【5】貧しさにつけこんで

 次の日は日曜日で、恢復は早朝の電車の座席に腰を落としていた。

 銀行の口座も、クレジットカードも損害がなかったことで、少し安心した。

 それでも、空気を運ぶ車内がが目的地に近づくにつれ、機嫌が悪くなった。


 ――――――――


 ほかの日雇いを待つ駅前でも、運転中の車内でも男は咥えタバコだ。

 世間話などは何もしないくせに、仕事場である倉庫に着くと、高圧的になった。

 昨日と同じ作業が始まると、すぐに手や足が出た。


「何回同じことを言わせる!」

「真面目にやれ!」

「聞いてるのか!」


 怒鳴られ、殴られる底辺たちに混じって、恢復も同じ扱いを受けていた。

 ここに来ている奴らは自堕落が原因で底辺に堕ちた連中だ。でもボクは違う。

 こんな奴らとは。


 恢復はとっさに鉄の棒を掴んだ。そして背中を向いていた男に叩きつけた。


「このやろ」


 男が全力で蹴飛ばしてくる。作業中の底辺が慌ててその場から離れる。

 恢復が作業台に背中をぶつける。

 男が容赦なく殴ってくる。恢復が鉄の棒を縦に振り下ろす。

 男が後ろにのけぞり、頭を抱える。


 恢復は迷いなかった。

 立ち上がり、塞ぐ手ごと棒を振り降ろす。

 悲鳴が上がるが、それはもっと攻撃していいという合図だった。



 こんな修羅場に慣れているはずの底辺が震えている。

 こんな修羅場で日常的に当事者のはずの底辺が恐れている。


 底辺ならば、この男のような胡散臭い奴に搾取されるのがお似合いだ。底辺だから、こんな酷いバイトで上等だ。なけなしの給料を、享楽的な娯楽で使い果たす連中だ。努力を放棄した連中にまともな未来はない。世捨て人、孤独死、犯罪。全てが自業自得だ。そう思っていた。


 でも違うんだ。

 彼らはこんな労働しか選択肢がないんだ。

 この労働がおかしいと感じないんだ。

 周りが誰も努力しないから、最初から努力を考えないんだ。


 まともな教育さえ受ければ、ここに居ることはあり得ない。


 政府は貧困者に何をしてきたのか。金を配るのではなく、努力させることで底辺から脱出させようとしたのではないのか。

 それを教えてくれたのは、一度は軽蔑したあの人だった。

 


「やめろ! もうやめろ」


 駆け付けた社員たちによって、恢復が両手を抑えつけられる。


「これ以上やると逮捕されるぞ」

「黙れ!」


 興奮した恢復の力は凄まじく、大人の男数人でも止められない。

 派遣会社の男は痛みによろけながら、恢復に殴りかかろうとする。


「やめてください」

「うるさい!」

「このままじゃあ警察沙汰ですよ」


 その男も社員に体を止められる。

 男は羽交い締めにされながら、同じような体勢の恢復に全力で詰め寄った。

 しかし社員たちの険しい視線に、男は拳を退くしかなかった。


「クビだ! 今日の給料も没収する」


 社員は恢復を外に連れ出した。その間も恢復は罵声をぶつけ続け、遠ざかる男は買い言葉だ。倉庫から叩き出されると、眼前には重い鉄の扉が立ちふさがった。

 はじめてのアルバイトは二日間で終わった。



 ********



 なろう小説が大ヒットすると同時に、労働を主とする社会が大きく変わってゆく。

 しかし、野党の青年部を頼って現れた男は、慈たちに不満をぶつけていた。


「お前らは虐げられた働者の味方じゃないのか」

「あなたは別に虐げられてはいません」

「なんだと。仕事がないのに。どこも雇ってくれないのに」

「生活保護があるでしょう」

「自宅のローンが残っているのに生活保護が貰えるわけないだろうが」


 この可哀そうな労働者を助けろと男は唾を飛ばした。

 しかし青年部の男子は冷たく言い放った。


「家がある。家族がある。そんな恵まれた人をなぜ助けなければいけないのですか」

「なんだと。お前らの言う通りにしたのに」


 男は掴みかかったが、男子は構わず蹴りを入れた。

 

 ――――――――


 男はブラック企業勤めだった。

 彼は事務所で社長と言い争っていた。


「残業代を払わない会社なんか訴えてやる」

「ならお前はクビだな」

「うるさい守銭奴が!」

「残業代くらいで行政が動くと思うなよ」


 ――――――――


 数日語、社長が青い顔をしていた。


「まさか本当に訴えるとは」


 押しかけて来たのは警察でも労働基準監督署でもなかった。

 数百人の労働団体が狭いオフィスを埋め尽くしたのだ。


「営業妨害だ! 警察を呼んでやる」

「その前に残業代を払ったらどうですか。証拠はすべて提出済みです」


 労働者を先導してほくそ笑んだのは、党の青年部だった。


「どこに提出した」


 さあ。と首を傾げると、マスコミが駆けつけたのだ。

 カメラが向けられると、慌てて高級外車で逃げ出す社長。

 事務所にカギを掛け、従業員は中で引きこもった。


 ――――――――


 悪事千里。まさか。

 何も悪いことなどしていない。家も車も正当な役員報酬で買った。経営が思わしくないから残業手当を払わなかった。会社が倒産して全員失業するより余程ましだし、それが従業員のためだと信じていた。


