ジークレット・ヴァイオは落とし子たりえるか3

 ジークレット・ヴァイオという女はまごうことなき、タルクウィニアの落とし子である。


 彼女の手は、真っ白な板の上に世界を描く。彼女の手は、真っ白な板の上に世界をうつしだす。

 その光景はまるで魔法のようで、そして魔法ではない。はじめて彼女の絵を見た者たちは、誰しもが「これはどうやって作り出すのか」と尋ねる。なにで描いているのか、と。


「えーと、手で」

「手、で……?」

「はい。私は五体満足な人間ですから、手で、描きます。魔力の一滴もありませんし」


 ふふ、と品良く笑って私が淹れた茶で唇を濡らした。成人とは言え、まだ齢十五。私より十も下の、歳若い女である。


 初めてジークレット・ヴァイオの作品を目にした人間も、ヴァイオ邸まで絵を買い付けに来た人間も、例外なく誰もが同じことを訊ねた。どうやって、なにで、本当に魔法は使っていないのか。訊ねずにはいられないのだろう。そのたびに、彼女は言うのだ。手で、と。


 私も初めは信じていなかった。魔法もなく、こんなことができるはずがないと、そう思い込んでいた。


「いやぁ、これは素晴らしい。ヴァイオ夫人の肖像を拝見した際の感動を上回る……」

「これ、本当に魔法じゃないんですか」


 応接室で師匠の絵画を眺めるそのふたりは、ヴァイオ商会の人間であった。ひとりはこの屋敷に何度か顔を見せたことがある商人だが、となりに座る若い男は初めて見る。弟子と言ったところか。

 師匠はどうにも商売っ気のない人間で、値切られていることにも気づかずにホイホイと安値で作品を売り渡そうとする。お人好というか、ぼんやりしているというか、見ていて心配になる。

 指名特注の受注といえば、職人にとってとても名誉なことと言える。師匠はその指名特注を受けない。自分にはできないから、と言って、そのほとんどを話が来る前に断ってしまうのだ。エルネスタの肖像画は例外中の例外だったのだろう。


「うーむ……お嬢様は、ライノール・ランや英雄物語には興味がないのでしょうか」

「あぁ、英雄物語ですか」

「はい。首都ではやはり英雄物語の人気が根強くてですね。あぁ、でも、英雄物語はそのほとんどが魔神ポッシメルの子を描いたものですから、お嬢様は……」


 この男はすぐにこういうことを言う。“魔神ポッシメルの子”とは魔力を持って生まれついた人間たちを指す言葉ではあるが、同時に魔力なしたちを貶しめる言葉でもある。途切れた後に続く言葉など、想像せずともわかる。


 師匠の作品でもっとも多いものといえばやはり神話であろう。絵という才能がなければ神官への道を選んでいたのでは、と思ってしまうほど、彼女は敬虔な信者である。酷い偏食のくせに、食前の祈りも欠かさない。

 セルモンドは教会を中心に興された街ゆえか、熱心な信者が非常に多い。しかし、それに比べると首都では、教会をただの肉屋だと思っている輩も珍しくないのだ。平民にしろ貴族にしろ、話題の中心はいつも王族についてと新しい物語だ。

 かくいう私も、首都で発刊される物語を好んでいる。私の心をときめかせるのは、いつだって誰かが誰かを愛する物語だった。


 たしかに師匠は、ライノール・ランを含む英雄たちの絵を描かない。


「気が向いたら描きましょう」

「はぁ……気が向いたら、ですか……そうおっしゃっても、いつもお嬢様は」


「ご商談中、申し訳ありません。出過ぎたことを申しますが、ジークレット師匠はすでにデ・ヴァイオには属しません。お嬢様、という呼称は失礼にあたります」


 非常に腹立たしいことではあるが、この男にこれを言うのはもう三度目になる。言うたびに改めるが、次に顔を出すときにはけろりと忘れて、また失礼を働く。師匠も師匠で、自分がいかに失礼な態度を取られているかを気づいていないようで、「そういうものなのですねぇ」などと宣う。

