第3話 有卦に入る日々

【1】なろう界のエリート

 それ以来、那賀なか 恢復なおるは、なろう小説の世界に潜入するのが日課になった。



 板野いたの 雄武おむは電話番号と、本物のプライベートSNSを教えてくれた。


「ところでここ、本当に研究施設なんですか?」

「ほかの人は那賀くんの居ないときに来ているよ」


 その研究者たちを一度も見たことがない。

 それでも現実はここにある。それを訝っても仕方ないとも思った。

 恢復はこの部屋のカギも手に入れた。


 ――――――――


 襖の向こうは二間続きになっているアパートだ。そちらにもドアがあり、台所やトイレもある。一度だけ見せてくれたが、同じように空っぽで、生活感はゼロだった。


 雄武は掃除が面倒だからと、向こうの部屋から襖にカギを掛け、入れないようにしていた。恢復はとくに気にも留めなかった。


 なろう作者は自分のルサンチマンを小説にぶつけ、辛い現実から逃避する読者が集い、彼らは作者と共有するコミュニティを生み出していた。

 コミュニティは、数千、数万といわれるなろう小説の数だけ存在していた。


 恢復はその世界に片っ端から潜入し、ハリボテの街を破壊し、人形のような登場人物を踏みつけ、読者と作者を切り刻み、現実の痛みを突きつけた。一度破壊されたコミュニティは魅力を失い、逃げ場所を失った読者も作者も、辛い日常をそれでも受け入れるしかなかった。


 楽しかった。彼らが困り果て、仕方なく親や学校やブラック企業。そんな怨憎会苦の世界に進む姿は、恢復の未来を明るく照らした。何があっても努力は続けなければいけない。立ち止まれば愚かな自分を晒し、嘲笑を受け続ける。


 それが死よりも辛い罰になる社会。それが正しい社会だと、一人でも多くの人に気付いてほしかった。



 命乞いをする作者もいた。

 僕たちの最後の希望を壊さないでと土下座する読者もいた。

 だが恢復は、彼らへの憐れみなど微塵にも感じなかった。


 この世界の恢復は本当の姿ではなかった。アバターと呼ばれるネット世界の仮の姿は、彼の正体を特定させなかった。だから気軽に暴れることが出来た。


 残虐に作者と読者を殺したあとは、その小説だけでなく、同じシチュエーションのなろう小説までもがアクセス数が激減したのは、痛快だった。


 ――――――――


 雄武は深夜残業ばかりだったが、少しの合間でも来てくれた。講義が終わるとアパートに入り浸り、今まで潜入した数十冊の文庫本に囲まれ、講義の課題をこなす恢復に、お菓子やテイクアウトの食事を持ってきてくれた。


 どんなむごい方法でなろう小説の世界を破壊したのかを恢復は自慢気に語り、雄武は頷き手を叩いて喜んでくれた。


 ――――――――


 突然の作者の廃業。突然の売上低迷は、ネットではすっかり話題になっていた。

 しかし読者の多くは、甘美な夢想を捨てられずに、辛い現実を忘れるために、別のなろう小説にのめり込んでいった。なろう小説の隆盛は変わらなかった。


 しかしメリットは大きかった。


 『謎の人物』が突然現れ、なろう小説の世界を破壊するたび、恢復の小説へのアクセス数や、高評価が増えていったのだ。

 それが恢復の血肉になっていた。

 相変わらず大学ではぼっちだったが、そんなことは彼にはどうでもよかった。


 そうして、一か月が過ぎた。



 ********



 大学でも、なろう小説は話題だった。講義室で、中庭で、学食で、貧困な学生が貪るように読んでいた。彼らは自分の境遇を忘れたくて、努力せず強くなることに憧れ、現実も同じように変えたいと、行動し始めた。


