CHAPTER21 2018年5月30日午後11時59分

 そこにあったのは、地獄だった。

 翼をもがれた蜻蛉のように悶える人影が視界を占有する。

 ゾンビ映画のような呻き声が聴覚を埋め尽くす。

 鉄と酸の臭いが嗅覚を支配する。

 まともに立っているのは後から駆け付けた数人だけだ。連続強盗犯を捕えるために集められた精鋭たちは、生まれたばかりの赤子のように寝転がって泣いている。

 臨時本部から駆け付けた朝霞あさか祐一郎ゆういちろうは、その光景を前にただ立ち尽くすことしかできずにいた。

 四六時中浮かべていた微笑みが鳴りを潜めても、泰然自若とした態度が崩れても、思考だけはひどく冷静だった。だからこそ、彼は動かない。動けない。

 この惨状において、己にできることなどないと理解してしまうから。

 そうして黒縁眼鏡の奥から地獄を眺める彼の耳に、聞きなれた怒声が飛び込んでくる。

「何をしている! 呆けるくらいなら脇へ退いていろ!」

 天空から降る猛禽の鳴き声にも似たそれは、渡会わたらい綾子あやこのものだ。祐一郎と共に臨時本部を飛び出した彼女は、彼が呆けている間にスーツの膝が土と体液で汚れるのも構わず祈祷の体勢をとっている。

 聞きなれた怒声が、祐一郎の思考を現実へ引き戻す。数瞬の引き延ばされた思考の果てに怪我の程度を調べるくらいならできると判断し、彼は地獄へとさらに一歩踏み出した。

 刹那、背後から飛んできた声が彼の足を絡めとる。

「その判断は、間違いですよ」

 綾子の怒声とも、怪我人の呻き声とも異なる声だ。空気が悦びに打ち震えるかのような、穏やかで柔らかで甘やかな声音。

 地獄の入り口に、美の概念を濃縮して人型に成形したような少年が立っていた。アフロディーテも負けを認めるだろう美貌に、友達と談笑でもしているかのような穏やかな微笑みを浮かべて。

 パーツの一つ一つが性別の概念を消失させるほど美しいということを除けば、その少年の在り方は普通の一言で事足りる。ファッションも、髪型も、その態度も、年相応で分相応だ――――彼の立つ場所が、日常であれば。

 野戦病院もかくやという今この場において、正常と異常は逆転し、ジキルとハイドは入れ替わる。地獄において、常識とはすなわち非常識と同義なのだ。彼を平凡にして普通の少年たらしめている特徴は、何よりも雄弁に彼の異常性をうたっている。

 事実、助けを乞う声も、血濡れた体も、彼は炉端の小石程度にしか認識していない。暗闇を引き裂く文明の灯りの下、ダイヤモンドが霞んでみえるほどの輝きを放つ黒曜の瞳がそう物語っていた。

 「聞こえましたか?」

彼は言う。あくまでも穏やかに、どこまでも柔らかに、天使の歌とてこれほど心地よくはないだろうと確信させる声で。

「その判断は間違いです」

笑顔に陰りはなく、言葉に澱みはなく、態度に変わりはない。ペットに語りかけるように柔らかく、友人をからかうように軽やかに、彼――上留かみどめ美琴みことは、祐一郎を諫めていた。

「あなたが寄り添いたいのは、彼らではないでしょう?」

 甘美にして冷淡、妖艶にして無慈悲な光が美琴の双眸を満たす。それは全てを癒す薬湯、あるいは全てを融かす甘い毒。

 「上留美琴! 現れたのなら手を貸せ!」

苦痛を訴え、助けを求め、死を厭う声に満ちた空気を綾子が遠雷のように殴りつける。現状の緊迫を、この場所の悲惨さを謳うかのようなその声には未だ平時と同じだけの力が乗っていたが、一も二もなく助けを求めるやり方は平時とは異なる。それは、彼女もまた人間としての常識を持ち合わせていることの証明だった。

 だからこそ、綾子は気が付かなかった。

 美琴の目が、一度たりとも救済を求める者たちに向けられていないことに。

 その瞳は祐一郎だけを見ている。初めから彼は祐一郎のみに意識を向け、祐一郎だけに語りかけ、祐一郎の言葉だけを聞いていた。恋を知った幼子のように、子を慈しむ親のように。

