第37話 記憶の別れ

 ――午前零時五十分


 オレは項垂うなだれるステラの顔を右手で握ると、無理やり視線を上げさせた。雪のような白い肌の柔らかい感触が指に伝わる。


「おい、ステラ。何でお前は下を見てるんだ。オレが力をふるうのがそんなに不満か?」


 一瞬、静寂がその場を支配した。無言で見つめていると、引き結ばれた彼女の唇が動き出す。


「そうよ。だって、私は永遠クンと離れたくない。一緒に居たい。もう二度と――忘れられたくない」


 ぽろぽろと透明な雫が、ステラの青い瞳からこぼれた。気丈な彼女の涙。それはアスファルトだけでなく、オレの心にも染みてくる。理性では結末を受け入れている。だが、感情はそうでもなかったようだ。オレは気合を入れて、表情を作る。


「やはり、昔の記憶がなかったのは……」


「あなたの想像通り、私と逃げる時に『奥の手』を使ったからよ。そのおかげで、すぐに追手はかからなかったし、研究データも白紙に出来た。結果だけ見れば最良だったかもしれない。でも、それと同時に私たちの絆もなくなってしまった」


 ステラは黒いスカートをぐっと握りしめた。


「今でも覚えてる。力を使った直後の意識が朦朧とした永遠クンに『誰?』って言われたこと。心の痛みってやつをその時、初めて知ったわ。とても痛かったわ。彼らの実験で手足が折れた時も、お腹に穴が開いた時も、そんな痛みは感じなかったのにね」


 ステラは儚げに笑う。目は赤く腫れ、表情はぐしゃぐしゃ。だが、その顔が何よりも愛おしく、美しく感じる。あるはずのない過去の記憶の断片が、オレの感情を揺さぶっているのだろうか。非現実的で、非合理な思考だ。論理のかけらもない。しかし、今はそれでいい。今の『一宮永遠オレ』にとって、これが最後なんだから。


「ねえ、永遠クン。あなたの決断は覆らないのよね?」


「ああ」


「絶対に?」


「ああ」


「そう」


 再び、ステラの視線がアスファルトへと落ちた。彼女の絶望はオレには分からない。計り知れない。だから、オレは笑った。今オレのすべきこと、それは……ステラが前に進む手助けをすることだから。


「ステラ、少し勘違いしていないか?」


「勘違い?」


「そうだ。お前は過去のオレは完全に消えたと思っているだろ。だが、そうじゃない。過去の記憶は確かに存在している」


 ステラの視線が少しあがった。潤む青い瞳からは期待の光がこぼれている。


「うそ……」


「嘘じゃない。実際、過去の話を聞いた時、昔の情景が浮かぶことがあった。例えば、森の中の薄暗い研究所から逃げ出す記憶とかな。だから、オレに消えた記憶の情報を与えれば……」


「思い出すかもしれないってことね。でも結局、かもしれない……でしょ?」


 彼女の瞳はまだ濁ったまま。もう一押し必要か。


「確かにな。だが、ステラ。お前は今のオレに昔のオレを重ねていた、そうだろ?」


「いきなり、何?」


 ステラの声が若干震える。図星なんだろうな。


「別に気にしなくていいよ。追求したいのはそこじゃないから」


「だったら、何が言いたいのよ?」


 彼女は悲しみと苛立ちが混ざった複雑な表情を浮かべていた。その気持ちに共感はできないが、理解はできる。だからこそ、オレの思いは届くはずだ。


「昔と今、記憶に差異はあれど、決定的には違わないはずだ。幸か不幸か、オレの体も知識も短期的に作られたおかげで、巻き戻されても幼児退行しないしな。つまりだ。オレは記憶を失おうと『オレ』だってことだ」


 証拠も何もない希望的な観測。感情に訴えるだけの暴論。案の定、彼女は困惑顔だ。だが、それでいい。


「馬鹿げてるかもしれない。だが、賭ける価値くらいあると思わないか」


 過去と現在、実際の違いってやつはオレには分からない。しかし、少なからずステラは今のオレに満足している。それだけ分かれば十分だ。記憶がすべてではない。その事実を彼女自身の心が感じているはずだから。


「オレの力で上のガラクタを処理できれば、完全勝利だぜ。オレはPPAの後ろ盾を失わなくて済む。天成教から逃げ続けずに済む。そして――ステラとの日常を無くさなくて済む。そうだろ?」


 オレは彼女の頬から手を離した。しかし、彼女の瞳はもう下を向くことはなかった。ステラは涙を拭い、強い思いを覗かせる瞳で見つめてくる。先刻までここにいた、縋るような瞳をした少女はもういない。自分のやるべきことを理解した……オレの相棒としての顔がそこにはあった。


「私はあなたの護衛者ボディーガードだったわね。覚悟しなさい。これからは記憶があろうとなかろうと、あなたがあなたである限り……守り続けてあげるから」


 ステラは腫れた目でオレを真っ直ぐに見つめ、勢いよく人差し指をこちらに向けた。やっと、オレの知る彼女が戻って来たな。


「ああ、期待してるよ」


 ステラは笑う。彼女らしく朗らかに。


「それじゃ、私もここから離れるわ。また後で会いましょう」


「ちょっと待ってくれ」


 オレはステラを引き止め、今のオレとして唯一の心残りを伝えた。


「……分かった。その願い、必ず叶えるから」


 ステラは飛び去る。彼女の顔にはもう迷いは一切見えなかった。よし、これでオレの心は空っぽだ。


「さて、哀れな『イカロス』に引導を渡すとするか」


 オレは神谷さんから貰ったタブレットを拾い、暗い空に輝く赤い星を見上げた。

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