「何度もセミナーに行くうちに、僕は気がついたんだ」

「この社会はどれだけ努力をしても幸せになれない」

「だったら、努力しないで成功したい」


「ブラック企業で働かないことが大事だってセミナーで言ってた。ブラック企業の利益になることは、優良企業を潰し、自分たちの首を絞めるのと同じなんだ」


「努力なんてのは強者の言葉よ。弱者は強者から成果を奪うしか生き残れないの」

「大学を卒業してもロクな仕事がない」

「私たちは奴隷にならない権利がある」

「これは憲法でも認められている」

「働かなくていい。働くに値する職場が見つからない限り」


 セミナーで植え付けられた価値観が、彼らを怒りに駆り立てた。


 それに答えたのは、セミナー参加を先導していた海部かいふ めぐむだった。


「そうだよ。貧困は努力では変えられない。セミナーで言っていた通り、すべて政府のせい。役人は大企業を優遇して、莫大な賄賂を受ける腐った存在なのよ」


「俺たち貧困層を笑ってやがる」

「上級国民め! 絶対許せない」


 慈は彼らに燃料を注いだ。


「あいつらがわたしたちから奪った富を取り戻すのよ。団結して働かないことで政府を困らせるの」


「楽して豊かな生活は先進国の基本だ」

「ほかの国は働かなくても生きていける」

「この国を外国と同じようにする」

「差別も貧困もない本当の幸福をこの国に作る!」



 さすがに恢復は彼らに突っかかろうとは思わなかった。姿を隠すように通り過ぎると、恢復よりももっと金持ちの学生も、同じように避けていた。彼らは貧困層とは関わらないように、常に彼らだけで固まっていた。


『あいつらは努力を放棄し、自己責任から目をそらした』

『底辺は底辺のままだ。絶対に這い上がれない』

『何も語らず、何も教えず、あいつらが捨てた富を奪えばいい』


 大学は二つに分断され、お互いに接点がない。それが当たり前になっていった。



 ********



 日曜日の昼間に雄武と会ったのは、百年前からの長屋が現存する通りだった。歴史ある二階建ての店は昼間でも薄暗く、スマホで呼ばれるままに奥に進む。すると光が差し込む裏口に出た。


 取り囲む街の喧騒から隔絶された、芝生の中庭だった。

 そこにテーブルと椅子とパラソルが並べられ、青空の下、別世界だった。


 オリーブオイルとニンニクが胸を豊かにする。

 生ハムの前菜から、平たいパスタや、塊の牛肉が運ばれてくるコース料理。

 トマトとチーズとバジルのサラダは、カプレーゼというらしい。


「今度の敵は大物だ」

「どんなふうに? 板野さん」


 雄武はノートパソコンの画面をくるりと向けて、恢復に見せてくれた。


勝浦かつら 壮哉そうや。売上では三本の指に入るなろう作家だ」

「小説の表紙だけ? 顔はないの」

「顔も本名も明かされていない」

「ふうん」


 恢復は料理にガツガツしていた。


「こいつの本はコミカライズされ、テレビアニメにもなっている。ソーシャルゲームも好評だ。いままでの泡沫作家とは較べものにならない人気だ」

「それは、すごいですね」


 食べるのに夢中で、恢復はまるで相手にしていない。


「本当に大丈夫なのか。那賀くん」


 心配した雄武に、恢復はゆるく言い切った。


「板野さんも心配性だなあ。いままでが弱すぎたんです。多少歯ごたえのある奴の方が倒しがいがあるってもんです」


 歯ごたえのあるのはスペアリブだとばかりに、恢復は骨をしゃぶっていた。

 一抹の不安を抱くのは雄武ばかりだ。


「そりゃあ。雑魚をいくら倒しても効率がよくないと、この作家を探してきたのは私だ。だがなあ」


 そんな不安に、恢復は答えた。


「このまま底辺をのさばらせておくと、複雑さや高度さを持つゲームや、努力で未来を切り開く小説は、消え去ってしまうんですよね」


 恢復は目的を忘れていなかった。


「一つ聞きたいんですが。板野さん」

「はい?」


 恢復はグラスのサングリアを飲みながら聞いた。


「社会で成功している人は、どんな本を読んでいるんですか?」


 そう聞く恢復に、雄武は俯いて小さく笑った。


「那賀くんの言う、高度で、努力を学ぶ小説だよ。もっとも彼らの需要だけでは商売にならないから、出版点数は減る一方だがね」


 それは諦めの笑いだった。

 緑色のソースは、ジェノペーゼというらしい。

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