CHAPTER20 2018年5月30日午後11時23分

 「出ました」

朝霞あさか祐一郎ゆういちろうがパイプ椅子の上で声をあげたのは、午後十一時半を回った頃だった。

 立て板に水を流すような調子の低音が、雑居ビルの空きフロアを貸し切った五課の臨時本部に染み出す。日が暮れかけた頃から強盗犯の出現を見張り続けていた捜査員たちは、その疲労故に反応が遅れた。

「どこだ!」

 その中にあって、渡会わたらい綾子あやこだけが間髪入れず怒声が飛ばす。その声はまるで急降下してくる猛禽の咆哮の如く高らかに空間を裂き、待機していた人々の姿勢を正させた。

「四丁目東部、歯科医院裏の路地です。最も近いのは三班でしょう」

芳賀沼はがぬま!」

再びの怒鳴り声が響いた時点で、芳賀沼れいは窓枠を蹴り飛ばしていた。

 街灯を蹴って通りの向こうに屹立するビルの屋上へ飛び乗ると、数時間ほどの待機で固まった体をほぐすように加速していく。人間の営みが生み出す輝きを置き去りに、彼女は暗闇を穿って疾駆した。

 道路では、点在していた捜査員たちの間に生まれたざわめきが一般人にも伝播して大きなうねりとなりつつある。大量の捜査員を投入しての大規模な包囲作戦とあって、巨大なカメラを担いで捜査員を追いかける姿も散見された。

 彼らも、そして戻も、追っているのはただ一人。

 その姿を探して、戻はポニーテールが垂れ下がる暇もないくらいの速度でビルからビルへ飛び移っていく。

 〈戻さん、道案内をいたします〉

「頼んだ!」

右耳に差し込んであったイヤホンから鏡面のように凹凸のない声がする。己の身に宿した異能――『視る』力を用いて区画全体を精査していた祐一郎の声だ。一仕事終えた今、彼は戻のサポートに回るらしかった。

 屋上の縁を蹴り飛ばし、しなやかな肢体は夜の闇を裂いて跳ぶ。芳賀沼伊乃里いのりという人間が自己暗示の末に生み出した第二人格である戻は、己の肉体を十二分に使役する才覚と、人の域を超えた肉体性能を併せ持つ。飛び石のようにビルを蹴って進む程度の行為など、朝飯前なのである。

 その力を買われて、彼女は連続強盗犯包囲作戦に呼ばれたのだった。

 右耳のイヤホンから流れ出す道案内に沿って、彼女は闇色のキャンバスに流星の如き残像を描く。

 〈正面、路地の中です。降下してください〉

と、祐一郎の指示が届くが早いか、彼女は勢いそのままに屋上の暗闇から眼下の輝きへと身を躍らせた。

 着地と同時に索敵、視界の端に黒い雨合羽を纏った人影を認識する。

 刹那、彼女の足がアスファルトを蹴り飛ばした。

 猪の如き突進、体重と運動エネルギーの全てを乗せた拳を突き出す。虚空を穿ち抜いたそれを引き戻す動きを利用し、飛来した拳を避ける。

 いつぞやと同じ、どれだけ近づいても覗き込んでも晴れない暗闇が戻を見ている。フードの奥に目など認識できずとも、そう肌で感じるのだ。

 ひどく攻撃的な、それでいて虚ろな視線だ。戻の体を地面へ縫い留めるような異質で異様で異状な圧が、まるで死神のように黒い雨合羽の奥から視線を通じて彼女の胸を締め付ける。

 だから、己を鼓舞するように、戻は唇の端を吊り上げた。

 一度負けた相手だ、腰が引ければその時点で彼女はアスファルトに口づけすることになるだろう。その確信があるからこそ、彼女は笑うのだ。せめて形だけでも余裕を見せられるように。