 故に、美琴は言う。今の天気を答えるよりも簡潔に、将来の夢を答えるよりも純粋に。

「その必要はないでしょう、渡会課長」

手品を初めて見た子供のように、綾子は目を見開いて驚愕する。それでも、告げるべき言葉を取りこぼさなかったことは流石の胆力というべきか。

「何を言っている、貴様」

「僕の助けは要りませんよ」

美琴は言う。駄々をこねる子供を諭すように。

「誰も致命傷ではないのですから」

 少年じみた少女のような、あるいは少女じみた少年のような、虹色の微笑を街灯の輝きが頭上から照らす。舞台上のスターをスポットライトが照らすように。その光がアスファルトに描いた円の中には、美琴と祐一郎しかいない。

 その微笑が、冷気にも似た悪寒となって祐一郎の目を覚まさせる。深夜に寒さで目が覚めたときのような気分で、彼は目の前の少年を見下ろした。

 「芳賀沼はがぬまれいさんも、重傷を負っています」

足元が崩れるような衝撃をやっとのことで飲み下し、彼はその一言を絞りだした。

「それでも、助ける必要はないと?」

祐一郎の問いに対し、美琴は首を傾げることで返答に代える。それは、飼い主の言葉を理解できずにいる犬のように、純粋で無垢な疑問だった。

「ここにいる方々で十分に対処できるのに、わざわざ僕が手を貸す必要はないでしょう?」

次いで、そんなことよりも、と美琴は言う。

 苦痛に喘ぐ人間の姿を『そんなこと』の一言で一蹴して、彼は言うのだ。

「人形遊びの時間は終わりです」

神託を告げる預言者のように、判決を告げる裁判官のように、天使が鳴らすラッパのように、美琴は微笑んだまま、祐一郎に最後通牒を突きつけた。

 ブラックホールよりも黒く輝く双眸が、祐一郎を釘付けにする。目を背けることすらできず、玉虫色の微笑みもどこへやら、祐一郎は紳士服売り場のマネキンと化した。

「あなたも、そろそろ自分の足で歩くべきですよ」

美琴が一度瞬きをする。

 世界が暗転する。

 一瞬の後、祐一郎は暗闇の中に立っていた。

 水と草の香りが鼻腔をくすぐる。水分を含んで冷えた空気がスーツにまとわりつき、彼の体感温度を少し下げる。耳の奥に残った嗚咽は水音に溶け、ただ眩暈にも似た困惑だけが彼の頭蓋を埋め尽くした。

「美琴さん、これは一体」

そこまで口にして、祐一郎はあの人間離れした美貌がどこにも見当たらないことに気がつく。一本ずつ漆塗りしたかのような黒髪の一房たりとも、暗闇の中には見当たらない。

 愕然と、祐一郎は口を開けたまま黙り込んだ。

 少しずつ暗闇に慣れてきた目が、茂る夏草と川面の区別をつけ始めた頃、ようやく祐一郎はスマートフォンを取り出した。

 地図アプリに表示された現在地は、包囲作戦の現場であった横崎市中心部から三キロほど離れた河川敷。現代科学がその粋を集めてなお辿り着くことができずにいる領域を、上留美琴という少年は呼吸をするようにやってのけたのだ。

 全能――――美琴の背負うその二文字の意味を痛感しながら、祐一郎はスマートフォンの光を消した。

 無用になったからでも諦めたからでもなく、視界の端で人影を捉えたからだ。彼は別段やましいことをしているわけではなかったが、ビルを易々と飛び越えて現れた人物に、堂々と姿を晒す気にはなれなかった。

 空いた手で眼鏡のフレームを掴み、外す。

 それは単純な儀式だ。彼が常識という陸地を出て、異能という大海へ踏み出すための汽笛。眼鏡という錨を取り払われた目は、あらゆる障害を捩じ伏せて見たいものを映し出す。

 そして今、彼の視界はぐんと拡大され、現れた人影を至近距離で捉えていた。

 そこにいたのは、街灯のない暗闇の中にあってなお黒々とした闇を体現する雨合羽。

 ――――強盗犯。

 そう直感した時点で、彼の視界はもんどりうって転がっていた。

 雨合羽の人影が、尋常ならざる速度で跳躍したのである。視界を人物に固定していたことが災いし、祐一郎の世界もまたそれに引きずられて跳躍させられたのだ。交通事故でも起きたかと錯覚するほど強烈な揺れに耐えながら祐一郎は視界を引き戻すが、時すでに遅し。

