【4】絶望の止《とど》め

「くそう」


 スマホをじっと耳に当て、ひたすら呼び出し音を聞くだけの時間。相手が出なければ、無駄になるだけの時間。それが的中しようとしている。


「いつになったら出るんだ」


 スーパーの上階、いつものアパートのいつもの古びた部屋で、本体ならなろう作家や読者をに蹂躙しているはずだ。しかし今は自宅アパートで引きこもるだけだった。一日でも早くあの興奮の日々を取り戻したくて、恢復が苛立った。


「板野さんは政府の役人だろう? 反政府的な連中を倒す活動ををしているんだろ? この非常事態に何やってるんだ」


 長期出張から帰ってきたと短いSNSで聞いて以来、こうやって何度も何度も電話して、SNSでメッセージを送り続けているのに。発信履歴が数千件になっても、SNSが同じメッセージで埋め尽くされても、雄武からの連絡はは一向になかった。



 ********



 その雄武は省庁の会議室で、あたふたと書類を配っていた。


「何やってる! ページが抜けているぞ」

「申しわけありません」


 高給なスーツや腕時計を身に着けた上司が、ズラリとテーブルに並んでいる。


「ちょっときみ」

「何でしょう」

「この資料の意味が解らないのだが」


 定年間際のような古びた男が呼びつける。


「この『シャットダウン』というののはどういう意味かね」

「それは」


 誰もが知っていて当然だと、とくに注釈はつけなかった。

 しかし携帯電話さえまともに使えない男からは、容赦ない声が飛んだ。


「こんな難しい用語が理解できるわけないだろうが!」

「全く。最近の若者が年上を労わる精神に欠けとる」

「誰でも解るように説明しろ!」


「しかしこれはクラウドネットワークの説明会であり」

「そんなのはお前らの仕事だ。儂らはそんなもの使えなくて当たり前だ」

「そんなことも解らないのか」


「しかしこれは省庁全員の学習会であり」

「黙れ」

「しかし」

「黙れ!」


 全く学習などする気のない連中が雄武をひたすら叱責し続けた。


「ワシらが何十年も苦労したおかげでこの省庁は存在しているんだぞ! 他の省庁に吸収されたらどうなるか! お前のような奴はとっくに出向だ」

「ワシらに感謝しろ! もっと頭を下げろ! 毎日土下座しろ」

「そんなあ」


 理不尽極まりない上司たちに翻弄され、反論を許されない雄武が涙目になる。

 しかし、雄武以外の若手役人はてきぱきと無茶ぶりに答えていた。

 それどころか。


「そのスーツ素敵ですね」

「すごく若々しいです。さすが省庁の鏡」

「こんど麻雀に誘ってくださいよ」

「おしゃれなバーで飲む人って憧れですよ」


 彼らは巧みに上司の好みを聞き出し、話題を合わせ、的確に満足させていた。

 対して、雄武は一方的に怒鳴られるだけだ。

 それでも学習会を進行させなければいけない焦りが足を空回りさせ、雄武は床で滑って転び、上司のスーツを掴んでしまった。


「あっ」


 手遅れだった。

 腕が破れた上司が、阿修羅の如き顔で雄武を突き飛ばした。


「出ていけ!」


 クスクスと周囲の若手が笑う中、雄武は会議室を叩き出された。


 ――――――――


 誰もいない控室は、照明を落とされていた。パイプ椅子で雄武は俯くだけだった。

 よれよれのスーツの胸に手をやってみる。何千件ものスマホの着信に気がついたのは、そのときだった。

 毎日の深夜残業で疲れ果てた体と脳に、返信する気力は残っていなかった。


 それでも、ようやく出ようとしたが、そこに同僚たちが入ってきた。


「こんなところでサボるなよ。次の会議があるんだぞ」

「早くしなさい」


 雄武がどうにか立ち上がり、よろよろと進みだすと、女子職員が思いついてヒールを少し上げ、雄武の足を引っ掛けてみた。


「あらごめんなさい」


 床に倒れた雄武に、女子はケタケタ笑っている。


「そんなところに寝てるとゴミと間違えられちゃうわよ」

「いやまさにゴミだね」

「ゴミならゴミらしく埋立地にでも行けよ」

「それは私のことか」


 雄武が倒れたまま睨みつけるが、同僚は鼻で笑うだけだ。

 彼は我を忘れて、女子社員に食って掛かった。


「私がゴミだと言うのか」

「誰が? そんなこと言ってないし」


 女子社員はこれ見よがしに声を上げた。


「みんなー? わたしが何か言いました」

「何も」


 周りの全員が鼻で笑っている。


「ほら見なさい。誰も何も聞いてないって」

