【2】社会保障が破綻
「楽で高給の仕事はいい大学の奴らしか採用されない」
「どれだけ頑張っても三流大学卒はブラック労働しかない」
「高卒は同じブラック労働でも給料も最底辺だ」
「どれだけ仕事で努力しても給料は上がらない」
「努力は無駄だ」
「仕事になんか行きたくない」
「一流の奴らみたいに楽なことだけしたい」
彼らに共通するのは、いまの状況からドロップアウトすれば、底辺生活すら維持出来ない状態なのに、喜んで無職になったことだ。ひと月ももたない貯金でも平然と、むしろ嬉しそうなのは、慈の言っていた『裏付け』があったからだ。
役所はどこも若者で溢れていた。生活保護は恥ずかしいとか、受給のための要件がよく解らないとか、そもそも追い返されるんじゃないのかという不安が、今までは彼らを尻込みさせていた。
その億劫を払拭させたのは、役所の入口で待つ、慈や、党の老人たちだった。
「わしらは武力で戦うことはもう出来ない。こういう平和な方法は大歓迎だ」
「本当に頼りにしてます」
「まあな」
青年部の男女におだてられ、老人たちが役所前で喜んでいる。
その青年部の男子女子は、暖簾を潜ろうと訪れた連中に次々と近寄ってゆく。
慈も、入口の車寄せでうろうろする女性に話し掛けた。
「あなた、もしかして生活保護?」
「そ、そうなんですけど……仕事のあるわたしがもらってもいいんですか?」
慈は、そう歳の変わらない女性に爽やかに説明をはじめた。
「基準の収入に満たなければ、足りない分の生活保護が申請できるわよ」
「ほ、本当ですか」
「もちろんブラック労働なら辞めてもいいよ。そしたら全額支給になる」
「ブラックだなんて。一か月90時間くらい残業があるだけで」
「それで生活出来ない給料しかないの?」
驚く慈に女性は謙遜した。
「これでも。ホームレスの人よりまともな生活をしています。残業代は出ませんが、ときどき社長さんがお弁当を買ってくれます。一日5時間くらいは寝ることもできます。こんなわたしが生活保護を受給するのは間違っているんじゃあ」
「それは典型的なブラック企業よ」
なぜ怒鳴られたのか解らない。戸惑う女性の両肩を慈が抑えた。
「そんな会社なんか存在自体が無意味よ。お願い目を覚まして」
「だからわたしの待遇は悪くない」
「あなたはただの使い捨てなのよ」
「そんなの信じたくない」
でも。しかし。
そう迷う女子の肩を慈は思い切り揺すった。
「このままじゃああなたは死んでしまう。気がつかないうちに、いやもうボロボロになってるのに、どうしてそれが解らないの」
慈は泣いていた。
「どうして、見ず知らずのわたしにそこまで」
「あなたみたいな人が、死ぬのを見たくないから」
女性は慈を腕をそっと抜け、泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。
「わかったよ」
「ほんとに?」
「うん」
上目遣いの慈に映ったのは、明るい顔をした女性だった。
ようやく慈が鼻をすすった。
「そこのご老人が案内してくれるよ。書類の書き方も全部教えてくれるわ」
気のよさそうな老女がニコニコしている。
女性は慈に手を振った。
「わたし、友達にも生活保護のこと、話してみるよ」
小さな幸せが、着実に実を結んでいる。
そう感慨した慈の横を、業務用カメラを担いだ人たちが現れた。
「今日はここで争いがあるんだね」
「貴重な情報、いつも感謝するよ」
「貧しい人たちのために、がんばって」
まるで顔見知りのように声を掛けられた後、マスコミは役所に入っていった。
――――――――
「今日は特に多いですね」
「500人以上はいるんじゃないのか。役所の窓口がすし詰めだ」
驚きながらもカメラを構えるマスコミが捉える人ごみの中、窓口のカウンターにほど近い位置に、さっきの女性もいた。
慈たちはマスコミに自分たちの活動を取材させていた。
