この世界はいかに4
「ジータ様!おはようございます!」
翌日、さっそく魔王が突撃してきた。だが私はまだ眠い。ぼんやりと覚醒したら、そのままもう一度眠りに落ちなければならない。二度寝は必ず三時間。
前世、怠惰な大学四年間で身に着けた悪癖のひとつである。
「レーナ。ジークレット様はまだお休みなさっていますから、少し静かになさい」
「だってぇ……」
「あなたも来年になったら働きに出るのだから……」
はぁ、とナーシャのため息が聞こえたが、私の意識は宙を漂っていた。この、起きているのか寝ているのか、微妙な位置を彷徨うのが気持ち良いのだ。これが当たり前に許される二歳児、最高。
さらりと流してしまったが、まあ、とんでもない言葉が聞こえた。“あなたも来年なったら働きにでるのだから”?
はい、タンマ。ちょっと待って。
レーナはまだ六歳である。前世で言えば小学一年生。ひらがなで教科書に名前を書く年齢だ。来年で七歳。前世で言えば小学二年生。九九を暗記する年齢だ。いんいちがいち、いんにがに……
なに、え、七歳になったら就職しなきゃいけないの?あまりにも無茶すぎる。無理が激しい。
それともこの国は、七歳になった途端、急に大人になる超常現象でも起きるのか。無理、どちらにしろ無理。
たしかに、日本でも子どもが奉公に出るような時代があった。私は今世でそれをしなければならないのか?無理、死ぬ。いや、でも待ってほしい。江戸時代の丁稚奉公だって十歳程度だったはず。七歳なんて、そんな……
考えただけで頭が痛くなったので、やたらと重たい掛布団を頭からかぶって現実から逃げた。大丈夫、私はまだ二歳。七歳になるまで、まだ五年もある。そのときになったら考えよう。
頭のなかに、そっと優しい子守歌が忍び込む。オオ、ハーシェル。
おやすみなさい。
〇●〇●
「ジータ様、いつまで寝てるのー?もうお昼になるよ?」
「レーナ、やり直し」
「ジークレット様、いつまで寝てイラッシャルのでスカ?もうお昼でゴザイマスヨ」
いつのまに眠りに落ちたのか、ナーシャとレーナの気の抜けるやりとりで覚醒した。気持ち良く寝た。
布団のなかでクスクス笑う。
「おはようございます、れーな。きてくれてありがと」
「ジータ様、おはよ!何して遊びますか?積み木?読み聞かせ?レーナもちょっとなら読めるようになりましたよ!」
その前にご飯を食べてもいいですか、お腹空いた。レーナに腕を引っ張って起こしてもらうと、すでに昼食らしきものが用意されていた。朝食というべきか、昼食というべきか。ブランチでいいか。
麦を動物の乳で煮込んだポリッジ、いわゆるオートミールと呼ばれる粥である。これと、柔らかく茹でられた野菜。美味しいか美味しくないかと問われたら、美味しくはない。やたらと薄味だし、出汁が恋しくなるほど旨味がない。ただ、食べられないほどでもない。
配膳してくれたナーシャが、スプーンで掬ったポリッジを黙々と口に運んでくれる。うーん、甘い。砂糖の甘さというよりも、この動物の乳の甘さ。どことなく獣臭いのだが、それ以上に甘いのだ。なんの動物だろう。
私が食べている様子を、レーナがニコニコしながら眺めていた。食べさせているナーシャもニコニコしている。楽しそうでなによりです。
気持ちはわかる。
小さい生き物が何かを食べている姿は可愛いのだ。猫とか、ウサギとか、ハムスターとか。つい眺めてしまう気持ちはわかる。わかるのだが、あまりにもまじまじと見つめられると食べづらい。
まあいいか、と口をあけると、ナーシャがうふふと笑った。可愛いお姉さんだなぁ。
「美味しいですか?」
「うん」
「ジークレット様は可愛いですね」
悪い気はしない。もっと褒めてほしい。生きているだけで褒められるのなんて、子どものあいだだけだ。大人であれば当たり前にできることでも、子どもがやるとまるで天才だと褒めてもらえる。天性の怠惰がバレる前に、とことん甘やかしてほしい。
「ねぇ、ママ。こんどの建国祭、ジータ様といっしょに行ったらダメ?」
「うーん……コルシーニ様の許可がおりたらね」
まって、まって、はいストップ。
七歳就職事件に始まり、突然の情報過多。いくら頭のなかに私が住み着いているとは言え、この脳みそは未完成なのだ。急に情報で殴ってくるのやめて。
「けんこくさい……」
「はい、ランドウルフ王国が建立した日を記念して、毎年行われるお祭りです。このセルモンドでも盛大にとり行われますよ。ジークレット様も興味がおありですか?」
「らんど……う……るふ」
はい、待った。さっきのコルシーニもまだ解決していないからね。新しい単語ダメ。
建国祭、これはいい。わかる。お祭りね、オッケー。
で、次よ、次。まず、コルシーニ。誰だお前。
コルシーニとやらは父親の名前か、それとも家名か。私の名前はジークレット。散々呼ばれているのだから間違いない。問題はコルシーニが父親のファーストネームなのか、それともファミリーネームなのか。なんとなく、響きがファーストネームのような気もする。
もう少し日本に近い文化や言葉であれば判断しやすかったのだが、いかんせん横文字にされると途端にわからなくなる。