 師匠は当主であるコルシーニと、商会に絵を卸すという約束をしている。魔力をもたないという負い目を含めても、師匠がヴァイオ家傘下にある商会に強く出られないことは仕方のことだ。


 彼らの目には、ジークレット・ヴァイオの作品が金稼ぎの商品にしか見えないのだろうか。これだから、魔力至上主義の首都人は嫌になる。とくにこの男は、自身が魔力持ちであることを笠に着て失言を繰り返すばかりでなく、その表情にまでこちらを下に見る態度が見受けられた。

 師匠に礼を失することはもちろんのこと、この人の積み上げてきた技術と才能を蔑ろにする態度が、私にはどうにも許せなかった。


「いや、またしてもラウラ様のご機嫌を損ねてしまいました。ははは、今日はこれにて失礼いたしましょう。ああ、おじょ……ジークレット様、英雄物語の絵画も“気が向きましたら”なにとぞ」


 見送りに出ようとする師匠を手でとめて、私ひとりでヴァイオ商会のふたりを見送った。



「ラーウラ。ご機嫌なおしてくださいませ」

「……あなただって怒っていいんですよ……」

「うーん、怒るようなところ、ありましたっけ」


 ヴァイオ商会のふたりが帰った後、なにをするでもなくふたりで画板の前に座っていた。私の目の前に立て掛けられたそれには、練習で描いた様々なものが所狭しと敷き詰められていて、遠目からみると真っ黒にさえ見える。師匠の画板は、対照的だった。小さなデッサンがたくさん描かれているのは同じなのに、関連性のない線の細い絵は、それでも美しく配置されていた。


 この人はどうして怒らない。苛つくことがないわけでも、傷つかないわけでもないだろうに。

 私も彼女と同じく、貴族家に生まれながら魔力を持たない。努力ではどうにもすることのできない、生まれついての劣等種。


『あー、すみませんね!私ったらラウラお嬢様が魔力を使えないことをすっかり失念していて……灯り、私がつけてあげましょうね』

『まあ、ラウラお嬢様ったら、こんなに冷たいお水で身を清められたんですか!?湯を沸かせば良かったではありませんか!』


『おいおい、勘弁してくれよ……よく自分からダンスなんか誘えるよな……』

『魔力なしと両手を繋ぐと魔力を吸い取られるそうですよ』


『お姉様がね、サロンを開くのですって。ラウラ様もどうぞいらしてくださいませ』

『まあ、そんなことをおっしゃっては可哀想だわ……魔法研究のサロンにお誘いするだなんて……』


 脳内に響く過去の言葉でさえ、唇をかみしめたくなるというのに、生まれてすぐに隔離されたこの人はどれだけ傷ついただろう。

中央貴族指折りの裕福なヴァイオ家に生まれついたのに、たったあれだけの使用人しか与えられなかった。教師ですら、神官教師と講爵をひとりずつしかつけられなかった。まるで外の世界を恐れるように、彼女は屋敷の内側に、自らの内側に閉じこもってしまう。


 それでもなお、ジークレット・ヴァイオは人間を愛そうとする。


 優しく微笑み、穏やかに頷き、凪いだ眼差しで世界をうつしては、また画板に向き合うのだ。

 私はどうしたって、この人のようにはなれないのだろう。彼女より十も長く生きているというのに、隣に並ぶ私はまるで幼子のようだった。

 師匠のような才能が欲しかった。魔力がないことで傷ついたことなどないのだと言ってみたかった。誰かに優しく笑いかけられる人間になりたかった。人を怖いなどと思わず、素直に愛を受け取りたかった。


「ジータ師匠のような絵が描きたいです」

「……人間、描いてみます?」

「はい?」


 すこし悪戯っぽく笑って、小さな手を目の前にかざす。ぐ、ぱ、と握っては開かれるその手は、爪の間までも炭ペンで黒く染まっている。酷使されて短くなった炭ペンが、また白い手を黒く染めた。