かつてないほどの人の波をマスコミのカメラが追いかけ、役所は生活保護を水際作戦で追い返すことでのイメージダウンを恐れるようになっていた。
「完全週休二日! 年間休日120日でなければ就職しない」
「年収は500万以上!」
窓口で叫ぶ求職者に、職員もブチ切れていた。
「そんな職場は優秀な人だけのものです! あなたたちには絶対無理です」
「海外では当たり前の待遇だ」
「ブラック労働は健康で文化的な最低限の生活に反している!」
「ハローワークで紹介されてた職場、最低賃金以下なんだけど」
「過労死を起こした企業に就職しろって言うのか」
「お前は法令違反の企業に就職させるのか」
「お前ら役人は俺たちを見下す上級国民のくせして」
職員も負けてはいない。生活保護は自治体を消耗させるからだ。
ふざけた理由は絶対に認められない。
「帰れ! 最低賃金以下でも働け」
それが火に油を注いだ。
「なんだと!」
「底辺は死ねってか」
「ブラック企業を認めるお前ら自身が法令違反だ!」
もう何十日になるだろう。
連中を追い返すだけで一日が終わってしまう。通常の業務は深夜まで残り、職員は疲弊しきってきた。このカウンターを乗り越え、いつ襲われるかも知れない恐怖が、職員の声をますます荒げさせた。
役所だって、対策をしなかったわけではない。
今日は警官が事前に、カウンターの横で待機している。
それにも関わらず、職員は不審がった。
『警官っていっても二人だけじゃないか。一人は外で待機中。こんな暴動寸前の状況で何が出来るんだ』
もう一人の警官が見張るのは、顔の割れた慈たち青年部だけだった。
表向きは政治活動をしていない老人たちは堂々と役所に入り、数百人の後ろから、様子を見守っていた。
慈たちは警官を遠目に、声を小さくした。
「やはり二人だけ。応援はなし」
「当然だよね。こんな状態が全部の役所で毎日続いているんだから」
「警察も人件費削減で嘱託ばっかりだし」
「一人なら押し切るのも簡単」
「そろそろ始まるよ」
慈が言うと、青年部の男女は頷いた。
――――――――
職員は、敵意に満ちた数百人の底辺を前に怯まなかった。
「黙れクズどもが! なろう小説なんかに影響されやがって」
暴言を吐く職員。
同時に、数百人一斉に襲い掛かってきた。
正確には彼らは、そうさせられたのだ。
後ろにいた党の老人たちが、体調不良で倒れたふりをして、同時に彼らの背中を押した――突き飛ばしたことで、先頭はたった一人の警官を押しつぶす。職員は逃げ惑い、警官は思わず警棒で反撃に出た。
若い女性が血を流して倒れた。
カメラは、それを一部始終撮影していた。
あっと驚く警官だが、もう遅かった。
「これが警察の実態だ!」
「後ろから押されただけなのに」
「善良な市民を殺すつもりだ」
警官は取り囲まれて、反撃も出来ず、罵声を浴びるだけになっている。救急車のサイレンが鳴ると、もう一人の警官が飛んできた。すると、職員を守るはずの彼らが、なぜかカウンターの奥に逃げ込み、職員を前に押し出したのだ。
やはり警官は役には立たなかった。
それどころか、取り返しのつかないことをしてくれた。
平謝りするのは、職員たちだけだった。
救急車で運び出される女性の姿に、慈は立ちすくむだけだった。
――――――――
このことがテレビのニュースで放送されると、当然のごとく役所、そして警察には苦情が殺到した。警察を要請したのが悪の自治体だとマスコミに喧伝され、市長は謝罪会見に引きずり込まれた。
「今までブラック労働で苦労したんだ。生活保護を受給しても当然」
「一生受給し続けるぞ」
「政府はいくらでも金を持ってるからな」
「久しぶりに買い物するぞ」
支給拒否の水際作戦は崩壊し、若者は次々と生活保護を受け取った。
彼らはその金でスマホを新調し、なろう小説を買い求めた。
――――――――
「全く、いいやり方だな」
「生活保護は本当に素晴らしい制度ね」
「後でどうなっても知ったことじゃないけどね」
