第4話 敗北と勝利と敗北

【1】共同作業のはじまり

「こいつSNSやってないみたいだし。アカウントすら持ってるかどうかも怪しい」


 学食で一番高いメニューの牛かつ定食(750円)を前に那賀なか 恢復なおるは考えていた。片手で、あの憎いなろう作家『勝浦かつら 壮哉そうや』の文庫本をめくりながら、もう片手で箸を動かし、肉と米を突っついていた。


「出版社に聞いても、住所とか教えてくれないだろうなあ」


 プライバシーを守るのはコンプライアンスの基本だと、この前の講義で勉強した。人気商売であるはずの小説家でさえ、本人が希望すれば正体を隠してしまえる。だがそれは腹立たしい事実ばかりではなかった。


 恢復は思った。自分が小説家としてデビューしたなら、やっぱり同じように正体を伏せてしまいたいと。本が売れれば、それだけ注目が集まる。一瞬の不用意な発言が、炎上の火種になってしまう。


 だから恢復は半分は納得していた。


 牛肉は分厚く、市井では食べられないお買い得さだ。しかし彼にとってそれは、何度も箸で突っついては皿の上に戻す、その程度の当たり前だった。


 学食は混雑していたが、偶然恢復の前の席は空いていた。


「ここ、あいてる?」

「え、ええ?」


 海部かいふ めぐむが何事もないように座った。

 彼女がお盆に乗せていたのは、醤油ラーメン(250円)だった。


「ああ、それはいちばん安いメニューだよね」

「悪かったわね」

「いや。そういう意味で言ったんじゃなくて」

「言ったでしょ」


 不機嫌なままラーメンをすする慈。

 やっぱり不用意な発言はすぐに言質を取られてしまう。


「違うんだ。リア充の海部さんが、そんな安くて不健康なものを食べるのが意外で」

「やっぱりバカにしてる……わたしの収入源は奨学金だけだから」


 慈は親の仇のようにラーメンをすすった。


「アルバイトはしないの?」

「恢復くんはしてるの?」


 会話が止まった。


「アルバイトで払えるほど学費は安くないわよ。そんなことも解らないの?」

「いやそうじゃなくて」

「恢復くんも大学生でしょ。アルバイトはただの小遣い稼ぎ。そんな常識も知らないなんて、大学に友達とかいないの?」


「別に」

「やっぱりぼっちなんだ。お金持ちなのを鼻に掛けてるんだ」

「違うよ海部さん。僕はただの庶民で。海部さんみたいなリア充は羨ましいよ」


「苗字で呼ばないでって言ったでしょ。恢復くん」

「僕は名前より苗字の方が大事だから」


 そこまで言ったとき、慈が自分の片手で恢復の口を遮った。


「うぐうぐ」


 ――――――――


 麺を食べ終わると、慈はスープを蓮華ですくって飲んでいる。

 スープを残す女子が多いのに、全部平らげようとするのに、恢復は驚いた。

 やっぱり、普段から食べるものに困っているのかな?


「恢復くん」

「何」

「それ、残してる」


 慈が指摘したのは、キャベツが丸ごと残った皿と、ワカメが張り付いたままの味噌汁と、ご飯粒の残った茶碗だった。


「このくらい」

「やっぱりいい育ちしてるのね」

「だから人の気持ちが解らないのね」

「どういう意味だよ」


 恢復は慈からそっぽを向いた。

 そのとき、彼女が恢復の手にあった本に気がついた。

 その本に彼女の気が奪われた。


「それ、わたしも知ってる」

「本当?」


 恢復はなろう小説の存在が、彼女のようなリア充にも知られていることに驚いた。


「その本、最近すごく人気あるのよ」

「知ってる。ドラマになったりコミックが出たり……なんでこんな本が」


 慈がニコニコとなろう小説の方に向いていることに、恢復はついてゆけない。とはいえ、はじめて共通の話題を持ったことに彼は少し癒された。

 慈が言った。


「その作者なんだけど、正体がわからないのよねー」

「……そうだよ」


 なぜ彼女が、同じことを知りたがるのか解らない。慈は続けて尋ねてきた。


「恢復くんも興味ある? 顔も名前もSNSも不明の作家の正体」

「う、うん」

「だったらいっしょに探そうか」


 それは本当に驚きだった。


「いっしょにって、誰と」


 慈は空になったラーメンの丼を返却に行こうとした。


「あなたも返却するんでしょ」

「あ、うん」

「そういうことだから」


 恢復は首を傾げるばかりだった。



 ********



 いままで彼女と行動するなんて考えたこともなかった。慈はひたすら先頭に進み、その真っすぐな瞳に引きずられてしまう。彼女と降りた電車の駅は、さっき検索した場所だった。


「ねえ海部さん。こんなところに来てもいいの?」

「何事も実践あるのみよ。恢復くん」

「そんなにこの作者のことに興味があるの?」


 遅れがちな恢復があっと声を上げた。慈が恢復の手を引いたからだ。恢復は、その感触をいつまでも確かめていたくて、彼女と歩調を合わせることにした。


 ――――――――


「帰ってくささい。帰って」


 それは壮哉のなろう小説の出版元だった。エレベーターで編集部まで上がったが、入口で受付の警備員にブロックされる。何事かと集まる編集部員が、それ以上の侵入にさらに蓋をした。


「わたしたちは個人情報を悪用しません。だから会わせてくれてもいいでしょ」

「これ以上居座ると警察を呼びますよ」

「いいから帰りなさい!」

「減るもんじゃないし、別にいいじゃない」

「やっぱり帰ろうよ海部さん」

「恢復くんは黙ってて」

「……はい」


 全く突破口が見えないことに慈は苛立った。


「やっぱり民間はお役所みたいにはいかないわね」


 スマホで老人男女を呼んでも、最初から閉ざされたここでは意味がないだろう。出版社の連中もそれを許さないだろう。


「ぐぬぬ」

「もう行こうよ。海部さん」

「だから苗字で呼ばないでって」

「このままだと本当に警察来ちゃうよ。ね」


 恢復がそばで説得するが、慈はまるで聞かない。

 そのうち編集長と名乗る人が真正面に出てきた。


「いま警察を呼びました」

「まずいよ!」


 今度は恢復が慈の手を強引に引く。慈もようやく足を動かした。


「お前ら覚えてろ! マスコミを動員して復讐してやる! 土下座させてやる」

「この人たちもマスコミだよ。海部さん」


 汚い捨て台詞に恢復は驚いた。慈は敵意剥き出しで、足だけは逃走していた。

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