この世界はいかに2

「んーぅ、ん!」


 目の前でひょこひょこ動くぬいぐるみを捕まえようと手を伸ばす。もう少し、というところでウサギは逃げる。手を伸ばす。逃げる。ぬいぐるみから聞こえるカランカランという鈴の音を追いかけて、また手を伸ばす。


 アホみたいな遊びだが、これがなかなかに楽しい。自身の身体が発達していないからこその難易度で、いや、アホみたいな遊びだとはわかっているけども!

 ベビーベッドに仰向けのまま、何度もウサギに挑戦する。十回に一回は、捕まえさせてくれる。


 カランカラン。

 うーん、アホみたいだが楽しい。


 頭の中に“私”という存在はあるし、おそらく赤ん坊では思考しないようなことをつらつら考えてはいるが、どうやら感情は肉体に随分と引っ張られているようだった。

 だから、今の今まで楽しかったウサギさん捕獲ゲームも唐突に飽きる。


 しかし、まだ数日しか経っていないように思えるが、視界は格段に良好になっていた。身体も結構動くし、言語もだいぶ理解できるようになった。

 なんといっても、私は頭の中に前世のクズを飼っているのだ。言語習得など容易い!とは言い切れなかったが。


 日本語でないことは確かだ。英語や中国語でもない。ドイツ語やフランス語、ロシア語かもしれないとは思うが、確証は全くない。

 ちなみに、大学で習得した第二外国語は韓国語だったし、真面目に学ぶことをしなかったので覚えてすらいない。ハングルで自分の名前が書ける程度である。

 乳母は肌が白く、赤みがかった茶色の髪、とび色の瞳も日本人にはない色素の薄さ。北欧系の顔立ちに思えた。


 黄色人種以外の顔にあまりなじみがないので定かではないが、彼女はとても若いように見える。大学生くらいか、下手したらまだ十代だ。


「ぅ、ぅ……」

「あらあら、ウサギさんは飽きてしまいましたか?」


 頭の横にウサギのぬいぐるみを置くと、乳母が私のお腹をぽんぽんと叩く。気持ちいい、もっと。

 と思ったのに、するりと手が離れていってしまった。


「ぅぅぅ……なぁ!」

「……まぁ!あらあらあら、はい、ナーシャですよ!」

「ん、なぁ」


 自慢ではないが、私が最初に覚えた言葉は乳母の名前である。仕方ない。だって、泣いた私を抱き上げる時、この乳母は必ずと言っていいほど「はい、ナーシャですよ」と言うのだ。否が応でも、この女の名前がナーシャだと覚えてしまう。


「あーぃ」

「あらあら……―――ですねぇ」


 知らない単語もある。不便はないので構わない。


 頭を撫でようとしたナーシャの手を捕まえて、お腹の上に誘導した。ウサギさん捕獲訓練が役に立った瞬間である。

 トントンしてと言うように、お腹の上でナーシャの手を動かす。


「うふふ、もう少し遊びますか?」

「んーぅ!」


 違う。トントン。私が欲しいのはお腹か背中のトントン!

 くっ!違う!ウサギさんではない!ウサギさんはもういいのだ!伝わらない!


「ぅぅぅ、あぁぁぁ!あぁぁぁ……っ」

「まあまあ、ウサギさんじゃないのですね……」

「っ、うぁぁぁ!だぁ!だぁ!」


 ならば抱っこだ!抱っこしてトントン!抱っこしてトントンして!


「抱っこですか?うふふ、よいしょ……」

「ぅぅ……」


 伝わった!ナーシャ、好き!そのままトントンして!

 大きな手が、私の背中をぽす、ぽすと優しく叩く。うへぇぇぇ、気持ちいい……これである、これ……


 ナーシャの服にしがみつくと、優しいお姉さんは嬉しそう笑った。ああ、もうずっとこのままでいい。好き、大好き、最高、ナーシャと結婚する。


「ママ!」

「レーナ、入室するときは必ずノックをしなさい」

「はーい!」


 くそ、邪魔がはいった。

 こやつはレーナ。おそらく、ナーシャの実の娘である。ナーシャと同じく、私に話しかけるときに必ず「れーなだよ!」から始まるので、こちらも早々に名前を覚えた。


 私がナーシャに甘え倒していると、必ずと言ってほど邪魔してくる魔王でもある。仕方ないといえば仕方ないのだろう。レーナはまだ三歳から四歳ほどで、母親に甘えたい盛りの子どもだ。それを、妹でもなんでもない、血も繋がっていない赤ん坊にとられたのだから、邪魔したくもなる。


「ママ、あそぼ」

「ジークレット様がお休みになったらお部屋に行くから、少し我慢してて」


「やぁだ!れーながまんしてたもん!ママあそんでくれるっていった!れーなのばんだもん!」


 レーナ!とナーシャが大きな声を出した。レーナを叱るための声が、私の胸にひゅうと冷たい風を送り込む。怒ったり、叱ったりするときの声はやっぱり嫌だ。自分に向けられていなくても、嫌いだ。

