを表す言葉は、第二の家族とも訳せる。


 ということは。


 顔をあげた。コルシーニの顔を見て、カルロッタの顔を見て、その後ろを見る。




 ナーシャは優しく頷いた。

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