CHAPTER14 2018年5月10日午後11時14分

 朝霞あさか祐一郎ゆういちろうが普段の通勤ルートを辿る頃、世間は既に寝静まっている。ここ一か月近く、それがお決まりだった。

 彼とて好き好んでそのような状態に身を置いているわけではない。現代日本で異能を受け継ぐ一族や、陰陽寮に代表される常識外の組織には、各都道府県に設置されている捜査五課に人員を輩出する義務が課せられている。一方で、異能を受け継ぐ一族が最優先とする使命は一族の悲願に少しでも近づくことであり、当然そのような義務など面倒極まりない俗世のしがらみに過ぎない。

 その妥協点に、たまたま彼がいただけの話だった。一族として受け入れられない出自でありながら一族の力を持つ彼は、義務を果たし、なおかつ一族の懐は痛まない最良の駒だったのである。

 ただそれだけの理由で警官になり、ただそれだけの動機で続けている。彼にとって、警官という職務はそういうものであった。

 深夜の住宅街に人の気配はなく、街灯だけが虚しくアスファルトを照らしている。陽が沈むと途端に肌寒くなる空気の中、コツコツと革靴の足音をリズムよく響かせながら、祐一郎は己の肉体を家まで運び続けていた。

 途中、見慣れた公園の横を抜ける路地へと差し掛かったところで、祐一郎は足を止めた。同時に、彼の脳内を『何故』が支配する。

 それは一瞬の混乱、刹那の困惑。

 世界が一変するほどの美貌が、公園の中に浮かび上がっていた。

 祐一郎が己を認識したことを、彼もまた理解したのだろう。踏まれた公園の砂利があげる歓喜の声をBGMに、彼――――上留かみどめ美琴みことはゆっくりとした足取りで、呆然と立ち尽くす祐一郎の元へと歩み寄った。

「こんばんは」

と、美琴は天使の讃美歌すら霞んで聞こえる声で告げる。その一言を賜るために、全財産をなげうつことすら厭わない人間がいてもおかしくないほどの響き。

 だが、今の祐一郎にとっては、神罰を告げる託宣のように聞こえた。

「いい夜ですね」

と、彼は続ける。その一言一言が、心を震わす名曲のよう。

「……なぜ、あなたがここに」

凍結した頭脳でなんとかそれだけの言葉を絞り出し、祐一郎は死にかけの兵隊のように力なく呟いた。

 それを聞いて、美琴は微笑む。中性的な美貌は一切損なわれず、百合のように、芍薬のように、彼は笑っていた。

「その問いに意味はないでしょう?」

彼は言う。吸い込まれるほどに黒い双眸は真っすぐに祐一郎へと投げかけられ、彼を何もかも見透かされているような気分にさせる。

 否。事実、彼は何もかもを見抜いているのだ。

 それが美琴の持つ異能。単純にして完璧、唯一故に絶対の異能――――全知全能。全能の神を作り上げようとした一族の置き土産にして、限りなく成功に近い失敗作。それが上留美琴という少年だった。

 「そうですね」

祐一郎は美琴の問いを肯定する。

「警告ですか? それとも、断罪ですか」

次いで、彼は問う。その姿は神に悪行の果てを問う神学者のようでもあり、同時に己の罪を告白する参拝者のようでもある。

 だが、美琴は首を横に振った。その動きに合わせ、最高級の絹糸でできているような黒髪が、街灯の橙を吸い込んで輝く。

「いいえ。それはまだ越権行為です」

膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、祐一郎は遠のきそうな意識を握り締める。そうして初めて、己の手が震えていることに気が付いたのだった。

 そんな彼の様子など、美琴は気にも留めない。水晶のように透徹した瞳に読めない感情を湛えて、ただ微笑んでいる。

「今日はただ、確かめに来ただけですよ」

一言ごとに揺らされる頭蓋を必死で押さえ込むように、祐一郎は眼鏡を押し上げる。一度大きく深呼吸してから、彼は再び顔を上げた。今度は、真っすぐに美琴を見つめて。

「何を、と訊ねても?」

「ええ。ですがその前に一つ、情報提供をしましょう」

アドーニスも顔を隠すほどの美貌が少しだけ微笑みを引っ込め、代わりに真剣な顔をする。街灯のもとでも薄れることのない輝きを放つ一対の太陽が、祐一郎を釘付けにした。

 「彼女が犯人です」

それは神託であり、名探偵の一言だ。正しく、絶対で、また覆しようのない事実を告げる言葉。祐一郎が目を背け、耳を塞ぎ、口を閉じて意識から締め出していた可能性を確定させる死刑宣告。

 それは根拠の一つも示すことなく、ただ事実だけを提示する端的な言葉。だがそれがどれほど正確で、正解で、正言であるかを、祐一郎は常識の埒外で生きているからこそ痛いほど理解していた。

「それを踏まえて、これからどうするつもりですか?」

「……私が何と答えるかも、あなたには分かるのではありませんか?」

あくまで己のペースを崩さずに話を続ける美琴に対し、祐一郎がそう答えたのは咄嗟の思い付きだった。

 言い放ってから、あまりに意地の悪い言い方だったかと頭を抱えた彼の前で、美琴は血色の良い唇から笑い声を迸らせた。

 深夜の住宅街に充満した静寂を、小鳥が己の囀りを恥じ入るほどの笑い声がズタズタに引き裂き、黒の満ちる風景に彩を添える。

 「残念ながら、今の僕にそこまでの力はありませんよ」

一頻り笑った後で、彼は言う。そこには呆れも、苛立ちも、嫌悪もなく、ただ純粋な好奇の念だけが満ちていた。

「ただ可能性が見えるだけです。それを一足飛びに決定するほどの力はありません」

だから教えろ、と彼は言外に含ませて、祐一郎の瞳を見据えた。

 それを振り払い逃げ出すことは、彼にはできない。心理的にも、もちろん物理的にも。

「あなたの言葉が真実なら」

と、彼は己を見つめる双眸から目を逸らし、街灯に照らされてうすぼんやりと浮かび上がった、公園のベンチへと視線を投げかける。

「私は」

彼の脳裏を煉瓦色がよぎる。目の奥でニヤニヤと笑う顔が浮かぶ。耳の奥で己の名前を呼ぶ声がする。

「私は――――」

そこで、祐一郎は、そこから先に続く言葉が、己の中にないことに気がついた。

 脳を掘り返し、心を分解し、それでも、彼の探し物は見つからない。気づけば、開いていたはずの唇は閉ざされていた。

 唇を引き結んだ祐一郎の顔を見、美琴は春のそよ風のように穏やかに応じる。

「そうですか」

その言葉には、見損なったと失望する色はない。早く答えろと苛立つ色もない。ただ君の答えは理解したと、それだけを告げるための言葉だった。

「犯人は間違いなく彼女です。それだけは、

次いで、彼はそれだけ呟くと、挨拶もそこそこに踵を返した。

 闇の中にあって、彼だけのためのスポットライトのようだった街灯の照らす範囲から、あらゆる王が国を投げ出すだろう容姿を持った少年が立ち退く。

 それは幕引きの合図だ。舞台の幕が下りるように、闇が美琴と祐一郎の間になだれ込み、美琴の後ろ姿を覆い隠す。そうして美琴は、まるで湯の中の氷のように溶けて消えた。今の今までここにいたことが幻だったかのように、何の痕跡もなく、何の余韻もなく。

 そうして残された祐一郎は、ただ街灯に照らされて橙色に輝くアスファルトを見つめていた。

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