CHAPTER9  2018年4月24日午後6時31分

 「警察署内に不法侵入とはいい度胸だな、芳賀沼はがぬま

己に与えられた執務室の扉を開けるなり、渡会わたらい綾子あやこは全力でモーニングスターをぶん回した。

「やあ、らいちゃん。遅くまで大変だね」

真正面から叩きつけられた殺意にはまるで頓着せず、侵入者は革張りのソファに虫を思わせる体躯を埋めて悪びれもせずに笑う。蛍光灯の灯りを乱反射する銀の髪、視線だけを綾子へ向ける一対の琥珀――芳賀沼智音ともねである。

「何の用だ。調査報告なら貴様のところの調査員に伝えたはずだが」

「少し真面目な話があってね」

椅子に腰かけた綾子へと、勿体付けた言い回しが降ってくる。暗闇であれば骸骨と見まがうだろう痩身が革張りのソファから起き上がり、姿勢を正した。

「君の言う通り、捜査状況は伊乃里いのりちゃんから聞いてる。その上で言っておきたいことがあったから、こうして遠路はるばる来たわけさ」

と、彼女は狂言回しのように朗々と嘯く。肉体の姿勢は正しても、どこかマッドサイエンティストじみた楽しげな姿勢を崩すつもりはないらしい。

「前置きはいい。貴様の減らず口に付き合っていられるほど、私は暇ではない」

綾子はギロチンの紐を離す処刑人よりも冷徹に、彼女に向けて矢を放つ。その効果のほどは糠に釘、馬の耳に念仏というところだが。

 「まあそう焦らず。まずは手持ちの情報を確認しよう。以前の仲間割れからこっち、犯人は単独で犯行を続けてるだろう? 三日前の事件で既に五件目、日に日に手口は攻撃的になっている」

智音はにやけた顔で早口に唱える。綾子にとってはもう何十回と耳にした情報だ、当然彼女の眉根は寄っていく。

「だから浸食を警戒しろという話だっただろう。それは既に聞いた話だ。二度も言う必要はない」

憮然とした口調で放り投げた綾子の言葉は、智音の琴線に触れたらしかった。

 骨の周りに皮を貼り付けたような人差し指が綾子の眉間へと向けられる。その指の主は、新しい玩具を与えられた赤子のように笑っていた。

「そう、そうとも! 以前わたしは君たちにそう警告した。君のことだ、一つの可能性として常に考慮していただろうさ。何を隠そう今日の本題はその件でね」

一対の琥珀が弧を描く。蛍光灯を反射して輝く銀の髪は、彼女を照らすスポットライトのようだ。

! 少なくとも、現状では可能性はほとんどないと言わざるを得ない」

本当に残念だ、と取ってつけたように付け足して、女は銀髪を振り乱して笑う。

 対照的に、綾子は一切の感情が抜け落ちた顔で、鳥を思わせる双眸に苛立ちだけを爛々と点している。

「貴様はプロとして意見を述べたはずだ。それが間違っていたというのなら、今の考えを示せ」

「もちろんそのつもりだよ」

苛立ちに燃え盛る炎を突きつけられても、なお琥珀は自動車のライトのように爛々と輝いている。その様に、綾子は悟られぬよう嘆息した。火を恐れない獣は、それだけで質が悪いのだ。

 軽い音を立てて、昆虫を思わせる長躯がソファに沈む。

 その奥から、早口言葉のように声が流れ出した。

「犯行を始めた当初、犯人は理性的、あるいは犯行に対し消極的だったにもかかわらず、警官を殴った後から人が変わったように狂暴になった。それに伴って異能もどんどん強力になっている。最初は二メートル近く飛び上がった程度だったのに、今じゃ五階建てのビルの屋上まで壁を駆け上がったんだろう? 既に浸食はかなり進んでいると言っていい。――――と、まあ考えていたんだが。聞けば、犯人は防犯カメラを綺麗に避け、目撃されるような愚も犯していないそうじゃないか。つまり。以前話したから覚えているだろうが、浸食っていうのは脳の領域が異能に蝕まれていく現象のことさ。異能が強化されることと引き換えに、理性や思考能力は失われていく。定められたキャパシティーを配分し直すと言い換えてもいい。だが今回の犯人には、未だ自らに都合のいい時間や場所を判断する能力があり、様々な条件を加味して逃走ルートやターゲットを選択する計算高さがある。これじゃあ辻褄が合わない」

滔々と語られる推論は、綾子が抱えていた違和感に説明をつけていく。耐えきれず、彼女は呟いた。

「ここ数回の被害者はみな出会い頭に殴られたり、背後から蹴り飛ばされたりしている。手口が乱暴になっていると言えばそれまでだが、それ故に被害者はみな犯人の姿をまともに覚えていない。――――それも計算だとすれば、少なくとも力任せに暴れている馬鹿ではないということか」

「話が早くて助かるよ」

と、ソファの背もたれに埋もれたまま、蜘蛛のような女は天井を仰ぐ。

「つまりわたしの結論はこうだ。犯人に浸食など起こっていない」

地球は球体だとでも言うような調子で、彼女は結論を放った。

「……異能の向上はどう説明する」

一仕事終えたとばかりに大きく息を吐いた智音。あくまでも自身のペースを崩さない彼女に向け、綾子の鋭い眼光が突き刺さる。

「仮説は二つあるんだ。一つ、これまでセーブしていたものの最近は全力を出し始めたという説。もう一つ、身体能力の向上は副次的作用に過ぎず、それ故に出力を自由に調節できるという説。前者なら警戒すべきは最大出力がどれくらいなのか? という点だね。後者であれば異能の主作用を特定するまでは不用意な動きは控えた方がいい。浸食ではない以上、変異性か相伝性かという問いも振り出しだ。個人的には異能の強度から考えて相伝性の先祖返りなんかが怪しいと睨んでいるんだが、まあはっきりとは言えない。捜査に進展はないのかい?」

「現在部下が手分けして捜査を進めているが、手がかりは見つかっていない。被疑者が絞り込めていない以上、異能の特定には今しばらくの時間を要するだろう」

お手上げだ、とでも言わんばかりの言い草だが、綾子の風切り音のような口調がその印象を上書きする。

 雑音の一つもない執務室に、二人の視線がぶつかり合う衝撃音だけがこだまする。その果てに、智音は虫の足を思わせる細さの腕だけ伸ばし、手をひらひら振った。

「パトロールにれいちゃんを貸し出すよ。彼女なら向こうの動きにも対応できるはずだからね」

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