【3】そんなふうにしか思われていなかった
悔しさを飲み込んで、少ない財布で電車に乗った要は、とぼとぼとした足取りで駅前に立っていた。そしてあの居酒屋に引き込まれていた。
今日こそ、最後の晩餐になってしまうかも知れないと思うと、足がすくむ。
だからといって、底辺のアルバイトになんか、絶対に戻りたくはなかった。
相変わらず、あの犯罪者の老人たちが昔語りで盛り上がっている。
下には下がいる。被害者は軽傷だ。
自分だって犯罪者だと言うことは、彼の頭の中からすっかり消えていた。
今日は奮発して、ふぐ刺しを頼んでみた。
どうせ最後だと。飲み慣れない大吟醸を煽りながら。
「なんか顔色悪いよ」
「慈さん」
それはまさに女神だった。彼女は向かいの席に座ったのだ。
彼女は名前の通りの瞳で見つめてきた。その慈(めぐみ)に要の心は包まれた。
「一気に飲むと体壊すよ。辛いことがあったら話して。ね」
「俺、俺……」
思わず泣いてしまった要の背中をやさしく撫でる慈がいた。
嬉しくて、要はますます泣いていた。
――――――――
「お、お金まで払ってもらって、何て言えばいいのか」
「いいのいいの」
「何かお礼がしたいんですが……」
興味深そうに慈が見つめているが、それ以上のことが要には言えない。
「実は」
しかしそのまっすぐな瞳に、こうなってしまった経緯を話した。
再起を果たしたいから、犯罪を犯したこと。
頼っていた人に捨てられたこと。
自分が実力者で、小説界を席巻できる才能があること。
慈は黙って聞いて、頷いてくれた。
「それなのに、逮捕されてからアパートも強制退去されて」
「今はどうしてるの?」
「一泊1500円の旅館でいる。でももうお金がなくなる」
「それならわたしの家に行こうか」
「え?」
それは衝撃的な言葉だったが、慈はニコニコとお構いなしだった。
――――――――
「さあさあ。入って」
そこはスーパーの三階にある例のアパートだった。マットレスと枕以外に何も置かれていない、空き家のような状況。いつものように隣の部屋への襖は閉じられ、ここから中を伺うことは出来ない。
閉店したスーパーの上階は、静かに闇に包まれていた。住人も少ないアパートは、騒いでも誰にも迷惑が掛からないだろう。色あせた畳、剝れた壁紙。正座して待っていると、慈が台所から冷えていないペットボトルを持ってきた。
「お茶でもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
もう深夜に差し掛かろうとしていた。慈は横を向いて、お茶に口をつけた。
「ここに、住んでいるんですか?」
「まさか」
不思議がって聞く要を、慈はあっさり否定した。
「こんな汚い場所に住むわけないじゃない」
こんなところに住むのは底辺だけよ。
「え? いま何て言ったんですか」
慈が立ち上がって、壁に向いた。
そのとき、明かりが消えた。
戸惑い立ち上がる要。頭に鈍い痛みが走ったのだ。
声を上げる要は、それが棒のような武器だと解った。
そして衝撃の際、慈の声がしたのだ。
「慈さん」
暗闇に動けない要を目掛け、また一撃が飛ぶ。
「どうして」
「お前がなろう小説の流行を妨害した!」
掛け声とともに振り降ろされる特殊警棒。暗闇の中どうにか玄関を探り出すが、慈は要が逃げ出すよりも早く後頭部目掛けてそれを振り降ろした。
「お前のせいで! お前のせいで」
要は倒れた。樽のような体を容赦なく何度も打ち付ける特殊警棒。どれだけ叫んでも、どれだけ逃げようとしても、ここにあるのは慈の息が切れる音だけだった。
――――――――
要が倒れた横で、慈は特殊警棒片手にうろうろ、さまよっていた。
慈は畳に腰を落とした。
この感触は、あのときのものとは違う。
目の前にいるのは可哀そうな人ではない。
助ける必要もない。
特殊警棒から伝わった感触は、社会の変革や、貧しい人を救済への妨害を排除する鉄槌だ。だから、あの女性もいつかどこかで必ず救われると、ただの憂さ晴らしを、根拠のない理由を正当化することで、慈は自分の自我を保っていた。
さっきまでの騒ぎが失われた今は、たとえ襖の向こうに人がいても、こちらの存在に気づかないだろう。明かりは消えたままだったが、二人とも目が慣れてきた。
「どうしてなんだ。どうしてなんだ」
「あんたみたいなブサイクで貧乏でキモい奴なんか、誰が相手にするって思ってるの。自己満足の小説書いてる奴なんて、誰から見ても最底辺なのよ」
要が驚いて声を上げた。
「そんなことを慈さんが言うなんて」
「何度でも言うよ」
「言うな」
「言い続ける」
「言うな」
「あんたが死ぬまで絶対に言い続ける」
「やめろ」
いままで努力がなかったことでバカにされ、搾取されるだけの存在だった。でも、なろう小説のおかげで、登場人物だけでなく、作者も努力なしで成功できることが解った。だから要は、絶対的な勝利をこの身で証明したかった。
痛む頭と体で、要はありったけの声を振り絞った。
俺は社会を変える。
すると、慈と要の周囲は、見慣れたあの、ニセモノの中世に変わっていたのだ。
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