 なのに報道後、銀行が融資の貸しはがしに動いたのだ。

 このままでは本当に会社が潰れてしまう。


 経営者は従業員との和解に応じることになった。


「残業代を払ってやる。これでこの会社を出て行ってくれ」

「何か誤解しているようですね」

「どういうことだ」


「解雇は無効です。和解したければ三年分の給料を払ってください」

「何をバカなことを」


 しかし、元従業員の後ろから出てきたのは弁護士だった。


 「拒否すればこの会社の悪評がもっと広まりますよ」


 そして会社を取り囲むデモ隊や野次馬。


「お前らどこから沸いてくるんだ! 暇なのか! こんなクズの味方しやがって」


 事務所はいつの間にか落書きだらけになっていた。


「従業員を従えるのが経営者の誇りだ。意地を見せてやる」


 そう高笑いした経営者から、社員が次々と去ってゆく。

 口座が停止され、手形は奪われ、憎しみと恨みが渦巻く。それなりの期間存在していた小さな企業だったが、消えるのも早かった。


「ここまで有名になったら、他の就職はないぞ」


 それが社長の最後の言葉だった。



 ――今までなら将来を考え、こんな待遇でも受け入れていたのに。

 そんな拘りは無駄だと気がつきました。

 正当な報酬は戦って手に入れるべきです――。



 男はインタビューに誇らしげに答えた。


「ブラック企業は全て潰さなければいけない」


 ――――――――


 しかし、経営者の言葉は男の将来を引き当てていた。


「500社落ちた! 転職先がない! どんなブラック企業も雇ってくれない」


 悪い意味で有名になった男は、再び野党の青年部を頼ろうとした。

 しかし、返ってきた言葉はあさっての方を向いていた。


「いまは辛くても、社会が変わればきっといい仕事に就けます」

「いま仕事が欲しいんだ」

「失業保険があるでしょう。保険が切れたら役所に行けばいいでしょう」

「生活保護なんか望んでいない! 家を手放したくない! 仕事をくれ。お前ら顔が広いんだろ」

「あなたを助ける必要はありません」

「騙したのか」


「もっと悲惨な境遇のひとがたくさんいます。恵まれた人を助けるのは無意味です」

「なんだと」


 殴りかかった男は青年部の返り討ちにされた。

 泣きながら逃げてゆく男を、慈はただ目で追うだけだった。

 企業に勝ったあいつはは、恵まれてる。

 そう、青年部は教えてくれた。



 ********



「みんなで生活保護を貰いましょう」

「ほとんどの中小企業、非正規の人は労働者はもらう権利があります」


 各地でそう演説する青年部の周囲には、いつも人だかりが出来ていた。生活保護が正当化される報道の中、懐疑的な人ももちろんいた。


「生活保護? そんなの貰えるわけないだろ」

「俺は自分で就業を拒否しているのに」

「別に病気とかで働けないわけじゃないのに」


 しかし、役所に数百人規模で押し掛け、実績を作ることで、彼らを変えていった。


「今までは声を上げる貧困者が少なかったから、社会から無視されていた。生活保護だけじゃあない。立場の弱い人が正当な権利を求めるには、数百万人のデモを毎日起こすことが必要なのです」


 実際に、都市部では交通は遮断され、市民生活は混乱していた。


「政府与党は必ず折れます。何でも言うことを聞くようになります」

「わたしたちは正しいことをしている」

「今まで虐げられてきた俺たちの逆襲だ」

「上級国民に謝罪させよう」

「我々がいいと言うまで謝らせよう」

「不当に奪われてきた資産を取り戻そう」


 金持ちから奪い取ることが出来る。

 そう確信した彼らは、同じようにブラック企業で戦う従業員の支援を続けた。万人単位の活動も当たり前になっていた。従業員は躊躇なく会社を辞め、人手不足が倒産を加速させた。



 ********



「欧米ではこのくらいの社会保障は当たり前だ」

「この社会をひっくり返す。僕たちが正しいことを証明する」


 彼らの手にはスマホや、なろう小説があった。

 努力なしで叶う希望。根拠なしで手に入る富。


 活動を先導する青年部は、彼らが理想の通りに動くことが嬉しくて、連日高級レストランを貸し切り、騒いでいた。

 彼らの輪の中で、慈はワイングラス片手に俯いていた。

 これが理想なのに。

 社会が、望んだものとは違う方向に動いているような気がした。

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