 温かいはずのナーシャの腕の中が、途端に居心地の悪いものに感じて、胸の靄が広がっていく。あ、これは癇癪前のアレだ。


 うーん、これは良くない。ここで私が泣くのは、良くない。非常に良くない。

 私が泣いてしまえば、ナーシャは私にかかりきりになるだろう。レーナはこの部屋を追い出されて、きっとひとりで泣くのだ。


「れーな……っ、れーながまんしてたもん……ぅ、ぅ、ママのばかぁぁぁ!!」


 うわーんと泣きだしたレーナにつられて、お腹がぶるぶると震えだす。泣きそう。このままではもらい泣き、というより、もらいオギャアだ。

 赤ちゃんの身体は我慢がきかない。不快なものを取り除くため、欲求を伝えるために泣くのだ。泣くしか手段がないから。


「レーナ!あとで行くって言ってるでしょう?」


 ナーシャの声は怒りというよりも焦燥だ。年若い母親ひとりでは、乳幼児を含む子どもふたりの世話は負担が大きい。


 ぐぅ、と喉に力をいれて、ナーシャの胸をバシバシ叩く。

 まだ泣かない、身体は赤ん坊でも、私の頭のなかには“私”がいるのだ。ギャンブルに溺れて借金をするようになってからのストレスに比べれば、なんてことはない。こんなものはストレスのうちに入らない。だって、私にはやらなければいけないことなどないのだから。ベッドで寝ているだけでいいのだから。


 ベッドに向かって手を伸ばし、むぅむぅと主張する。


「ジークレット様……」


 さぁ、いけ!魔王を連れて行くのだ!

 でないと私も泣くぞ!三十路女が抑え込んでいるが、この身体はもう限界だ!いけ、行くのだナーシャ!私まで泣いたら、大変なのはナーシャなのだから、構わずに魔王を連れていけ!


 そっと私の身体をベビーベッドに寝かせると、ナーシャは急ぎ足でレーナを部屋の外に連れて行った。


「へぐぅ……っ、ぅ、ぅぅ……うぅぅぅ」


 そして、決壊。

 部屋の外でギャアギャア泣いているレーナにつられて、ついに身体が我慢の限界を迎えた。レーナのように大きな声で泣き喚きたいが、いまはレーナの番だ。ナーシャはレーナの母親なのだから。


 がんばれ三十路、頑張れパチンカス!大声を出さないように身体を抑え込め!


 大きな声を出さない代わりに、ぐずぐずと泣きながら手足をバタバタと動かした。胸のウズウズを発散させるためにジタジタ、バタバタ。ベビーベッドに放置されていたウサギが、ジタバタに合わせてカランカランと鳴る。

 今日のウズウズはなかなかしつこい。やはり特効薬はナーシャのトントンだ。う、う、トントンしてほしい、おっぱい吸いたい……


 ひとまず癇癪をおさめようと、心の中で子守歌を唄う。オオ、ハーシェル、ハーシェル。

 だめだ、ぜんぜんおさまらん。


 私の癇癪オギャアは、生理的欲求を伝えるためであったり、反射であったり、それしか出来ないから泣くという行動に頼っているに過ぎない。

 しかし、すでに言葉を操れるレーナは違う。あれは心の救助信号だ。エスオーエスだ。寂しいのだ、あの子は。甘えたいのに、母親が必要なのに、私という得体の知れない赤ん坊にとられてしまったから。


 怠惰で保身癖に身を固めているくせにギャンブルも酒も煙草もやめられなく借金までしたクズだけれど、保身のためにしか動けないクズだけれど、誰かを積極的に傷つける悪人にはなりたくない。結果として周囲に迷惑をかけていても、好んで人を陥れる悪人はなり切れないのだ。


 なんといっても、私は見栄っ張りのクズなのだから。


「ぅぅ、ぅぅぅ、っ、ぁぅ」


 クズだからこそ、優しくできるところでは優しくありたい。聖人的な思考ではない。これは私の保身だ。これこそが、私の保身だ。

 私は、私のために、人に優しくする。


 クズで嘘つきだから、せめてちっぽけなところでくらい良い人でいようとする。これは私の、最大の見栄で、最大の保身なのである。誰かに優しくしている自分は格好いいもの。こんな時くらいしか、私は私を好きになれないから。


「あぁ……!ジークレット様!ごめんなさい、寂しくさせてしまいましたね……」


 部屋に駆けこんできたナーシャに抱き上げられる。そのまま、いつものように大好きなトントンが始まった。効果てきめん、ウズウズが小さくなっていく。


 声が聞こえてしまったのだろうか。私の予定ではジタバタで疲れて眠ってしまう予定であった。私が大人しく寝ていれば、ナーシャもレーナの世話ができる。私は気持ちよくぐっすり、ナーシャは赤子の泣き声をストレスに思うこともなく、レーナはママを独り占め。ほら、みんなハッピー。


 今ごろママを独り占めできていたはずのレーナは、ナーシャのスカートを掴んで、ただ佇んでいた。


「ぅ、う!ぇー、な!」


 驚いたようにナーシャの手が止まった。そうだよ、レーナって言ったよ。だから、毎度毎度「れーなだよ!」って言われるから、覚えたんだってば。

 素直な赤ん坊の身体は、ナーシャの背中トントンをもらって簡単に機嫌を直した。ならば、次は正しくレーナの番であろう。


 ありがとう、ナーシャ。もう大丈夫だよ。


「ぇー、ぁ!」

「じーくれっとさま……」

「うふ…うふふふ……レーナ、ジークレット様といっしょに遊びましょうか」


 ん?んー?伝わっていないぞ?