 意識は波間の枯葉の如く翻弄され、肉体は束の間平衡感覚を失って膝をつく。そして、暗闇が溢れた視界には、こちらへと襲い来る雨合羽。

 つがえた矢のように引き絞られた拳が、定規で引かれた線よりも真っすぐに祐一郎へと迫る。

 それは地を駆ける狼の顎。空駆ける鉛の砲弾。

 命を喰らわんと迫る、死神の鎌だ。

 だが暗闇を穿って奔る肌色の弾丸は、虚空で停止した。

 突如運動エネルギーがゼロになったかのように不自然で、見えない壁にぶち当たったかのように不可解で、巨大な手に握り潰されたかのように不可説な静止。

 雨合羽の人影は、夜空に浮かびあがる星座の如く、星明りのもとで殴りかかる一歩手前の格好のまま停止していた。

 「仕方のない人ですね」

声の出所を探して振り返った祐一郎は、後方の暗闇で佇む太陽を見つけた。それは見る者の脳を直接殴りつける微笑みを浮かべた、線の細い人影だ。

 これ以上ないほど可愛らしく、例えようもないほど格好よく、どうしようもなく美しい。夜の河川敷がまったく似合っていないようで、言いようもなく似合っている。ただそこにいるだけで祐一郎の脳髄を絶え間なく揺らすような姿が、そこにはあった。

 夜の闇よりも黒く、漆器よりも艶やかな黒髪を揺らして、その人物はゆったりと歩み寄ってくる。その足取りは殺されかけた知己を前にした者のそれではなく、むしろ寺社を見て歩く観光客のそれだ。

 「助かりました、美琴さん」

ほっと胸を撫でおろしながら、祐一郎は立ち上がると同時に呟く。思考にかかる靄を払うように、少しだけ力強く。

 「正念場ですよ」

けれど、美琴は祐一郎の感謝など意に介した風もなく告げる。

 そうして、静止したままだった雨合羽の人影を遠くへと放り投げた。

 否、祐一郎の眼前に佇む彼自身は、指一本足りとも動かしていない。故に、正確には人影が勝手に飛んで行ったと表現した方が正しい。だが祐一郎には美琴が飛ばしたのだという確信があった。

 茂みの向こうへと弧を描いた人影が、次の瞬間には直線で戻ってくる。それを透明な壁で弾き返し、地面に叩き伏せ、川へ投げ込む。何度も、何度でも、雨合羽の人影は黒髪の少年を狙うが、彼は微笑を浮かべる余裕を絶やすことなく、その全てを迎撃する。

 その間、彼は特段動く様子を見せない。祐一郎のように眼鏡を外すこともなければ、伊乃里のように髪を結び直すわけでもない。ただそこに在るだけだ。夏草が人影の突進を避けて逃げ惑う中で、そよ風に髪を遊ばせて。

 ただそこに在り、思考する。祝詞も、呪符も、儀式も要さず、上留美琴という存在はあらゆるものを圧倒するのだ。

 雨合羽の独り相撲にも見える戦闘の最中、棒立ちでそれを眺める祐一郎へ、美琴は視線を向ける。

 「言ったはずです。

そして、世話の焼ける友人にノートを貸すときのような調子で、彼は告げた。

 失念してはいけない。

 河川敷の冷えた空気に解れて消えたはずの一言が、祐一郎の耳にこびりつく。

 聞き覚えがある。

 そう、祐一郎は記憶の手触りを確かめる。

 失念してはいけない。

 失念してはいけない。

 失念してはいけない。

 ――――

 その問いの答えは、ほどなくして脳裏から現れた。

 それは、今目の前に広がるのと同じような暗闇だった。

 一つだけ異なるのは、佇む美琴を街灯が照らしていたこと。その光で黒髪をキラキラと輝かせながら、彼は祐一郎に向かって言い放った。

 曰く、『犯人は間違いなく彼女です』と。

 「――――あやめ」

 知らず、祐一郎の唇からその三音が滴り落ちた。

 水面を同心円が広がるように、問いが彼の思考を埋め尽くす。

 何故、忘れていたのか。

 何故、気がつけなかったのか。

 何故、見えなかったのか。

 分かっていたはずだった。だからこそ彼は悩み、迷い、憂いていたはずだった。

 だというのに、何故。

 何故、雨合羽の向こうに彼女がいることを、今の今まで失念していたのか。

 「あやめ

もう一度、その名を呼ぶ。柔らかくうねる煉瓦色の髪、こちらを睨む鶯色の瞳、肉のない肢体、呆れたような低音、引き攣れるような笑顔――――取り落としていた一つ一つのピースを、丁寧に拾い上げるように。

