CHAPTER12 2018年4月28日午後7時24分

 玄関の扉を開けると、鶯色の瞳と目が合った。

 玄関のすぐ脇に設置された台所を、肉のない長身が占拠している。その手元には、熱せられた鍋が一つ。

 「おかえり」

面食らった顔で、長身の女――神田かんだあやめはそう言った。

「ただいま戻りました」

朝霞あさか祐一郎ゆういちろうもまた、内心の驚きを押し隠しながらそう応える。夏の気配を覗かせ始めた夜気を振り払うように玄関の扉を閉めると、煉瓦色の髪が至近距離で揺れることになった。

「悪い、狭いよな」

「いえ、大丈夫です」

蛇を思わせるしなやかさで身を捻った菖の謝罪を受け流し、彼は窮屈な革靴から足先を救い出す。そうして室内に踏み込んだところで、改めてガスコンロに火がついていることを認識した。

「料理ですか?」

几帳面な動作でスーツをハンガーにかけながら、彼は問う。

 問われた菖は、少しだけ照れくさそうに片頬を吊り上げた。

「おう、カレーだ」

と答え、彼女は自慢げに鍋に満ちた茶色い液体を見せつける。その様を百点だったテストを掲げる小学生に重ねて、祐一郎は微笑んだ。

「バイト先の奴に色々聞いて、材料は帰りに買ってきた」

そんな祐一郎は一瞥もせずに鍋を睨みながら、彼女は続けた。

「ユーイチには世話になってばっかだし、これくらいはやらねぇと」

緑がかった茶色の瞳には、歪みのない光。

 それが祐一郎にはひどく眩しいのだ。

「借りた金もまだ返せてねぇしさ」

鍋の中で、カレーがコトコトと喚く。

 それを彼はスーツのポケットから取り出したスマートフォンを片手に、ただ眺めていた。

「まだヘタクソすぎて、家事全部やるとまでは言えねぇけど」

邪魔だったのだろう、彼女のほっそりした指先が赤丹色の髪を耳にかける。

 ――――あと髪が赤い

 耳の奥で蘇る残響。それはまっさらなシーツへと滴った一滴のコーヒーだ。白が黒に飲み込まれ、思考から遠ざけていた点すら、さながらオセロのように黒く裏返っていく。

 どうする、と誰かが問う。

 職務を果たせ、と何かが詰る。

「ユーイチ?」

と、彼女が覗き込む。

 心底から彼の表情を伺うその目が、ピンを刺すが如く強制的に彼の思考を停止させた。

 純粋に、真剣に、己の身を案じる視線に応える術を彼は持っていない。そんなものを向けられた経験など彼にはない。

 朝霞祐一郎は、『十簑とおみの』という血が持つ異能の継承力を確かめる、ただそれだけのために産み落とされたモノだ。十簑家にとっては異能の有無と強度さえ確認できた時点で用済みなのであり、ここまで育てられたのも、一族の異能の片鱗を宿した以上軽々に放り出せなかったからに過ぎない。

 いうなれば家電の外箱だ。重要だったのは中身実験であり、外箱ゆういちろうそのものではない。さりとて捨てるには躊躇われるが故に、大抵倉庫の隅に放置される代物。

 そんな地獄を、祐一郎は無関心と思考停止で乗り切った。

 故に知らない。嫌悪と無関心以外に返す言葉を。

 故に分からない。理性と感情の乖離が。

 故に気づけない。己の重大な過ちに。

 「……いえ、少しぼんやりしてしまいました」

体内の動揺を脇に除け、祐一郎は微笑む。

 手にしたスマートフォンを置くと同時に、己の目を覗き込む猫のような瞳から視線を逸らした。

 「カレー、冷めないうちに食べましょうか」

 「おう、そうしようぜ」

言うが早いか、祐一郎は滑らかな所作で盛んに湯気を吐き出すカレーの傍に腰を落ち着ける。対面に陣取った菖は、自慢げな笑みを浮かべてその様を見ていた。

 少し甘いカレーが半分ほど消えた頃、不意に菖が口を開く。視線だけで先を促した祐一郎の正面で浮かぶ鶯色の双眸には、先ほどまで満ちていた光がどこにも見当たらない。

 「やっぱ、髪染めた方がいいのかな」

数瞬の後、薄い唇から滴り落ちたのはひどく色の薄い声だった。

 蛍光灯の元で輝く煉瓦色の髪を摘まみ、彼女はひび割れた笑顔を浮かべる。黄ばんだ壁を背にしたそれは、劣化した油絵のようだ。

「何かありましたか?」

と、祐一郎は通り一遍のセリフで心配を口にする。

「バイトの面接で、髪を黒か茶色にすんならいいって言われたんだよ」

菖はばつが悪そうに、口の中でもごもごと呟く。

「今のバイト先は何も言わねぇけど、やっぱ目立つしさ。これから先のこと考えたら、黒とかにした方がいいのかなって」

経緯を喋り切るまでの間、猫を思わせる緑がかった茶色の瞳は机の上を泳ぐばかりで祐一郎へは向けられなかった。

 祐一郎はと言えば、カレーの乗ったスプーンを皿の上に浮かべたまま、身じろぎもせずに微笑んでいる。

「それはあなたが決めるべきです。私が言えるのは、無理をする必要がないということだけですよ」

黒縁眼鏡の奥に押し込められた双眸には、良く磨かれたドアノブのような光があるばかり。

 その視線の先では、菖の笑顔がスプーンに歪んで映っていた。

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