「被害妄想甚だしいってやつだね」


 もう居たくない。

 雄武は彼らを突き飛ばし、泣きながら逃げ出していた。



 しかし行き場所はなく、しばらくするとまた戻るしかなかった。



 ********



 その夜のことだった。

 木枯らしが強くなっていた。

 焦燥しきった雄武は、人通りの絶えない街の歩道に座り込んでいた。


 さっきまで、飲み会だった。


 上司にひらすら酒を注ぎ、お世辞をばらまき、どれだけ罵倒されても、殴られても蹴られても笑ったままで、裸踊りを披露し、タバコの火を押し付けられても、それでも表情を変えてはいけなかった。


 高級フレンチ料理店の前で、雄武は土下座させらた。


「全くお前は最低のクズだ!」

「どれだけ恥をかかせる気だ」

「ここにいる全員に心から詫びてみろ」

「まだまだ! もっと頭を地面にこすり付けろ」


 定年間際の上司。若手の同僚にとって、それは見慣れた娯楽だった。

 頭を踏まれ、額から血が出たが、誰もそのパワハラを止めようとはしなかった。


「あー楽しい」

「板野。反省の意味も込めて全員分を払え」

「やめろ! やめてくれ」


 しかし若手数人が雄武の体を押さえつける。


「大人しくしてろって」


 暴れる雄武は腹を殴られた。そしてクレジットカードを奪われた。


「こんなこと! こんなことが許されてたまるか」


 訴えてやる! ネットで公開してやる!


 しかしそんな悲痛な反撃は、やはり娯楽だったのだ。

 周りはますます笑いに包まれた。

 定年間際の役人が雄武の襟首を掴んでタバコの煙を吐きかけた。


「ここは天下の省庁だ。内輪のことは誰にも踏み込めない」

「ほかの部署で警察に駆け込んだ後に突然退職した奴がいたなあ」

「あ。それ知ってる。電話で退職してきたって」

「お前も気をつけることだ」


 雄武は床に投げ捨てられた。

 そこに、さっきカードを奪った奴が現れた。

 そいつは呆れながら、カードを投げ捨てた。


 クレジットカードは使用停止になっていた。


「この程度の金もないのか」

「サラ金に行って作ってこい」

「公務員はいくらでも貸してくれるぞ」

 

 反撃しないおもちゃに、誰しも満足していた。


 ――――――――


 奴らが去って行き、雄武がよろける体を起こしたときだった。


「那賀くん」


 恢復は、みすぼらしい雄武の姿に怖い顔をしていた。

 彼は無言でスマホを見せつけた。雄武がうろたえた。


「さっきSNSで見つけました」


 それはこの場所で起こった、雄武の土下座だった。


「ネットの世界は拡散が早いですね。まだ三十分経ってないのに、すっかり有名になってますよ」


 雄武は言葉を失った。


「やっぱり板野さんは無能だった」

「違う、那賀くん違う」

「違わないですよね」


 寂しげに言った恢復に、雄武はなんと土下座した。


「那賀くん頼む! この動画を拡散しているサイトに潜入して、視聴者の意識を変えて欲しい。このままでは役人だけでなく、政府与党も叩かれてしまう」


 自分の身を犠牲にしても社会を変革する。そんな幻想に酔っていたのだろうか。

 しかし恢復は雄武の自己犠牲を、ただの酔っぱらいだとぶち壊した。


「この動画を見た人が、どんなことを書き込んだのか知っていますか」


 恢復は冷たく言い放った。


「政府の無能な役人が、上司に虐待される姿に喜んでいますよ。役人は絶対にクビにならない。安定した給料と莫大な退職金と年金を持つ上級国民だ。上級国民が痛めつけられるのは最高だって」

「そんなことが」


 驚く雄武に、恢復は背を向けた。


「……こんな人のアドバイスを信じていた僕がバカでした」

「那賀くん」

「さよなら」


 恢復は走り出した。雄武が追おうとしたが、足がもつれ、彼の体はまたアスファルトに叩きつけられた。



 ********



 閉店したスーパーの入口は二重になっていて、一つ目のガラスドアを潜った場所にシャッターが降り、それを照らすように蛍光灯が灯っている。

 横に階段があって、ボロボロのスーツで足を引きずって昇る。


 細長い通路に蛍光灯がときどき灯る、安アパート。

 カギを差し、ドアを開いた。

 二棟続きの部屋には、誰もいなかった。

 痛みが、寒さが、雄武の体を畳に押し付けた。

 石のように動けなかった。

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