CHAPTER23 2018年5月31日午前1時3分
「そんなことはどうでもいいんだよ」
事の顛末を一言一句正確に表現してみせていた
日本人離れした銀色の髪が慣性で体に巻き付くのもお構いなしに、智音は急制動をかけて回転を止める。そうして、彼女は蜘蛛を思わせる上半身を机の上に乗り出した。
「問題は、どうしてそうなるかってことさ」
「そうだろうね」
美琴はクスクス笑う。たったそれだけの動作にもかかわらず、常人ならば前後不覚に陥りかねない魅力を秘めている。
もっとも、今彼に相対しているのは専門家である。その程度の簡易的な精神干渉に負けるような人物ではなかった。
それがわかっているから、美琴の方も遠慮のない言動をしているのである。
「僕からあげるヒントは一つだよ」
「いいだろう、受けて立つとも」
爛々と輝く琥珀と、穏やかに煌めくブラックダイヤモンドが真正面から視線を交わす。その間を、
「異能の強度を度外視したのは、失策だったね」
いたずらっぽく笑って、美琴はそれだけ言い放つ。
一方の智音はと言えば、深刻な表情で黙り込んだ。ほどなくして、再び椅子が彼女を連れてクルクルと回転を始める。
次に回転が止まったのは、コーヒーが湯気を吐き出し終えた頃だった。
「そうか、だから河川敷に現れるまで待ったのか」
「河川敷、ですか?」
と、淑やかな声音で伊乃里が解説をねだる。しかし、アンティークのカトラリーみたいな色の蜘蛛は、ソファに座るしなやかな長身を一瞥もせずに美琴を見ていた。
「そういうことだろう?」
「流石だね」
不意打ちのように問いを向けられても、美琴は動じることなく黒髪を縦に揺らす。それが、琥珀色の双眸にさらなる光を点した。
「あれは誘導したのかい?」
「いや。毎回、彼女は盗品をあの川に投げ捨てていたから」
「なるほど、その習慣を利用したのか」
そして、顔中に疑問を浮かべたい伊乃里を見やり、笑うのだ。
「
そこで智音は一拍沈黙し、舌なめずりをした。
「一方で、『昼間はどこに潜んでいるかわからない、正体不明の凶悪強盗犯』というイメージを馬鹿正直に再現していれば、五課は長沼菖という人間に辿り着くことすらできなかったはずだ。でもそうはならなかった。ということは、早く捕まって欲しいという人々の願いも反映されてたんだろう。美琴ちゃんの話からすれば、長沼菖自身のもうやめたいという思いも反映されてたかもしれない。――――と、ここまでが前提の話だ」
口を閉ざした智音から向けられた視線に、伊乃里は頷くことで応える。
伊乃里が話についてきていることを確認し終え、智音は再び喜色満面といった声音を垂れ流し始めた。
「そもそもの話、不特定多数を相手にする異能を作り出すのは非常に難しい。その異能が影響を及ぼせる範囲の広さを異能の強度と呼ぶんだが、大抵は自分を含めた二、三人程度が関の山。伊乃里ちゃんの異能だって他から見れば例外的な強さだが、それでも声の届く範囲がせいぜいだろう? 日本中の人間から己へのイメージを掻き集めるなんて、正気の沙汰じゃない。だから、長沼菖に限ってそんな芸当が可能だったのは、他者が強盗犯に向けるイメージをテレビやSNSを通じて収集出来たからだ」
そこで、智音は珍しく大きなため息をついた。やれやれと言わんばかりに額を抱え、反省なのか落胆なのか分からない感情を昆虫のような全身で表現する。
「と、思っていたんだ。そして恐らくその推論は間違っていない。とはいえ、だからと言って異能の強度を無視していい道理はないんだ。いいかい、長沼菖はSNSやなんかを通じてイメージを収集していた。だがそれだけだ。本来は周囲にいる人間からイメージを収集する異能なんだよ。それは裏を返せば、周囲に人がいなければイメージを収集できないということでもある」
そこで言葉を切った智音の狙い通りに、伊乃里は息を呑んだ。
すっかり冷めたコーヒーを啜る美琴にはもう目もくれず、智音は続ける。
「大勢の警官で囲う五課のやり方は逆効果だったんだ。あのとき、長沼菖は雁首揃えた警官たちが抱くイメージを、恐怖を吸い上げてより強大な強盗犯になった。
全体重を預けられた背もたれが微かな悲鳴を漏らす。
それが虚空に溶けてから、智音は天井を見上げて言った。
「あーあ、まったく失態だよ」
それは雨で遠足が中止になった子供のような態度だ。
それを苦笑でやり過ごしてから、それまで静かに話を聞いていた伊乃里は少しだけ安堵の滲んだ声で呟いた。
「でも、自首してくれてよかったです」
「証拠不十分で不起訴だろうがね。狐野郎もまあ、癪な話だが腐っても十簑の血筋だ、クビにはならないだろうさ」
微笑む伊乃里にバケツで冷水を浴びせるような言葉が、対面の事務机から飛んでくる。智音である。
既に興味は失ったのだろう、彼女は娘の方を見ることもせず、椅子を回転させて遊んでいた。
伊乃里の方はと言えば、その言い草を気にする様子はない。けれど疑問を浮かべて首を傾げていた。
「証拠不十分ですか? そんな風には思えませんが……」
「いや、不十分さ。何せ何もかも消えてしまったんだから」
心底おかしいと、智音は喉の奥で笑う。
「五課の連中が必死にかき集めてた証拠――伊乃里ちゃんを使って集めた証言もそうだが――はね、綺麗さっぱり消えたんだ。大方、包囲作戦も失敗して、世間が『どうやっても捕まらない』と考え出したからだろう」
それっきり、古びた結婚指輪のような色をした蜘蛛は口を閉ざした。
性能の低い人工知能のように脈略も相手の感情も無視した会話の終わりだった。
放り出されてしまった伊乃里は、縋るように隣の少年へ目を移す。
空になったマグカップを両手で抱えた美琴はと言えば、シャンと伸びた姿勢の上から発せられる子犬のような視線を受け止めて小首をかしげた。
遭難した矢先に豪華客船に拾い上げられた彼女は、眉尻を下げたまま口を開いた。
「どうにかして有罪にできないのですか?」
「違法だというからには、その法律で裁かないとね」
天気の話と同じ軽さで返された言葉が、伊乃里の唇を糊付けした。
特定の法律に違反したことを問題にする以上、その法律に基づいて裁かなければ筋が通らない。端から法を用いないなら、違法の概念もあり得ないのだから。
伊乃里が己の不明を恥じる間、飾り気のない本棚で囲まれた事務所の中に沈黙が下りる。
その緞帳をあげたのは、やはり伊乃里だった。
「では、この先も強盗は続くのでしょうか」
密やかな呟きが空間に同心円を描き、周囲の鼓膜を震わせる。
「いや」
それに答えたのは、怖気がするほど美しい調べ。
美琴は、マグカップの底に引っかかった僅かなコーヒーの残りを見下ろしたまま、穏やかに告げた。
「器の大きさは決まっているからね。主観を入れておく覚悟さえあればあんなことにはならない。……もう心配はいらないよ」
芳賀沼探偵事務所の事件手帖 奥野 @o-kuno
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