CHAPTER16 2018年5月15日午後9時3分
「駅前でよかったのに」
同じデザインの制服に身を包んだ数名が発する好奇の視線から庇うように、
菖はできるだけ眼前の男――
「少しばかり早く着きすぎましてね」
綺麗に舗装された道路のような声で祐一郎は嘯く。普段通りの無感情を装ってはいるが、黒曜石を連想させる瞳の奥にからかうような笑いが見え隠れしていることを、菖は見て取った。
「そうかよ」
と試すように双眸を覗き込む。
もっとも、彼女が照れくさくなる前に押し切れたことなど、これまで一度としてないのだが。
案の定今回も不機嫌そうに目を逸らし、菖は女性にしてはやや低い声音で捨て台詞を吐いた。
「着替えてくる。待ってろ」
十分ほどして彼女が戻ってきたとき、祐一郎は店員がつくった輪の中にいた。
かごめかごめのようだが、その目的は後ろに立つ人間を当てることではない。そしてまたセールスでもなく、突然店に現れた祐一郎への質問である。
そうして群がる同僚を牧羊犬のように追い立てて、菖は祐一郎を店の外に引きずり出した。
暗闇を街灯が点々と照らす中を駅へ向かいながら、菖は祐一郎へと静かな抗議を込めて鋭い視線をぶつける。どこか蛇を思わせる顔立ちと相まって、それは気の弱い人間ならやってもいない罪を告白できそうな迫力を秘めていた。しかし、祐一郎は霧雨を無視するように、特に気にした様子もなく人混みをスイスイとすり抜けている。
「楽しそうな職場でしたね」
その上こんなことを宣うのだから手に負えない。
そんなことを思って嘆息し、菖はそれっきり恨みがましい目をやめた。考えてみれば、菖がこの男に勝てた試しはないのだ。
「まあな。大学生がほとんどだし」
投げやりな調子で応じながら、彼女はICカードを勢いよく自動改札機に押し当てることで己の機嫌を表明してみせる。
もっとも、既に改札機を通過していた祐一郎には届かぬアピールであったが。
平日の夜の電車は、スーツ姿の大人で混雑していた。帰宅ラッシュのピークは過ぎた時間だが、それでも乗車率は百パーセントを超えている。似たような色合い、似たようなデザイン、同じような髪形で構成された人混みの中にあって、菖の赤丹色の髪はひどく目を惹いた。
「なぁ」
と、やや人の消えた車内で菖は不意に口を開く。その視線の先は傍らの優男ではなく、ドアの上に設置された液晶パネルに注がれていた。
「ユーイチはなんで、警官になろうと思ったんだよ」
連続強盗傷害事件について、大げさなまでに危険性を並べ立てた報道が表示されたパネルをじっと見上げ、菖は言う。その様は獲物から目を離さずに舌を出し入れする蛇のようだ。
「急ですね」
特別動揺したふうのない、むしろずっとその問いを待ち構えていたかのように波風のない態度で、祐一郎は応える。
「別に」
軽い欠伸と共にそう吐き捨ててから、彼女は視線を車窓の外へと投げ出した。
「将来のために勉強するとか、やりたいことがあって大学行くとか、そういうの、アタシの周りにはなかったからさ」
菖はそう言うと、頬を歪めるようにして笑みを形作った。
「何故と言われると難しいですね」
少し間を置いてから、祐一郎は唐突にそれだけ呟いた。車内に響く振動音に負けてしまいそうなほど微かで、弱い呟き。
「誰かさんと違って、家の意向に逆らう熱意を持っていなかっただけですよ」
感情を読み取らせまいとする彼の笑みは、まるで干上がった大地のように、菖の目には映った。
「どういう意味だよ」
と、彼女は少しだけ低くなった声で切り返す。同時に緑がかった茶色の瞳が獲物を狙う猫のように輝いた。
しかし、祐一郎は頓着した様子もなく、よく磨かれた大理石のような態度を崩さない。
「親の意向に従ったまで、ということです。特別な動機も、大それた理由もありません」
彼は嘯く。いつも通りの声で、いつも通りの笑顔で。
それは、菖を目の前で電車の扉が閉じるのを眺めるような気持ちにさせる。
喉元を鷲掴みにされるようなそれがひどく不快で、彼女はその姿から目を逸らした。
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