 「菖」

三度目にその名を口にしたとき、祐一郎の目には見慣れた赤丹色が映っていた。

 少し先で直立する、夜空を映す川面よりもなお黒い雨合羽の下から、目を惹く赤毛が覗いている。

 それに気が付いたとき、祐一郎の足は動いていた。

 リハビリに励む怪我人のような足取りで、彼は神田かんだ菖へと歩み寄る。己を見つめる怯えた瞳を、真正面から見返しながら。

 「ユーイチ」

と、彼女は言う。その声は凍えたように震えていた。

「アタシは――――」

彼女の視線が地面へと落ちる。同時に彼女の言葉もまた勢いを失った紙飛行機のように墜落し、後にはただ雨の匂いにも似た余韻だけが残った。

 「すみませんでした」

その空隙を、彼は静かな謝罪で埋める。それは、訪問販売員が爪先をドアの隙間に差し入れるのにも似ていた。

 「お前は悪くねぇよ」

弾かれたように顔をあげ、菖は語気を荒げた。一日の閉幕を示すように下ろされた緞帳を引き裂いて、湿り気を帯びたアルトは響く。

「ずっと騙してたんだぞ。何回も、何人も殴って、金奪って、もうやりたくないって思って、でもダメで」

食いしばった歯の隙間から零れ落ちていく言葉が、頬を伝う水滴と共に顎から滴って地面に微かな跡を残す。

 それを、祐一郎はただ見ていた。

「自首もしようとしたんだ。でもできなかった。お前に甘えてたんだ」

川に沿って流れていく風が、雨合羽のフードを剥がす。少しだけ冷たいそれに耐えんと草が身震いする音の狭間で、彼女は微かに嗚咽していた。

「お前に気づかれるまではって言い訳して、いつも逃げてた」

「気づいてましたよ」

菖が落とした言葉を拾い上げて、祐一郎は微笑む。生徒にミスを指摘された教師のように、捨て猫に手を伸ばす子供のように。

 目を見開いて絶句する菖を見据え、彼は言葉を継ぐ。

「気づいていました。証拠こそありませんでしたが、これでも警官の端くれですからね」

「な、んで」

それは締めの甘い蛇口から水滴が滴るような問い。彼女のほっそりとした顎を伝う水滴と共に暗闇へ墜ちていくそれを、彼はあくまで平常通りの動作で拾い上げる。

「髪も、瞳も、言葉も――――君はとても綺麗で、だからこそ、ずっと見ていたかったのです」

「でも、アタシは」

「分かっています」

「だったら!」

少しだけ剣呑な光を帯びた声が下草を蹴り飛ばすが、すぐに行き倒れて土に還る。

「……君と同じです」

菖が喉の奥で詰まらせた言葉の先で、祐一郎は目を伏せた。

 その様は、十字架の前で跪く信徒ではなく、ギロチンを前にした罪人を思わせた。

 「勇気も、覚悟もなかった。だから目を背けた」

言い訳と思考停止の果てに、彼らはここにいる。

 菖の後ろに築かれた怪我人の山も、己に刻まれた無能と不要の烙印も、祐一郎には見えていた。それと向き合わなかった結果が、この夜の闇なのだと理解している以上、彼は何も言わない。

 助けてくれ、とも。

 助けてあげる、とも。

 少し離れた土手に寝転がる少年ならばあるいは、と縋る己を握りしめたまま、彼は黙って菖の顔を見る。

 そうして、笑うのだ。

 何もかも見落としてきた彼にできるのは、それだけだ。

 「同罪ですよ、私も、君も」

そうして、言うのだ。 

 何もかも取り落としてきた彼の手に、最後に残った言葉を。

「だから、償うのも一緒です」

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