【5】その時間が突き動かすんだ
駅近のカフェで首を傾げながら、男は座っていた。スマホをいじっているところに、声が掛かった。
慈の登場に男は慌てた。
「ほ、ほんとうに女子なんだ」
男は二十代だろうか。掲示板の書き込みに嘘はなかった。フェイクではない女子が目の前に現れたことに心底驚いているようだ。
「いや待て……これは
「何の妄想ですか」
慈は呆れながら、向かいに座ってカプチーノを注文した。
自分のことを全く意識していないふうな態度に、ようやく男は安心した。
軽い雑談の後、男に慈は封筒を差し出した。
「本当にもらっていいのか。大した話じゃないぞ」
慈は頷いた。
「さて、本題にいきましょうか」
慈の瞳が光を帯びた。
乗っていたタクシー会社とナンバープレートを覚えたこと。個人情報だから断られると解っていたから、タクシーに落とし物をしたと嘘を言って、行った場所を突き詰めたこと。そして、別れ際にこっそり写真を撮ったこと。
男と話すこと二十分。写真を受け取った慈は満足していた。
――――――――
慈はスマホで写真を撮影して、SNSで送信した。
それから電車に乗って向かったのは、都心の高級タワーマンションだった。
――――――――
エントランスには警備員がいて、無断では入れない。
要件を伝えるとインターホンを繋いでくれて、ドアを潜り、ガラス張りのエレベーターに乗った。それぞれの家の前にもエントランスがある、マンションの中とは思えない、まるで戸建てだった。
チャイムを鳴らすと、慈と同じくらいの年齢の男女が出てきた。
軽そうな男を横目に慈は颯爽と入る。工業製品とは明らかに違う、重厚で落ち着いた壁と床。家具は海外のブランドものだ。ソファで広々と寛ぐ男女たちが、慈を輪に入れる。
「慈。久しぶりー」
「うん」
女子が仲良く手を繋いできた。慈は引かれるままにソファに座った。
「写真見たよ」
「これが小説の世界に入れる研究をしている人? どう見てもやつれたサラリーマンじゃない。信じられない」
「まあ、慈の聞いてきた話には信憑性があったがな」
高そうなワインのボトルがテーブルに置かれ、グラスにも注がれている。彼らは洒落たつまみで、各々楽しんでいた。
そして床には、なろう小説が何冊も積み上げられていた。
「これが底辺の人たちに大人気? 信じられない」
「文章力が低すぎる。設定がご都合主義すぎる」
「努力なしで無敵なんて感情移入出来ないにも程がある」
「ま、最近の小説はどれもただの売文だし、似たようなもんだけど」
「本当につまんなーい」
なろう小説は適当にめくられ、その辺に投げ捨てられた。
慈はそのうちの一冊を手に取った。
「なろう小説が貧困社会に影響を与えるほど売れているのは確かよ。売上ランキングを調べて、狙われるのはこの人だと思った。だから先回りして、なろう小説の破壊を阻止したいの」
「なあ。慈はどうしてそこまでなろう小説に拘るんだ」
「いま言ったでしょ。貧困層に影響力があるから」
「そうじゃなくて」
影響力ならスマホゲームとかの方が上じゃないのか?
