【8】底辺の咆哮

「あなたはそんな言葉に流されるの?」


 突然声が響いた。

 それは、女子の声だった。

 恢復が周囲を見渡す。

 中世のオープンセットが瓦解する中、女子の声が壮哉に語り始めた。


「努力しても何も変わらない。変えられないからあなたは引きこもったんだよね」

「そうだ」

「だったら解るでしょう。今更努力して、上層階級の奴らに勝てると思っているの? それこそ無意味よ」


 この部屋に現れた女子は、恢復も壮哉も知らない女子で、この世界では誰もが同じ、正体を隠した存在、中世ふうの服を纏う、空蝉アバターだった。


 女子は壮哉のすぐ横に立った。


「いつ叶うか知れない目標なんて。叶うかどうかも解らない夢のために努力だなんて。それを叶える頃にはあなたは何歳になっているの? あなたの親は?


 そんなものより、いますぐの幸せを掴んで。家を建てれば、きっと親もあなたの実力を解ってくれるよ」

「……そうだな」


 その言葉に壮哉は、恢復を無視して歩み出した。


「待て! 待てよ」


 恢復がその肩を掴もうとするが、手が壮哉の体をすり抜ける。

 壮哉を止めようと先回りする。しかし恢復は目に見えない壁に弾かれ、彼と女子が歩む、部屋の向こうの中世の世界に入れない。


 壮哉の姿が、この小説の主人公のものになった。

 そこでは、無数の読者が崩壊する世界で逃げ惑っていた。


「あなたにはこれだけのファンがいるのよ。何も変えられない読者のために、なろう小説を書いた。全てを諦めた自分の替わりに、読者には夢の中で幸せになって欲しかったんだよね」


