【2】詰められてゆく距離
「くそうくそうくそう」
「まあまあ落ち着いて。海部さん」
「あいつらあいつらあいつら」
つり革の前で大暴れしそうな慈を恢復はなんとか諫めていた。
「絶対土下座させてやる。出版社一社ごときがマスコミ全部を相手にして勝てると思ってるの? 身の程知らずめ」
鬼気迫る独り言に周囲の客がドン引きだが、慈は頭の中で復讐に燃え上がり、まるで眼中になかった。
「こうなったら次の手段よ。恢復くん」
「あのう。どうして海津さんはこの作家にそこまで興味があるの?」
「その質問はそのままお返しするわ」
「ま、まあ僕も思うところあってなんだけど」
どんな理由かは知らないが、自分とは違って、慈の努力は労力に見合わないと恢復は考えていた。そんな慈がリュックから出してきたのは、ノートパソコンだった。
「リア充の人は何でもスマホで解決するんじゃないの?」
恢復でさえ、ノートパソコンはビジネスマンのイメージしか持っていなかった。レポートだってスマホで書く人が大半だ。パソコンは武骨だと言うイメージの中で、慈はさっきの駅で空いた席に座った。
ごく自然に誘われ、恢復は彼女の横に腰を降ろす。そして開かれた液晶画面を二人で眺めることになった。
同じ情報を共有すること。
それが彼女がノートパソコンを使う理由だと気がついたのはすぐだった。
「ねえ、恢復くんはこの作家のことを検索してみた?」
「……小説家関係のSNSは調べた」
「わたしも」
数人だけの乗客が、窓枠で連続的に瞬断する陽光を遮ることなく車内に溢れさせる。レールからの音だけが響くここは、まるで二人だけの空間だった。
「この作者はSNSに興味がないかもって、僕は思った」
「まさか。今時そんな人いるわけない」
「そうだよね」
恢復は慈に頷いた。
「でも、恢復くんの考えも正しいかも知れない。同じ出版社のなろう作家の話題にも、この勝浦壮哉は全く掛からないから」
「海部さんは、作家ってどんなイメージ?」
「目立ちたがり屋」
「やっぱり」
作家は自己顕示欲がやたら強いという、二人にとって共通の認識があった。しかしこいつは作家仲間さえいない。そこまで素顔の片鱗すら見せないなんて、あり得ないと二人は思った。
慈は恢復がのぞき込む横で検索をひたすら続ける。
「これでもないこっちでもない……何かヒントがあれば」
ブラウザをひたすらスクロールさせていた慈の画面に、恢復がふと気がついた。
「ひょっとしたら」
恢復は何かに閃いたように、すっと慈の前に体を伸ばした。
二人が自然と密着する。
近づきすぎたと、体を避けようとする恢復。彼は文庫本を慈に渡そうとした。すると慈は恢復に抱き着くような姿勢で、夢中でなろう小説をめくり始めたのだ。
「あ、あのう」
「どこ? どこにヒントがあるの恢復くん」
彼女は顔を上げた。十センチて離れていない恢復との距離で、慈は唾を飛ばした。
「こ、この人の小説、老人の描写がすごくリアルなんだ。世界観はご都合主義のオンパレードだけど、老人だけはまるで生きているみたいに」
「だから小説関係のSNSじゃなくて、年金とか介護とかのSNSやブログを見れば、こいつのネットでの足跡があるかもって思って」
「それだよ!」
抱き合う距離からようやく気がついて、慈は慌てて体を離した。
真っ赤な顔の恢復を見つめた彼女は、同じようにうつむいた。
「わたし、調べてみる」
大勢の乗客が待つ夕刻のホームは、慈の、そしてついてゆく恢復の降りる駅だった。
********
慈が案内してくれたのは、商業地の中にある大きなプレハブだった。入口に立つ恢復は、ここが工事現場の事務所ではなく、居酒屋だということに驚いた。
店内はいつものように、老人で賑わっていた。
「あ、わたしはチューハイ」
「僕は……日本酒で」
「燗する?」
注文を取りに来たおばちゃんが聞く。
「
しばらくして持って来た徳利の日本酒は、とくに冷えているふうでもなかった。
「冷って冷酒じゃないの?」
「常温のことだよ」
恢復は猪口に注ぐと、ゆっくり舐めるように飲んでみた。