 私は女体と女の情緒が好きだったが、幼女には興味がなかった。どちらかといえば、子どもは嫌いである。


 薬と殺人と性犯罪。いかに私がクズであろうと、けして相容れない悪人の所業だ。薬と殺人と性犯罪、ダメ、ゼッタイ。青少年保護育成条例!未成年との淫行、ダメ、ゼッタイ。


 ナーシャがレーナの前にしゃがむと、自然とレーナと同じ視線の高さになる。じっとこちらを見つめるレーナ。じっとレーナを見つめる私。


 ふむ、これは将来有望。美人になるぞ。


「ぇー、ぁ!」

「れーな、だよ」

「ぇーな!」


 鼻の頭を真っ赤に染めて、頬には涙のあと。求められていそうだったので、レーナに向かって手を伸ばした。

 体温の高い小さな手に、ぎゅっと掴まれた。君の手も、まだもちもちだ。ママが必要なのに、悪かったね。


「ママ、れーなもだっこ」

「んー、じゃあジークレット様がお休みしたらね」


「ちがう!れーなも、じーくれっとさまだっこしたい」


 マジか。いや、まあ、構わないけれど。いや、構うわ!落とされたら怖いし!


 

 そう思っていた時期が私にもありました……


 ふかふかな絨毯の上に足を延ばして座るナーシャと、その足のあいだに座るレーナと、レーナの足のあいだにお座りする私。

 レーナの腕は私の体にぎゅっと巻き付き、まるで大きなぬいぐるみにでもなったような気分である。


 私の目の前に広がるのは、白黒の絵本。否、挿絵付きの本、というほうが正しいか。

 茶色い紙にはギッシリと手書きらしき字が詰まっており、ときおり奇怪な挿絵が挟まる。この絵が随分と独特な雰囲気で、なんといおうか、じっと見ていると不穏な気持ちになってくる。味がある、と言ってしまえばそれまでなのだが、まあ、端的に言うと超怖い。

 異形に近い人間、異形でしかない動物、なんとなくおどろおどろしい植物……

 ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を思い出す。


 あうあう言いながら茶色の紙に触れる。材質不明、ただし質悪し。本当に、なんだこの絵本。謎すぎる。一般的に子どもに読み聞かせるなら、もっとチープで簡単な絵本ではなかろうか。ほら、灰かぶりの少女が王子様に見初められる話とかさ、毒リンゴで眠りについた姫が王子様のキスで目覚める話とかさ、魔女の呪いで野獣の姿になった王子様が本当の恋を知る話とかさ!日本ではないから、桃太郎とか浦島太郎とか金太郎なんてものは求めないけど……


 だからといってこれはない!


「―――は言った。思い通りにならぬのなら、食べてしまえば良い。我が身を―――なら、息子が大人になる前に食べてしまえ、と」


 なんだそれ、我が子を食らうサトゥルヌスか!あれだ、将来、子どもが自身を滅ぼすという予言から狂気に陥り、その我が子を丸呑みにしたというローマ神話の農耕神。フランシスコ・デ・ゴヤの絵画が有名で、予備知識なしで見るとトラウマもののアレである。

 なんと言っても、ゴヤの描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』は、丸呑みどころか丸かじりである。すでに頭を食われ、今まさに腕を齧られている幼子と、狂気に満ちたサトゥルヌスの目。なに、丸呑みじゃなかったの?なんで齧ったの?とまぁ、一度見たら忘れられない、有名な絵画だ。


 ナーシャの読み聞かせてくれるコレは、おそらくこの国の神話なのだろうと思う。紙と呼んでいいのか微妙な質の悪い茶色い紙、手書きらしき黒インクの文字、抽象的な挿絵。


 頭を持ち上げてレーナを見る。その後ろにいるナーシャを見る。ふたりともゆったりとしたシルエットのワンピースで、言われてみればクラシカルなデザインのようにも見える。どうやら背部にボタンがあるらしい。

 部屋を見渡す。赤い地に青い模様が入った絨毯、目に痛い配色と謎模様。楕円形のベビーベッドは木製だが、繊細な意匠が施されており、なかなかに高価そうである。家具はほとんどなく、大きなクローゼットと、水差しが置かれた卓、部屋の隅に置かれた陶器製らしき何かだけ。水差しや窓はガラス製で、透明度は高い。



ふむ、いつの時代だ、ここ。


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