「そうだ。確かに、その通りだ」

「それなのに、こんな奴の言うことを聞くなんて。夢を失った読者はどうなるの?  何よりあなたはどうするの」

「そうだな」


 すると、世界の崩壊が止まった。


 周囲を見渡し、落ち着きを取り戻す読者の中に、女子がゆっくり歩いてゆく。

 瓦礫と読者に囲まれ、彼女は語った。


「悪いのは政府。それから大企業。あいつらが貧困を生み出したの。だからみんなで、あいつらを倒すの」


 女子は自信をもって言った。


「倒すってどうやって」


 読者が困惑するのも無理はない。慈の言う敵は、圧倒的な力でここにいる読者を虐げてきた元凶だからだ。しかし女子は怯まなかった。


「みんな聞いて。数千万人の貧困者が、ブラック企業を一斉に退職したらどうなるか、想像してみて」

「そりゃあ、どこも人手不足で、外食や交通や政府機関も動かなくなる」


 女子は喜んだ。


「そうすれば政府や経営者が困るでしょ」

「しかし、働かなければ生きていけない」


「ブラックな労働環境だから、心と体を壊したって堂々と主張すればいいのよ。そして生活保護をもらうの。それが数千万人になっら、政府与党も無視できない」


「政府与党がそのくらいで動くわけがない」

「ニートを犯罪者として逮捕するに決まってる」


「そこまでしたら国民が黙っていない。政府与党は選挙で必ず負ける。野党が政権を掌握すれば、絶対にこの国は良くなるわ」


 女子は読者の批判をかわし、得意げに続けた。


「でも、余裕のある企業ばかりじゃないぞ」


 女子はそう言った雄武の反論など全く意に介さなかった。


「そういう企業は、私腹を肥やす大企業の犠牲になっているのよ。政治を変えれば、中小企業が必ず復活するわ」

「そんなこと、実現するわけが」


「貧しい人はみんな同じ考えよ。わたしや、わたしの周りの人も含めて、何千万もの人が動けば、そのくらい簡単に実現する」


 壮哉は驚いた。

 それこそ願望なのに、読者はその話に簡単に引き込まれていた。


「そんなことは叶うわけが」


 そこまで言うと、女子は慈に襟首を掴まれた。


「どんなにダメな人でも、努力なしで無敵の英雄になれる。それがなろう小説よ。あなたはみんなを救うんじゃないの? 読者を導いて」


 導きなさい。絶対に。


 それは強制だと壮哉は言おうとしたが、女子の鋭い眼光、殺意に満ちた眼光に、言葉を失った。たとえ自分が信じなくても、読者には信じさせなければいけない。

 これが、薬物なんだ。


 そして読者が盛り上がっていた。


「努力至上主義の奴の言うことなんて聞いても無駄だぞ」

「俺たちが這い上がるなんて絶対できない」

「なろう小説がなくなるのは嫌! わたしの最後の希望のために作者さんは戦って」


「僕たちも政府や経営者と戦う」

「働かない! もう絶対に働かない」

「政府を困らせる! 政府を潰す! この国を変える」

「弱者を虐げる与党は全滅させる」

「新しい国家を作るのは俺たちだ」


 ブラック企業。非正規労働者。ニート。引きこもり。

 彼らは女子の意思に全面的に賛同し、主人公である壮哉の心を突き動かした。


「そうだな」


 呟くと、壮哉は読者に胸を張った。


「俺はみんなの夢を書き続けることを誓う!」

 

 読者が歓喜に沸いた瞬間だった。


 ――――――――


「あり得ない。作者も読者も、想像以上の大バカだ!」


 ようやく恢復が、見えない壁を突破して、ニセモノの世界に飛び込んできた。

 しかしそこで待っていたのは、集中する読者の怒りの目だった。


「こいつがあたしたちの邪魔をする」

「政府の回し者じゃねえか」


「最近なろう小説が減ってるんだけど」

「聞いたことがある。なろう世界が次々と破壊されているって」

「こいつか。こいつが犯人か」


 恢復に罵詈雑言が浴びせられる。


「わたしたちの苦労を知らないくせに!」

「上級国民はこっちの世界に来るな!」

「現実は地獄だ! お前は悪魔だ」


 壮哉は、そんな読者に呼応した。


「こいつを倒せ」


 その言葉に読者が蜂起した。

 次々と突撃してきて、重い剣を振り下ろす読者。

 いつもなら一刀で片付くのに、恢復は弾き返すことすら出来ない。

 努力ない奴らのどこにこんな力が。


「みんなに裏付けが出来たからよ」

「きみは一体誰なんだ」


 女子が、剣戟で押されっぱなしの恢復を横から笑った。


「ブラック労働や引きこもりから解放されることが、彼らの力なのよ」

「まさか。こんな奴らに生活保護なんか支給されるもんか」


 黙れ!


「僕たちをバカにするのもいい加減にしろ! 政府の回し者のくせに」

「政府だって努力してるよ! いろんな政策で国を正しく導いてるよ」


「そんな政策は聞いたことがない」


 女子ががきっぱり否定した。


「政府のホームページを見たことがないの? 政策が少しずつ効果を上げているって統計は見たことないの?」

「政府与党がそんな対策するわけないじゃない。それに、いつ実現するか解らない政策を待っている間に、みんな死んでしまう」


 そんな穿った言い方を、恢復はどこかで聞いたことがあると、思い出した。

 女子は言った。


「あなたの声はわたしたちには届かない。夢と希望を破壊するあなたの声は」


 女子も剣を抜いた。読者を従え、彼女が剣を構えた。


「一気に始末するわよ」


 女子を先頭に、読者に波が突撃してくる。彼らに怖いものなど――現実の恐怖など何もなかった。


 体をズタズタに切り裂かれる。

 それでもどうにか踏ん張っていた恢復。


 しかしそこで、空に線が走った。

 線が無数に増え、空を覆い尽し、一点を目掛け突っ込んでくる。

 数万本の矢。その矢すべてが読者の憎しみだった。


 矢は剣山のように地面を埋め、その中心で恢復もまた、剣山のような姿に成り果てていた。どうにもならない無数の現実に貫かれ、彼はこの世界から消え去った。



 ********



 慈が目を覚ました。

 洗っていないマットレスを脇に、畳から起き上がる。


「これが、わたしの力」

「だ、大丈夫かい?」


 心配そうに見つめる、役人の言っていたことは本当だった。

 慈はそんな雄武のことなど全く相手にせず、アパートを出た。

 まだ興奮が収まらない。

 それは、嬉しい興奮だった。

 

 ――――――――


 襖の向こうの恢復が、アパートの扉を開いたのは、それから数分後だった。その音に雄武が驚いて向かうと 恢復は憔悴し切っていた。


「あいつら……あいつら底辺が……」


 恢復のうわごとが、隣の部屋で起こったことと関連あると壮哉は直感した。だがそれを、彼に伝えることは出来なかった。 

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