「人間には骨格というものがありまして、子どもや大人、女性や男性など、それぞれで違った特徴を持ちます。さらには内臓や脂肪のつき方など……見たまま、だけでなく、その内側を理解しなければ、なかなか上手に描くことができません」


 ゆったりとした口調で説明しながら、画板の空いた箇所に人間の手が描かれる。

 人体の知識など、いったいどこで得たのか。医術学に興味があるといった話も聞いたことがない。それとも、まだ幼い時分に、絵を描くために研究に顔を出したりしたのだろうか。彫刻家たちは人体への理解を深めるために、違法の死体解剖をおこなったり、サロンを開いたりすると聞く。


 ふと、説明をとめて、師匠がこちらを見た。


「ラウラが惹かれる光景は、どんな光景ですか?心が動かされる情景は、どんな情景ですか?誰かと共有したいと思える場面は、どんな場面ですか?どのようなものを、美しいと感じますか?」

「美しい……?」


 目を細めて、綺麗に笑った。光の中に、消えていきそうな人。


「ラウラが好きなものは、なんですか」


 セルモンドの街は美しい。街の外に広がる、麦畑や牧場も美しい。大きな橋が架かるソン・ザーニャもまた、美しい。けれど、見慣れたそれらに涙を流すほどの美しさがあることを、私はジークレット・ヴァイオの絵画と出会うまで知ることもなかった。

 私が、私の目で見て、好きだと感じるもの。


「人が……人を愛し、愛される光景と……その、感情を、美しいと思います」

「素敵ですね」

「はい……私は、物語が好きです」


 それは、私が一番欲しかったものだから。自らの力で窮地を切り開き、愛する人を守る物語も、自分でも気づかなかった魅力を見出され愛される物語も、身分の違う人に恋焦がれる物語も。ほんの少し、たった少しで良いから、その感情の一端を持てたらいいのに。


「ラウラが物語を好きになったきっかけの物語はなんですか?」

「……ライノール・ランの建国物語、です」

「英雄ライノールですね。どのシーンが一番好きですか?心の中に、その情景まではっきりと描けそうなほど、印象深かったシーン」


 手を引かれて導かれるように、幼いころ、胸いっぱいに膨らませた情景と感情が帰ってくる。自らを省みず、民の為に立ち上がった英雄が格好良かった。愛するひとを傷つけても、国のために生きた英雄に憧れた。傷つけられても愛しい人を待ち続けた恋人と、彼らの愛の在り方に、その物語に恋をした。


「その場面を、描いてみませんか」

「えっ」

「ラウラが物語を読んで、頭のなかで描いたその情景を……あなたが、あなたの手で、キャンバスに」


 真っ黒に染まった練習用の画板。師匠のものと並べると、それはあまりにも醜い。


 ああ。ああ!

 でも、あの真っ白な画板に、燃え盛るほどに生きた英雄の姿をうつしだせるなら!


「私、じつはあまり知らないのです、英雄物語。造詣が深くなくてお恥ずかしい限りですが……」


 どうか、見せてください。あなたの見た、その情景を。

 それはなんて、魅力的な提案だろう。あのとき、ハラナの海に炎を放ったライノールはどんな表情をしていただろう。荒れ狂う海に、波にさらわれまいとライノールを支えた兵士たちは……英雄に救いを見出した民たちは……海面に映る、真っ赤な炎は……


「好きなものを描きなぐるだけのお絵かきが、いちばんたのしいんですよ!」


 この人は、絵画という芸術を世に広めるためにタルクウィニアから遣わされたお人だ。

 けれど同時に、私を救うために与えられたお人だ。

 絵画はジークレット・ヴァイオという魔力のない落とし子が作り出した魔法。私は、その魔法を受け継ぐ最初の人間。


 魔法なんていらないのだ、と胸を張って言えるその日まで、私はこの人のそばで絵を描こう。

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