そうやって鼻で笑う青年部の横で、慈はあの女性のことが、頭から離れなかった。
「将来の夢や希望なんていらない。いますぐの幸せが欲しい。みんなそう思っている。だからこれで正しい。いちばん正しいやり方なんだ」
その肩を、青年部の女子が叩いた。
別の女子が手を引く。
「いくわよ。慈」
「どこに?」
「テレビ局」
********
まさにテレビでしか見たことのない広大なテレビ局に、慈は戸惑った。しかしほかの青年部はまるで自分たち大学のように、平然とエントランスをすり抜けてゆく。
窓口で名前を告げると、応接室まで案内してくれた。
普段はスポンサー企業を接待する豪奢な応接室で待っていると、親の年代の人たちが高級そうなスーツで悠々と入ってきた。
それは、テレビ局の重役たちだった。
「なろう小説は今や貧困層の希望です」
女子が雄弁に語るのを、重役たちがソファーで軽く頷きながら聞いている。
「もちろん、テレビも貧困層に向けた娯楽ですよね」
その横で慈が嫌味に言うと、重役たちが笑った。
「これは痛いところを突く」
「ちょっと慈。迂闊なこと言っちゃダメだよ」
「でも、大企業はマスコミを利用して底辺から搾取している」
青年部が諫めるが、慈はどうしても口が止まらなかった。
大人たちは、しかし慈に頷いたのだ。
「もちろん。テレビは貧困層向けの娯楽だと自覚している」
「そういう人たちを擁護することでスポンサーを喜ばせてきた」
「企業は人件費を安くしたい。だがきみたちは人件費を上げる行為をしている。その企業を受け入れる我々を信用できないと言いたいのだね」
慈は頷いた。
「それなら心配無用だよ」
重役が慈たちを諭しに掛かった。
「彼ら貧困層が生活保護を受給しても、企業は健在だ」
「まもなく移民が大挙してこの国にやってくる」
「移民政策を強行したのは企業であり、政府与党は企業の圧力に負けたのだよ」
そう言うと、重役は嬉しそうな顔をした。
「彼らは最低賃金以下で働く有用な存在だ。彼らが消費してくれることで、この国はますます発展する」
「するとどうだ。貧困層を従える我々は、政府与党を堂々と攻撃出来る」
「そりゃあ政府与党寄りの企業もいるさ」
「働かない底辺が増えると、この国の価値が下がるとか言っているな」
「だが企業はテレビ局の言いなりだよ。そうしないと悪評を流され、株価は暴落。倒産した企業も幾つもあったな」
彼らは自慢気に語った。
「政府は国民を賢くするのが間違いなんだよ。国民は我々エリートが導かないと何も出来ない弱い存在だ。自分で考えて行動するなど不可能だ。それこそが国を滅ぼす行為だと、政府与党は気がついていない」
「全くです」
自信たっぷりなのは青年部のリーダーの男子も同じだった。
「愚かな国民を正しく導くのが、選ばれた人たちの役目です」
「それがテレビ局だと思います」
「その通りだ。やはり君たちは賢い」
重役は青年部の真摯な言葉に大喜びだった。
――――――――
『移民が際限なく増大したその先には、何があるのだろう』
テレビ局の人は言った。これが貧困層が生き延びる最良の方法だと。
彼らにとって、いま死なないことがいちばん大切なのだと。
だから慈は、いつものように将来を考えるのをやめた。
――――――――
「ところで、党の上層部の人たちは来ないんですか?」
「その件ですか」
親に買ってもらったタワーマンションに住む、リーダーの男子は爽やかに言った。
「あの人たちはネットに疎いですからね。それで僕たち青年部が出てきたわけです」
「そうだったんですね」
「ネットではテレビは劣勢です。しかしネットでわたしたちが活動すれば、テレビにも有利に働きます」
そう言って、親子の歳の離れた重役たちと堂々と握手した。
「さあ君も」
慈も言われるまま、大人たちにいい顔をしてみた。
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