そう尋ねられ、慈は首を横に振った。
「もちろん、課金だって心の支えよ。でもこれ以上貧困が蔓延すると、スマホゲームすら続けられなくなる。文字だけの世界だからこそ、全ての読者が希望を永遠につなげられるのが、なろう小説なの」
真剣な慈にも女子からワインが注がれた。
「慈の気持ちは解ったわ」
「わたしは別になろう小説が好きなわけじゃない。でも、それでも彼らにとって、それは最後の希望なの。だから」
失うことの怖さを、ワインといっしょに彼女は口に含んだ。
「いつ見てもいい部屋ね」
「これも親の力だ。労組と専従はまさに金の成る木だ」
マンションの住人である男子が自慢気に語った。
別の男子が聞いた。
「最近党の予算も激増しているよな」
「老人ばかりの党のどこにそんな金があるのやら」
「ここだけの話だがな」
すると住人の男子は、知っていることを教えてくれた。
「どうやら外国から資金が入っているらしい。外国は武力による戦争じゃなくて、金で国民を篭絡させようとしてるみたいだな」
「それって外国に、この国が乗っ取られることじゃない?」
「綱領で外国の援助を受けることは禁止されているはずだ」
一部は不安や疑問の顔をしたが、ほかの人は同じペースでワインを楽しむだけだ。
「別にいいんじゃない?」
「俺は国民を啓蒙出来れば、他のことはどうでもいい」
「外国だってわたしたちを無碍には出来ない。わたしたちが国民を、国家を動かせるなんて最高よね」
「今までとは違う。党の偉い人は本気で国を変えようとしている」
住人の男が、勇ましく呼応した。
「国民は底なしのバカどもだ。この国はすでに後進国になっているのに、まだ世界の覇権を期待している。その間違いを正すのが僕らの役目だ」
そのためには何だって利用する。
そう周りが逸る中、慈はいい顔をしなかった。
「みんな聞いて。ここにある贅沢は国民の富の一部よ。こんな生活をしながら貧しい人を率いるなんて無理よ」
「それは嫉妬か」
住人の男子が慈ににじり寄った。
「お前はあいつらと同じ、貧困層だからな」
「その貧困層を救うのがわたしたちの使命よ」
男子が怖い顔をした。
「俺が何も出来ないって言うのか」
「キャーかっこいい」
「ワイルド!」
ほかの女子が強面になった男子を褒めたたえる。
ほかの男子はニヤニヤ眺めるだけだ。
「あいつらが努力せずに小銭を拾っているのは事実だ。あんな奴らと俺は違う。一流大学を出て、一流企業で組合を動かし、奴らを啓蒙する。これは当然の報酬だ!」
男子は慈の肩を掴んで揺すった。
「痛い! 痛いよ」
「そのくらいにしてあげなよ。この子、真面目すぎるんだよ」
危機感を持つ女子に諭され、ふん。と、その男子は慈をソファに突き飛ばした。
「貧困層に必要なのは、将来の成功ではなく、いますぐに手に入る小銭」
「貧困から抜け出せないのは当然よね」
みんなクスクス笑っている。
――そんなふうに自分だって思われている。
しかし何と思われようとも、慈は頭を下げたのだ。
自分よりもずっと金持ちの家の子で、ずっといい大学に通う人たちに。
「お願い。この写真の男を探して。どこかの省庁にいる可能性が高いの」
「しょうがないな」
男子が鼻で笑い、それでも承諾した。
「国家機関のデータベースならいつでも検索できる」
「わたしも親が省庁勤めよ」
「みんな。ありがとう」
慈はもう一度頭を下げた。
――――――――
帰りは、タワーマンションを見上げる人工の林だった。都心でこれだけの自然を住人だけが共有出来るなんて、それは手に余るぜいたくだった。
もう日は落ち、仲のよい親子が連れ沿うそばを、慈は過ぎる。
思い出したくない過去。
それでも見つめなければいけない過去。
――――――――
両親は小さな飲食店を経営していた。しかし未曽有の大不況が資金繰りを悪化させた。大家や仕入れ先が怒鳴り込んできた。
両親はアルバイトに行く一方、毎日役所に通っていた。まだ小さかったわたしには解らなかったが、それは公的資金の嘆願だったのだろう。
しかし支援は届かなかった。
学校から帰ると、両親が首を吊っていた。
――お山のむこうに日が沈む
さむい夕暮れ もう帰ろう
囲炉裏の消えた その家は
あの子がひとり 泣いていた
坊やは走る 暗い道
あの子の声が 遠くなる
囲炉裏を囲んで 眠くなる
ここはみんなが あったかい――
母親の子守歌が、いまでも聞こえる。
しかしわたしだけが生き残ったことで、政府からはさまざまな援助が行われた。養護施設から、返済不要の奨学金で、こうやって大学に通うことが出来た。
だから、わたしは政府を恨んだ。
どうして、両親に支援はなかったのか。
両親が死んでから、支援をするのか。
国を永続的に発展させるには、ルールを決めて、それを厳守する政府が必要だ。一度決めたルールを簡単に変えることは、自由と平等に反する人治主義だ。それでも国家のために犠牲も止む無しなんて大志は、わたしには絶対に持てない。
たとえ未来を捨てても、今の小さな幸せのために戦おうと誓った。
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