コルシーニはいったん保留。仮定、父親のファーストネーム。
そして、次。ランドウルフ王国。馴染みのある英語であれば陸狼だが、こちらの言葉で日本語に直訳すれば“空の橋”。ラン・ドウルフ。
国の名前さえ分かれば時代も把握できるかもしれないと思ったが、残念ながら知らない国名だった。どこだよ、ランドウルフ。
次。セルモンド。おそらく、私が住む地域、または街の名前といったところだろう。ランドウルフ王国のセルモンド、かな。だから何処だよ、ランドウルフ……
本日得た情報まとめ。ここはランドウルフ王国セルモンドで、近日建国祭が行われる。七歳になったら働きに出るという恐怖の文化があり、ナーシャの雇い主、または上司の名はコルシーニ氏。
「おいしかったです。ありがと」
「はい。では、片して参りますね」
私に食事を与える際、ナーシャは木製の匙を使用する。絵の部分にどことなく宗教的な装飾が施されているため、木製ではあるが高価そうな印象がある。どの食器も、なぜかオッサンの顔が彫られている。おそらく神話に出てくる神様のどれかだろうとは思うのだが、いかんせん食器の装飾と、絵本の挿絵のレベルが違いすぎて比較できない。
この時代の文化レベルが低いと判断した理由に、食事の摂り方がある。スープやポリッジなどの水気が多いものには匙を使用する。しかし、その他の固形物は手づかみなのだ。ナーシャやレーナと食事を摂ったとき、驚きすぎて一瞬時が止まった。え、それ手で食べるの……?と。
料理に香辛料が使われている様子もないし、食事のレベルは低いと言っていい。
いまだに身体の出来上がらない二歳児であるし、現在のところ食事に不満はない。しかし、成長した時に辛い思いをすることは目に見えていた。この身体の舌は知らないが、私の記憶は知っているのだから。和食に多用される出汁も、品種改良を繰り返された生の野菜も、ファーストフードのジャンキーな美味しさも、化学食品も。
思い出してはいけない。思い出してはいけない。思い出しては、いけない……っ!
「……じゅるり」
おっと、涎が……
「あらあら、うふふ」
ナーシャに優しく口元を拭かれてしまった。仕方ない。人間の生理反応は意図して止められるものではない。仕方ない。
裕福で恵まれた近代国家を生きた記憶はあれど、私はこの時代の文明を動かすつもりはない。そんなたいそうなこと、できるわけがない。
もともとそこまで食事にこだわりのある人間ではないし、風呂が無くても我慢できる。最悪、酒と煙草とお絵かきセットがあればいい。
この人、未来からタイムスリップしたんじゃないの?と思う偉人が、前世では何人かいた。
たとえば、クリミアの天使、ナイチンゲールである。幼少期から施された高度教育や、統計学に基づく医療改革と言われるが、やはりそれだけではない気がしてしまう。詳しく学んだわけではないので、あまり偉そうなことを語れる立場にはないが、彼女の偉業だけ挙げれば、その功績はあまりにも偉大すぎる。
ナイチンゲールの残した、現代に続く医療現場の衛生観念。
知っていたのではないか。
衛生的な環境を維持する重要性を知っていたのではないか。そう思ってしまうのだ、私は。
もちろん、だからと言って彼女や、その功績を貶すわけではない。ナイチンゲールの遺したものは偉大であり、まさしく“天使”なのだ。
「天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」
フローレンス・ナイチンゲールの名言だ。多くの命を救いながら、英雄として祀り上げられることを嫌ったという在り方もまた、やっぱり未来から来たんじゃない?と、思ってしまう。人々を救うため、医療を一歩前に進めるため、時代に呼ばれたのではないか、と。
この人、未来からタイムスリップしたんじゃないの?思う偉人が、私の生きていた前世にはたしかにいたのだ。そして、私は現代知識を持って生まれてきた。
ならば、私がこの文化レベルの低い時代に生まれた理由があるのではないか。時代という神に、運命に、何かを期待されているのではないか。
私だってそう思いたかった。自分は特別な人間なのかもしれないって。考えた。だけど、考えるだけだ。
昔から舌先三寸。聞こえの良い言葉ばかりでその場を逃げ切っては、行動に起こさずに後悔する。そんなことを繰り返してきた。
だから、やらない。
最初からやらない。やろうかな、とも思うし、出来そうだな、とも思うし、やりたいな、とも思う。だから、やらない。もしかしたら、やればできるのだろう。
やればできる、は、やらないから出来ない。やる、が出来ないから、出来ない。
どうせ私は考えるだけ。いうだけ言って満足して、やらない。なら最初から言わなければいい。
私には努力なんて出来ないのだから。生まれ変わったところで、やっぱり私の頭は勉強と労働から逃げることばかり考えているのだから。そんな高尚なこと、私にはできっこないのだ。
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