【6】やっと掴んだ尻尾
省庁は、半世紀以上前の古いビルを補修しながら使っていた。蛍光灯の照明、タイル張りの壁。低い天井。オフィスだって、机が田の字に連なり、パソコンのモニタ以外は昭和そのままだった。朝も夜も関係なく熱心にキーを叩き、電話を掛ける職員。
そんな職場に、定年をとうに過ぎたであろう男女が訪れていた。
あの安居酒屋でいつも飲んでいる老人だ。今日はジャージ姿ではなく、上等なスーツを着込み、別人だった。
彼らは隅の応接スペースで出されたお茶で寛いでいた。足を組み、嫌味に指示する老人を応対するのは、このフロアの管理職だった。その管理職、上司が呼んだのは雄武だった。
老人は、雄武が来るなり顔を近づけ、鋭い眼光を向けた。
「なあ板野くんとやら。いい加減新聞を買ってくれないか」
「強情張ってもロクなことがないのが世の中ってもんだよ」
「嫌です。絶対」
雄武は首を横に振った。
「こんな押し売りが許されると思っているのですか」
雄武を呼んだ上司は味方ではなかった。
上司は老人に平謝りだ。
「本当に申しわけありません。板野くん。出世に響くよ」
「そうそう。課長さんもそう言ってることだし」
「嫌です」
チッ。
老人は切れて課長に怒鳴りつけた。
「お前の部下は何だ。全く教育がなっていない。このままではあんたの出世にも響くよ」
「それは困ります」
「もっと上と掛け合ってもいいんだぞ。え」
あの居酒屋での気のいい姿はここにはない。
わざと大声で恫喝する様はまるでヤクザだ。上司は顔を青くして、雄武の前で仁王立ちになった。
「この前の失敗はなんだ! 議員さんが国会で、テレビの前で恥をかいた! お前はこの仕事を始めて何年になる」
上司の攻撃は終わらない。
そう脅されたが、雄武は首を縦に振らなかった。
「何だそのスーツは。よれよれで出先に行くつもりか。礼儀のないクズめ。お前のような奴が省庁の信用を失墜させる。反省はどうした? みんなの前で土下座しろ」
老人たちが罵声をまき散らして帰ったあと、雄武はほかの職員の前で理不尽に叱責されていた。
「くそう」
彼は上司に掴みかかった。
「何? そんなことしてもいいの? 左遷だよ」
「くそう!」
雄武が上司を突き飛ばし、事務所の外に飛び出した。
「覚えてろ!」
まるで子供のように逃げ出していた。
――――――――
「くそうくそうくそう!」
地元で神童と呼ばれ、一流大学にも合格した。国の礎になりたいと思い省庁に就職した。両親は泣いて喜んでくれた。毎日深夜残業だったが、国家運営に携わることの出来る、夢と希望で溢れる職場だった。
そのはずだった。
――――――――
ビルから外に出たところで、雄武は呼び止められた。
振り返ると、二十歳に届かないような女子がいた。
「新聞を買わなかったのはあなた?」
「お前も俺をバカにするのか。俺を左遷させるのか」
「そんなことしても面白くないわよ」
女子は言った。
「でも、せっかく入った省庁をクビになるのは嫌なんじゃない? 左遷された後もタダで済むなんて思ってないでしょ。もっと陰湿なパワハラが待ってるわよ」
「言われなくたって」
このままだと女子の言うことが事実になってしまう。
「ちょっとは冷静になったらどう」
「これが落ち着いていられるか!」
「そう言わずに」
女子は怒鳴りつける雄武の手を優しく引いたのだ。
雄武は驚いた。そして怒りを封じられた。
ついていくしかなかった。
――――――――
雄武は慈に連れられるままにカフェに入った。
カプチーノを口にすると、雄武は徐々に焦燥から戻ってゆく。
「きみは誰なんだ」
慈はその質問には答えなかった。かわりに彼女が言った言葉が雄武を困惑させた。
――きみは一体何を言ってるんだい。
「はぐらかすのは無意味よ」
慈が写真を差し出すと、雄武の混乱が引き戻されていた。
だから、答えるしか出来なかった。
――――――――
古びたショッピングモール(自称)の三階に、雄武は立っていた。
彼はカギを差し込むと、すぐに慌てた。
すぐ後ろには慈が待っていた。
まだ昼間で、古臭いアパートにも日の光が差し込んでいる。
「早く入れてください」
「ちょっと待って。ちょっと待ってね」
カギが開いていたのだ。合鍵を持っている人物のことを思い出し、普段はこちらしか使っていないことを思い出し、迂闊だったと後悔した。
「ひょっとしてわたしを騙したんですか」
「ま、間違いだよ。こっちの部屋だった」
慈の声が塊になって背中にぶつかる中、雄武は横のドアに慌てて駆け寄り、もう一つのカギを差し込んだ。ドアを開くと、そこはいつもの古びた部屋だった。
「ささ、座って」
雄武は畳の上に予備の枕とマットレスを敷く。襖の向こうにも部屋があるみたいだった。襖にはこちらからカギを作ってあり、向こうからは開かない。
「こっちの部屋は何があるんですか?」
「そこは何もないよ。こっちと同じ部屋だよ。二間続きで。掃除が面倒だから閉めてるんだ」
そう説明しても手を掛ける好奇心旺盛な慈に、雄武は顔を真っ青にした。
「開けないで! お願い」
そこまで言われ、彼女はようやく手を離した。
「こ、この部屋で寝ることで、小説の世界に入れるんだ」
「ここにたどり着く前にネットで聞きました。そんなに簡単に成功しないって」
「そ、その通りだよ」
油断からの思わぬ身バレに、雄武は冷や汗をかきっぱなしだ。
「ささ、なろう小説を読んでからこれに寝て」
しかし、慈も恢復と同様、マットレスに横になるのをためらった。
「これ、洗ってるんですか」
雄武は答えない。
慈はマットレスと枕を蹴飛ばし、畳の上にじかに横になった。
慈は目を閉じた。すると、途端に体が重くなる。雄武の心配する声が遠ざかり、彼女は夢の中に堕ちていた。
********
一般人のSNSは、なろう小説の世界とは一線を画す、リア充の社交場だった。そこで教えてくれた情報を頼りに、幾つものコミュニティを横断する。
「なろう作家のくせして、こんなところにも出入りしていたんだ」
動画や文字の行間が、恢復の目に留った。
それは彼を確信させるに足るものだった。
作者が正体を隠し、日常的にアクセスするSNSに、恢復は迷わず飛び込んだ。
傍から見れば、いつものアパートのいつもの部屋で、彼は死んだように眠っていた。
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