「おお」
慈が驚くことに、恢復は不思議な顔をした。
「恢復くん。すごい」
「何が?」
「飲み方がすごく通っぽい」
「そうかな」
「わたしの友達で日本酒飲む人なんていないよ」
「知り合いの社会人に教えてもらったんだ」
「へえ」
慈が目を丸くしているのが、恢復には意外で、その驚く顔はかわいかった。
――――――――
冷奴や枝豆が来ると、それをつまみながら慈は恢復の横に席を移した。
電車のときと同じように、画面を二人で共有するためだ。
「あ、そこだよ。海部さん」
「この書き込み、確かに怪しいよね」
恢復が画面を指さし、慈がそれを追ってカーソルを動かす。
最初はさすがに距離が離れていたが、相変わらず夢中な慈はいつの間にか電車でのことを忘れ、恢復は彼女の感触を気にするばかりだった。
「この介護士のブログ。写真に文庫本が映ってるんけど、これ、なろう小説なんだ」
「本当だ。恢復くんよくこんなの見つけたね」
「パソコンでなければ解らなかったよ。スマホの画面じゃあ見つけられなかった」
「ううん。これは恢復くんの洞察力だよ」
恢復が慈に褒められ、嬉しくなる。
「わたしは、このブログの読者を追ってみるよ」
「僕はSNSから探ってみるよ」
「うん」
ネットでの検索は無口になりがちだが、慈は違っていた。まるで同じ世界を共有しているように、二人の間にコミュニティが出来ていた。それは恢復が潜入し続けた、なろう小説の世界と同じだと気がついたが、彼はそのことには口をつぐんだ。
「毎日何時間もSNSを使う人でも、個人情報には意外と疎いんだ。名前や顔を隠せば正体がバレないと思っている。でも実際には、文字や写真、巡回するSNSの足跡だけでも、個人が特定されることがあるんだ」
「そんなことが本当に出来るの?」
「何十人、何百人もが集めた断片的な情報が、一つに纏められるのがネットの世界なんだ。彼らは特定班って呼ばれてて、炎上ネタを常に探している」
「そんな人たちがいるんだ」
「だったらわたしも」
慈は驚くと同時に、同じことをやりたいと言った。
自分には不可能なこと――彼女にはそれを手伝う仲間がいたことを、恢復は思い出して、久しぶりに猪口を口につけた。
********
駅に戻ったときには、すっかり夜も更けていた。
改札が閉まった駅のホールでは、異臭を放つホームレスがいて、周りを少年が取り囲んでいる。うろたえるホームレスが、少年たちに次々と殴られていた。痛みにのたうち回り、それでも逃げられなくて、ホームレスはされるがまだった。
恢復が避けるように距離を取り、目を思わず伏せていた。
――海部さんは、こんな人でも助けるのかな。
だがここでは蛮勇だ。慈が動くなら、絶対止めようと思った。
しかし慈は、恢復と同じように、その惨状から早足で離れたのだ。
ホームレスの呻き声が見えなくなってから、恢復は聞いた。
「海部さん? どうして助けないの」
「だって怖いじゃない」
慈は言い切った。
意外だった。あれだけ弱者のことを労わる慈が、本当の弱者であるはずのホームレスには無関心なことに。
「でも、あんなひどい目に逢って」
「あんなのはただの自堕落よ。助ける必要なんかない」
「でも」
「だったら恢復くんが助ければ?」
「そんな……出来るわけないよ」
弱者は子供や主婦や老人だ。
こんな汚い奴は除外だと、慈の心の声が恢復には聞こえた。
――――――――
ホームレスの光景は、ホームに着けばすっかり忘れられていた。
恢復の乗る電車は慈とは別方向だった。
「明日また」
「うん。海部さん」
「だから苗字で呼ばないでって言ってるでしょ」
「それでも僕は」
「……まあいいけど」
人もまばらなホームで、慈は半分諦めたように言った。
それでも機嫌は悪くなかった。彼女は電車に乗る直前、小さく手を振った。
恢復は答えると、窓の向こうから彼女はもっと大きく振ったのだ。
夜は肌寒いが、なんだかいい気分だった。
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