「よう、強盗犯」

彼女は獰猛な笑いと共に呟く。低く、がなるような声が路地の暗がりに沈み込んでいく間、雨合羽の人影はじっと戻を見るばかり。

「今日の稼ぎはいくらだ?」

 飛んできたのは返答ではなく靴裏だった。

 一歩後ろに下がることでそれを躱し、戻もまた反撃に転ずる。理の外へ踏み入った存在を前に、拳の応酬は加減のしようもなく頭蓋の中身を沸騰させていく。

 殴り飛ばした次の瞬間、壁を蹴って襲ってくる。

 蹴り飛ばされたその足を、掴んで投げ飛ばす。

 殴り殴られ蹴り蹴られ、二人は体力を削り合う。絡み合う蛇のように、喰らい合う犬のように、命を対価に命を買わんとするオークションは白熱する。

 風切り音と打撃音が奏でる狂想曲は次第にテンポを上げ、余人は手を出すことの叶わない領域へと踏み込んでいた。

 各区域へ散らばっていた捜査員は徐々に集結し、コロシアムの観客のように路地を取り巻いてスクラムを組む。しかし、誰しもが武器を手にしながら、それを使うこともできずに呆然と立ち尽くしていた。

 既に周辺では五課によって人払いの結界が施され、一般人や異能とは無関係な警察官はこの区画を通過するどころか顧みることすらせずに去っていく。故に、今二人を取り囲む観客たちは全て五課に所属する警察官たちであり、不幸中の幸いというべきか、戻が路地から吹き飛ばされた際に巻き込まれた数人も、また五課の人間であった。

 木枯らしに弄ばれる枯葉と化した戻は、殺意のドッヂボールを前に呆けていた数名を下敷きにして着地――というよりも落下――した。

 止まった呼吸を無理に再開しようと喘ぐ彼女の視界には、ゆっくりとこちらへ歩み寄る雨合羽の姿。既に通りを照らす光が届く圏内に立っているというのに、雨合羽は北風に吹かれた旅人の如く闇を纏って離そうとしない。

 至らない呼吸を繰り返す度に激痛が胸を走る。肋骨の数本は折れているだろうと、彼女は想像する。同時に、折れた肋骨が彼女の闘争心燃料タンクに穴を開けてしまったことも理解した。

 打撃が重すぎる、と彼女は胸中で吐き捨てる。鉛の塊でも振り回しているのかと疑うほど、雨合羽の陰から飛び出してくる拳は重く、鋭い。いつぞやビルの屋上で殴り合ったときとは天地の差があった。

 よたよたと、ゼンマイが切れかけの人形よりも精彩を欠いた動きで彼女は体を起こす。強烈な吐き気に耐え、全身の鈍痛に耐え、膝を震わせる恐怖に耐えて、戻はもう一度立ち上がった。

 髪を束ねていたゴムが切れたのか、絹糸のような黒髪が首の後ろでばさばさと広がる。骨折箇所を庇いながら這うように歩く姿は、井戸の中から現れる女の幽霊を想起させた。

 あと一撃でも食らえば死もあり得るというのに、あと一撃すら避ける力は残っていない。今の戻はそこにあるだけの置物に近い。

 それを理解しているのか、それとも吹き飛ばした時点で興味を失ったのか、雨合羽の人影は既に戻など見ていなかった。

 戻と人影との距離が開いた時点で、捜査員観客の中でも判断の早い者は動き出していた。式神、あるいは異能、あるいは拳銃。それぞれが最も有効と判断した武器を駆使して犯人の確保を試み――――そして失敗していた。

 雨合羽を翻し、その奥でとぐろを巻く闇を見せつけるように人影は駆ける。式神を食い破り、異能を跳ね除け、拳銃を躱し、その先に立つ人間を殴り飛ばす。

 彼女が立ち上がるまでの僅かな時間で、捜査員たちが築いた包囲網は使い物にならなくなった。これまで多くの異能犯罪者を取り押さえてきたプロフェッショナルたちは、その半数近くが酔っぱらいのように道端で蹲っていた。

「……あのクソ引きこもり、ちょっとくらい助けろよ」

 脳裏をよぎるは、この世のものとは思えない美貌の少年。感情の読めない微笑を浮かべたその顔に向けて恨み言を吐き出して――――悲鳴の中心に居座る人の形をした嵐めがけ、戻は地面を蹴った。

 足の骨にヒビでも入ったのか、いつものような踏ん張りが利かない。

 それでも。

 それでも。

 それでも。

 自分以外に止められる者はいない、その事実だけが彼女の背中を押す。

 数メートルを一息に走り切り、そのエネルギー全てを乗せて体当たり。

 次の瞬間、壁に叩きつけられた衝撃で、戻の意識は吹き飛んだ。

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