【3】底辺は底辺のままでという願望


 二人で飲んだとは、壮哉は要を自宅に連れて行ってくれた。

 莫大な印税でさぞ豪邸だと思いきや、そこは今にも倒壊しそうな惨状だった。

 壮哉の母親は優しく出迎えてくれた。

 しかし、壮哉はその慈悲を無碍にして自室のドアを閉じた。


「どうしてなんですか。喧嘩でもしたんですか」


 そう驚く要に、壮哉は吐き捨てるように言った。


「俺だって、母親を楽にさせたい。幸せにさせたい。だがアクセサリーや高級な食事にはまるで興味を示してくれなかった」

「それでもいいじゃないですか。きっと自慢の息子だと思ってますよ」

「違う」


 違うんだ。


「どれだけ俺が稼いでも、それで俺の過去が変わるわけではない。あの人は贖いを終わらせたくないんだ。俺を恨み続けているから、いつも粗末な格好で、いつも粗末なものしか食べないんだ」

「でもそれは。俺もニートだったから親はいい顔しなかったし」

「お前に何が解る」


 憎らしく言うと、要は自分が責められたような気がして縮こまった。

 その壮哉は、要の方を向いているわけではなかった。


「俺は豪邸を建てる。誰もが驚く家だ。日の当たる暮らしを教えてやる」


 そのためには、この程度の印税じゃあ足りないんだ。


 ――――――――


 それから要は、たびたび壮哉の家に遊びに行った。

 相変わらず壮哉は母親とは軋轢があるみたいだが、要にはどうしても彼女が悪い人には思えなかった。


 壮哉は売れ筋のジャンルや、読者の心の掴み方を教えてくれた。

 しかしそれは、自分の書きたいものではなかった。要は壮哉みたいに割り切れず、かといって他の出版社に行っても変わらない印税に半分諦めていた。


「今度は契約書を隅から隅まで読んだ。だから買取なんてバカなことは絶対にない」

 新刊の発刊を前に、要はそう確証していた。



 ********



 それは要が編集部に行ったときのことだった。

 ここで何度か顔を見たことがある男は、自分と同じなろう作家だった。

 そいつが編集部員と言い争っている。


「契約書は印税払いになっていた! 何回も確認したから絶対間違いない」


 そう暴れようとする男に、編集部員は冷静に契約書を見せつけた。

 俺のときと同じだ。

 要が思い出したとき、男が激昂した。


「それが買い切り! しかもたった五万円! この契約書はニセモノだ!」

「何をバカなことを」


 男は編集部員に掴みかかった。しかし編集部員は平然と突き飛ばした。

 編集長以下数人がサスマタを構えていた。


「俺は契約書を持ってきた! 見てみろ。ほら! ほら」


 男は後ろに引きながらも契約書を見せつける。


「印税6パーセントだぞ! 払え! いますぐ払いやがれ」

「その印鑑は何だ」


 編集部員が指摘した。

 出版社の押した印鑑が二通の契約書で違うことに、男は驚愕した。


「こんなことが」


 編集部員は冷たい声を向けた。


「この契約書はお前が勝手に作ったものじゃないのか」

「そんなはずは! そんなはずは」


 取り囲む編集部員たちがあちこちで失笑している。

 怒りに我を忘れたのだろう。男は暴れた。おっという間に捕えられ、その体が床に押されつけられた。すぐに警察官が駆け付けた。


「こいつらが! こいつらが俺の金を」


 手錠が後ろ手に嵌められる。

 あのとき、もしかしたら自分もこうなっていたかも知れない。

 他人事だった。なのになぜか悔しかった。


 ――――――――


「俺の小説は売れた! 俺をたくさんの読者が認めてくれた! 努力なしでも成功した! 俺は天才だ! なのにこの仕打ちかよ」


 ビルの外で、パトカーに押し込まれる男。


「お前ら絶対殺してやる! 覚悟しておけ」


 捨て台詞はドアの向こうに消えた。雑魚相手にサイレンは不要だった。静かにパトカーは発進した。


 ビルの外に連れ出される男を、要やほかの作家が凝視している。

 編集部員は冷たく見下し、その作家たちの横でわざと声を上げた。


「やっぱり底辺は単純ですよね」

「全くだ。昔の文芸作家はそれなりに知性があったからな」

「まあ、変人ばかりですがね」


 編集長が呼応した。


「根拠のない欲望を垂れ流すだけの奴らか。さて飯にするか。今日は俺が奢ろう」


 編集長が鼻で笑うと、編集部員は厄介払いのパーティだとはしゃいだ。

 彼らが作家たちの横を素通りしてゆく。

 要にもはっきり聞こえた。


 ゴミクズめ。



 ********



 底辺の心理を全身に受けた恐ろしさ。おぞましい体験は、ネットで特定されそうになったことで増幅され、いまの恢復はその底辺以下の存在として、大学でもコソコソと隠れるように過ごしていた。

 人目につかないように移動して、最低限の講義だけに出席した。


 すべてのSNSから足跡を消去したのに、奴らは彼が学生であること。このあたりに住んでいること。実家のある場所、出身高校まで特定していた。


 このままでは、ボクは。


 ゴミ袋が部屋を埋め尽くしても、わずかな切欠がこの日常を決壊させないかと考えると、どうにもならず、陰鬱な日々は恢復を押しつぶしていた。


 こんなに怖いのに、お腹は空くんだ。


 

 恢復は早足でいつものコンビニに向かう。出来るだけ短時間で選ぶ弁当も飽きた。

 レジで精算したときだった。

 ポケットに手を突っ込んで、その指の感触に驚いた。


 全く手応えのないそこには、ここに来るまでは確かに財布があったんだ。

 財布にはキャッシュカード、クレジットカード、使えるお金の全てが入っていた。


 最後の頼りのスマホの電子マネーの残高は、ほぼゼロだった。


 真っ青な顔で、何も手にせずコンビニを出た恢復は、目を皿のようにして来た道を戻った。それから近くの交番に向かった。

 わずかの期待を持っていた恢復だが、そんな都合のいい話はなかった。


 アパートに帰って、こんなときどうすればいいか。

 ネットで検索して、銀行に電話する。

 口座は手を付けられておらず、無事に凍結された。


 財布を拾ったのは。財布を届けなかったのは、貧困な連中かも知れない。

 いやそうに違いないと、恢復は無性に腹を立てた。


 ――――――――


 ワンルームのアパートを探し回り、ようやく見つけたのは小銭が数百円だった。


 口座はしばらくは使えない。

 恢復はスマホから電話を掛けた。

 しかし、電話がつながると、彼は予定していた行動を切り替えたのだ。


「か、母さん。間違って掛けただけだよ。ごめん」


 恢復は慌てて電話を切った。


 僕だって大学生だ。

 親に頼らなくても、やっていけるところを見せたいんだ。

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